Transcript メディア理論2
主題1:マクルーハン理論 メディア論の共通フレーム 〈出発点:問題意識〉 M.マクルーハンやW.オングら20世紀メディア論の共通の語りは、メ ディアという視点からみれば、〈近代社会=活字(文字特化社会)= 視覚一辺倒の文化〉という図式に反発し敵として想定している。 〈声〉の文化的位相を評価的に位置づける。(共通フレー ム) 文学研究者である彼らが、文学の基盤である印字・出版文化による 〈感覚のフォーマット〉の衰退や単機能化を嘆き、古い時代の感覚が 汚れていない、全感覚が解き放たれていた時代、つまり中世社会や 部族社会や共同体社会に憧れるという図式を共有していた。 加藤晴明(2001)『メディア文化の社会学』63頁 マクルーハンの経歴 1911〜1980 (69歳) キャリア: 1911:カナダのエドモントン生まれ。 カナダの大学 ケンブリッジ大学で英文学の博士号 北米の大学で教壇 カナダトロント大学を拠点(トロント学派) 「文化とテクノロジー研究所」(1963) →電子メディアによるコミュニケーション革命の拠点とした。 『機械の花嫁』(1951)〜広告論 『グーテンベルグの銀河系』(1962)〜活字論 『メディアの理解〜人間拡張の原理』(1964)〜汎メディア論 …ベストセラー、マクルーハン旋風(1967)→翻訳が次々 論述の特徴 論理的・分析的ではない。 詩的・直感的 トピック的な文章 話ことば とぎれがなく、あいまい エッセー集 メディアはメッセージ ここには、4つの定理が含まれている。 (1)メディアこそが調査すべきもの。 内容ではなく、形式・構造・フレーム、つまりメディアに注意を払え。 (2)メディアと内容の関係を強調 コミュニケーションの形式は内容を変えるだけではなく、それぞれの形式 は特定の種類のメッセージに適している。“形式のなかの内容”が伝えら れる。 (3)メディアと人びとの心との関係 メディアは使う人間の知覚習慣を変える。色めがねで見る。メディアは内 容を伝える過程で人びとの感覚に働きかける。「メディアはマッサージで ある。」 (4)メディアと社会の関係 文明の進歩はその社会を粉々にする。メディアは社会をマッサージする。 メディアはメッセージ メディア= 人間の経験や社会関係を構造化する力をもつ 人間の感覚器官・ 運動器官 外化作用 メディア 反作用 感覚比率の変化 新しい感覚 メディアはメッセージ 〈話し言葉〉 人間の五感すべてを外化したもの。 五感すべてを同時に働かせた全体的経験 同じ空間にいる全ての人に聞かれる →親密な相互依存関係 写本:まだ口語的…音読されたため視覚が他の 感覚から切り離されなかった。 〈文字・活字〉→活字人間 視覚を他の感覚から切り離す。 黙読・・「個人主義」 均質性・画一性・線形性・連続性・反復可能 性 携帯可能性→人間を親密な関係から解き 放す。想像の共同体 国語・国民(ネーション)・・「ナショナリズム」 メディアはメッセージ いかなるメディアの場合でも、それが個人および社会に及ぼす結果というものは、 われわれ自身の個々の拡張によってわれわれの世界に導入される新しい尺度 に起因する。(7頁) 機械が人間関係のパターン化において細分的、中央集権的、表層的であったの に対して、オートメーションは深層的、統合的、分散的である。(7-8頁) メディアの内容がメディアの性格にたいしてわれわれを盲目にする(9頁) メディアの「内容」あるいはプログラムの組み方とは別個に、メディアの生態につ いての自覚が高まっている。(10頁) なぜメディアが社会的(socially)にメッセージなのか。(11頁) 最近のメディア研究の方法もまた「内容」だけでなく、メディアと特定のメディアが 作用する文化的マトリックスをも考える。(11頁) メディアはメッセージ 映画の誕生の瞬間は、われわれを機械主義を超えて成長と有機的な相互関係 の世界へと移し入れた瞬間であったが、その瞬間ほど、機械化というものが細分 化されて連続していることを生々しく示す時はなかった。映画はただ機械的に速 度を上げることによって、われわれを連結と連続の世界から創造的な構成と構造 をもった世界に運びいれる。映画というメディアのメッセージは線状の連結から構 成へと移行というものである。(12頁) キュービズムは…遠近法の幻想を捨てて全体の瞬間的知覚を取る。…連続性 が瞬時性に道を譲った… 電気の速度と全体的視野が得られる以前には、「メディアはメッセージである」と いうことは明らかでなかった。(13頁) メディアはメッセージ 十八世紀に文化的飽和に達したときフランス国民を均質にしたのが印刷したことばで あったそうである。フランス人は北から南まで同じ種類の人たちである。画一、連続、線 状という活字の原理が、昔の封建的で口謡的な社会の錯綜の上にかぶさっていた。 (14-15頁) 視覚と聴覚、存在を知覚し組織する手段としての書記と口謡。この二つのあいだの究極 の葛藤がわれわれを襲っている。(16頁) 知能テスト…。活字文化のバイアスに気づかないまま、検査者は画一的で連続的な慣 習を知能のしるしと思いこみ、それによって聴覚人間と触覚人間をはみ出させてしまう。 (17頁)……画一的、反復可能、均質化 アメリカは技術あるいは画一という形で文字文化を教育、政治、産業、社会生活のあら ゆるレベルに適用してきたのが、その文字文化に掛けた金がいまや電気の技術によっ て驚異にさらされている。(18頁) メディアはメッセージである 十七世紀の日本で貨幣経済というメディアの及ぼした作用は、西欧で活字という メディアが及ぼした作用と似ていなくもない。G・B・サムソンが書いているのである が、「貨幣経済の浸透は穏やかではあるが抗しがたい革命を引き起こし、封建政 府の崩壊と、二〇〇年以上にわたる鎖国ののちの外国との通商再開で頂点に達 した。」貨幣は人びとの感覚生活を再編成するが、それがわれわれの感覚生活の 拡張にほかならないからだ。(19頁) 印刷は一六世紀になると個人主義と国家主義を生み出した。(20頁) 人類は数世紀にわたって典型的で全面的な失敗を繰り返してきた。メディアの衝 撃を無自覚のまま従順に受け入れてきたため、いまやメディアはそれを使う人間 にとって壁のない牢獄となっていた。(21頁) すべてのメディアが人間の感覚の拡張であるが、同時に、それは個人のエネル ギーに課された「基本料金」でもある。それはわれわれ一人一人の意識と経験を まとめあげる。(22頁) マクルーハンの5つの定理 5つの定理 (1)紀元前1967年…全感覚が行動に参加した。 人間の認識と知覚は、自分の属している文化、自分たちがしゃべる言葉、自 分たちが接しているメディアによって影響を受ける。文化よってめがねを与え られている。 西欧の文字人…感覚が変わった。鈍った。 過去=部族社会は、全感覚的を動員する文化だった。例:イヌイットの狩り (2)技術は人生を模倣する。 テクノロジーは人間のなんらかの肉体的ないし心理的な要素の延長 私たちの延長された機能と感覚→経験の単一な共存的な場を同時的に構成 する。 →世界は“グローバル・ビレッジ(全世界村)”となる。 マクルーハンの5つの定理 (3)生命は技術を模倣する。 諸感覚全体、諸感覚のバランスを求めるが→メディアが違えば感覚 比率が異なる。 ホットなメディアと、クールなメディア (4)人間がアルファベットをつくり、アルファベットが人間をつくった。 印刷メディアのおかげで・・・ 抽象的、線的、断片的、連続的なやり方で世界を見る。各制度や学 校→印刷物の形式が思想の形式となる。 メディアはメッセージだ。 (5)1967年(現在)…全感覚が行動に加わることを望む。 活字による全感覚の圧迫の反動→聴覚、口、触覚、運動感覚 学生が作った映像作品 「伝えたい・伝えたい・伝えたい」(2002) メディアのモードを意識して、3つのモードでの伝わり方をあえて比較的に例 示した作品。 これ以外にも、無音・絵だけとか、文字だけとか、身体表現の力に焦点を当 てた比較作品なども作ったこことがあります。 「黄泉ラジオ」(2010) メディアを、こちら側と向こう側という2元論から見つめた作品。 メディアは、必ず、現今・此岸に対して、アナザーランド、彼岸という対比で捉 えられる側面がある。それは、メディアに必然的にまとわりついてくる、ある 種の幻想・幻影指向のようなものかもしれない。それこそが、メディア的という 特性でもあるだろう。 マクルーハンの典型教材 マクルーハンの最大のポイントは、彼のある種のロマンチックな全感覚礼賛論にあ る。 それは、今日でも、感覚の単一機能化への批判において、意味がある。 マクルーハンは、活字という単一機能への特化を憂いた。 現在なら、2次元への特化が敵として想定さるのかもしれない。 だが、2次元=記号化は、そうたやすく論破ではな敵ではない。 モダーン社会の宿命でもあるからだ。 「極北のナヌーク」(1922) この作品は、そうした現代の2次元的世界へのひとつの挑戦として描かれている。 われわれが忘れてしまった、感覚とは何か? マクルーハンのいう「全感覚」の格好の教科書的作品ということになっているらしい。 「極北のナヌーク」 ドキュメンタリー映画の出発点 サイレント78分 アメリカ 監督:ロバート・J・フラハティ ドキュメンタリー映画の父、ロバート・フラハティは、白銀の雪と氷に閉じ込められたカ ナダ北部の極地に、主人公ナヌークを長とするイヌイット(エスキモー)族一家が厳しい 大自然と闘い、環境に対応して生きていくさまを写しとった記録映像の原点。 フラハティは15ヶ月にわたって一家と生活を共にし、リアルで暖かいカメラの眼が写 しとった現実は、いかなる劇映画も及ばないドラマティックな感動を呼ぶ。ドキュメンタ リーというジャンルはこの映画から生まれた。(日野康一) ミニ記述(5点以下) 文明化・メディアの発達によって飼い慣らされる感覚 飼い慣れされていない私たちの感覚の野生とは? 全感覚の動員とはどういうことなのか? そんなことを考えるための「極北のナヌーク」 素朴に、私たちの感覚からして、 「驚き」や「気づき」を感じたことやシーンはなに か? メディアの定義 個性的な定義: メディアを情報の出所(でどころ)とは考えない。 ●マクルーハンには、二つの前提がある(らしい) (1)「わたしたちは自分が見つめるものになる。」 (2)「私たちは道具を形作り、その後、道具が私たちを形作る」 ・メディアは、「何かを気がつかせる」(make-aware agents)媒介物ではなく、 むしろ「何かを起こす」媒介物(make-happen agents)…芸術作品ではなく、道路 や運河に近い。 ・メディア(新しいテクノロジー)は、身体・精神・存在そのものの、あらゆる「拡張」 (extension)を意味した。 メディアは人間の拡張 服は皮膚の拡張である。 あぶみ、自転車、そして自動車は、人間の足の拡張である。 住居は、肉体の温度調整メカニズムの拡張である。 コンピュータは、私たちの中枢神経組織の拡張である。 メディアどうしの相互作用 交わるメディア=メディアどうしの相互作用 ・ひとつのメディアは別のメディアを「包含」(contain)する。 ・たとえば、電信は、活字を包含し、活字は話ことばを包含し、書きことばは、 話し言葉を包含する。包含されたメディアは、包含するメディアのメッセージと なる。 単独のメディア=〈話ことば〉 と 〈電灯〉 話し言葉(speech):話ことばは、思考を包含する。思考は言葉(non-verbal) をもちいない、思考のプロセスだから。ここで連鎖は終わる。 電灯(The Electric Light)…だれにも話かけない。自分だけで存在する。 メディアはマッサージ The Medium is the Massage. 1967 副題:「諸効果の一覧表」 『メディア論』の3年後に、クェンティン・フィオーレとの共著で書いたテレビ論 トリプル・プレー! 新しいメディア 新しい感覚比率 新しい環境 例:ラジオの登場で、ニュースの記述の仕方や、トーキー映画での映像の使われ方 が変わった。 例:テレビの登場で、ラジオに大きな変化が生じた。 「あらゆるメディアは、「マッサージ嬢のように」私たちを徹底的に叩きまくる」 地球村(The Global Village) テレビ・コンピュータ・高度に発達した遠距離通信メディア ▼ ・電子メディアの再部族化効果:世界環境は、人間と電子メディアとのさらに強 烈な相互作用を経て再編成される。 ・「人類という部族が本当の意味でひとつの家族となり、人間の意識が機械文 化から解放され、宇宙を自由に移動できる環境」。 ▲ その後のひとつのマクルーハン批判: コンピュータ・ネットワークによるさらに小さな世界への自閉 マクルーハンの反論(1967) 部族的な地球村は、いかなるナショナリズムと比べても、はるかに分裂的です。 紛争に満ちています。村の本質は、分裂であって、融合ではない。地球村は 理想的な平和や調和を見出すための場所ではない。その正反対です。 メディアの分類 マクルーハンは、 初めて、メディアや、メディアの相互関係を、 内容と関係なく、 独立した力をもつモノとして分類した。 マクルーハンが列挙したメディア 話されることば(悪の華?)/書かれることば(耳には目を)/ 道路と紙のルート/数(群衆のプロフィール)/衣服(皮膚の拡張)/ 住宅(新しい外観と新しい展望)/貨幣(貧乏人のクレジットカード)/ 時計(時のかおり)/印刷(それをどう捉えるか)/ 漫画(テレビへの気違いじみた控えの間)/ 印刷されたことば(ナショナリズムの設計主/ 車輪、自動車、飛行機/写真(壁のない売春宿)/ 新聞(ニュース漏洩による政治)/ 自動車(機械の花嫁)/広告(お隣に負けずに大騒ぎ)/ゲーム(人間の拡張)/ 電信(社会のホルモン)/タイプライター(鉄のきまぐれの時代へ)/ 電話(咆哮する金管か、チリンとなる象徴か)/ 蓄音機(国民の肺を縮ませた玩具)/ 映画(リールの世界)/ラジオ(部族の太鼓)/テレビ(臆病な巨人)/ 兵器(図像の戦い)/オートメーション(生き方の学習 ホットなメディアとクールなメディア 物理的信号の質や解像度によって分類する。 ホット:解像度が高く。画質がすぐれている。写真、ラジオ クール:解像度が低い。新聞、テレビ、電話、セミナー クールなメディアないし人間は、 人びとに参加と、インボルブメント(関わりあい)を要求する。 人びとが自分で解釈し反応する余地がのこっている。 ホットなメディアとクールなメディア ホット クール 単一な感覚を「高精細度」 (high definition)で拡張するメディアの こと。 与えられる情報量が少なく、聞き手が たくさん補わなければならない。 データを十分満たされた状態のこと。 参与性あるいは補完性が高い。 participation complection 受容者による参与性が低い。 共感 empathy(感情移入・共感) 熱いメディアを扱うと、結果として、いつ でも、共感あるいは参加を随伴すること はできない。 ただ一つの感覚を催眠状態まで加熱し、他の感覚を冷却すると、結果 的に幻覚が生ずる。 ホットなメディアとクールなメディア ホット(熱い)なメディア ラジオ/映画/写真/新聞 表音文字アルファベット 紙 講義 書物 先進諸国 都会人 ワルツ 交響楽の演奏の放送 眼鏡をかけた女 「男は眼鏡をかけた女に言い寄らない」 熱い文化 クール(冷たい)なメディア テレビ/漫画 象形文字、表意文字 石 演習 対談 後進諸国 田舎人 ツイスト、ジャズ 交響楽のリハーサル ユーモア・遊び いたずら・くつろぎ 黒眼鏡 「計り知れず近づきがたいイメージ」 冷たい文化 話ことばと書きことば メディアとは私たちが世界をいかに経験し、いかに互いに働きかけ、いかに身体感 覚(まさにメディアそのものが拡張する感覚)を用いるかという面に変化をもたらす 強力な動因である。 ●書き言葉に変形したとき、話しことばは聴覚空間の時代に備えていた資質を喪 失した。 ●書き言葉が話し言葉を身体感覚から分離した、ということ。 ●話し言葉がひとつの感覚に、つまり聴覚に限定された、ということ。 ラジオは話し言葉ではない。(私たちは一方的に聴くだけだから。)だが書き言葉と 同様に働き、話し言葉を包含する幻影を創造する。 ●視点は:メディアによって獲得するもの、喪失するもの 話されることば ・ある人気あるディスク・ジョッキー 響き渡るような声、あるときは呻くような声を出し、身を揺すり、歌い、独奏 し、吟唱し、飛びはねるといった具合に、たえず自分の動きに反応してい る。79 話されることばはすべての感覚をドラマティックに巻き込む…・感覚全体 が巻き込まれる…文字教養が経験の支配的な形式になっていない文化 では自然なこと 人間の耳…ラジオ受信機、人間の声…送信機に、喩えることができる ことば以前…叫び、不満のブーブー、身振り、指し図、歌とか踊り ▼ 空気や空間をことばのパターンに変える 言語は人間拡張の技術、言語が物を分割分離する。 書かれることば 表音アルファベット…その使用者に耳の代わりに目を与え、その使用者をこ だますることばの魔術の陶酔と親族の編目から解き放つのである。 表音アルファベットだけが「文明人」…書かれた法典の前に平等な個々人の 人…生み出す手段となった技術である。86 表音アルファベットは視覚の機能を強化し拡張するものであるが、文字文化 の内部で、それ以外の聴覚、触覚、味覚などの感覚の役割を縮小させる。 文字文化というものが視覚(アルファベットによって時間と空間のなかに拡張 された視覚)によって文化に画一的な加工をするものだからである。 電話 電話とともに耳と声の拡張がおこなわれる。273 電話は書かれ印刷された紙面とは違って、完全な参加を要求する。 多くの人びとが、電話をかけながら「いずら書き」しないではいられな い。この事実は、この目の特性と深くかかわっている。つまり電話は 複数の感覚と機能の参加を要求する。 なぜ電話は強烈な孤独感をひき出すのだろうか。…電話が鳴り出す と出る…ひとえに電話が参加的形態だという点にある。 電話は時と所をわきまえない侵入者で、これに逆らうのはむずかしい。 点視覚的プライバシーのあらゆる要請を無視する。280 ラジオ ●ラジオは大多数の人びとに親密な1対1の関係をもたらし、著者=話し手 と聞き手との間に暗黙の意思疎通の世界をつくり出す。直接的な側面。つま りは私的な経験。311 ・うわべは:個人対個人でじかに向かいあっているような、親密で私的な態度 ●もうひとつ、ラジオが識閾下の深層に働きかけるとき、そこには部族の角 笛や古代の太鼓が反響し合う世界が生み出される。これはラジオ・メディア の本質そのものであって、人の心と社会とをまったく一つの共鳴室に変えて しまう。311 ・究極的な事実:遙か過去史の忘れられた心の琴線に触れる魔術的な力を 識閾下の反響室なのだ。313 ラジオ(続) ラジオは古代の記憶、力、憎悪を呼び覚ます強力な機能をもつだけで なく、実はすべての電気的力やメディアに共通する脱中央集権化、多 元化の機能も備えている。(組織の中央集権化は、表音文字文化か ら生じる・・) ・ラジオは、私的なグループとも小さな社会とも、脱中央集権的な親密 な関係を容易に結ぶことができるために、プラトン的な政治の夢を世 界的な規模でたやすく実現することができる。 プラトン:都市の適切な大きさは、公共の広場で演説する人の声が集 まった全市民に聞こえるかどうかで決定できる。 テレビ ・ラジオは聴覚の拡張であり、高忠実度の写真は、視覚の拡張であり、テレ ビは、なんかずく触覚の拡張である。348 ・テレビは視覚的メディアというより、むしろ触覚=聴覚的メディアであって、 われわれのすべての感覚を深層の相互作用に関与させる。さまざまなタイ プの活字印刷や写真による純視覚的経験に長いあいだ親しんできた人び とにとっては、テレビ経験の共感覚ないしは触覚的深さが、彼らの常態であ る受身的、非関与的態度を滅茶滅茶にするように感じとられるであろう。 352 テレビは何よりも、創造的、参加的反応を要求するメディアである。 ケネディの葬儀…テレビが視聴者を複合した過程に関与させる比類のない 力をもつことをあらわにした。…全国民を葬式の過程に関与させるテレビの 力を顕示したのである。…われわれを深い感動に巻き込む。しかし、人を興 奮させたり、煽動したり、奮い立たせたりはしない。352-353 マクルーハンの意義 〈限界?or 特徴?〉 ユートピア的なテレビ論: 楽園→楽園追放を経て→ 〜再び楽園へ「グローバル・ヴィレッジ」、「いっさいの存在の究極の調和」 キリスト教(カトリック的)予定調和論/有機体論…方法論的な全体主義 〈意義〉 (1)メディア論という研究分野を開拓した。 (2)メディア史という視座を定着させた。…新しいメディアと人間の経験と社会の再編 ミニ課題:メディアを分類する