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中日比較文学研究
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「文学」概念は、どこまでを包括するも
のであるのか。
「文学研究」は、何を対象とする学問で
ある(べき)か。
近年における文学部の解体。文学研究の
再編成。

指定された課題論文を読んでくること。
 鈴木貞美(2009)「「日本文学」とは何か」『「日本文学」の成立』作
品社
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鈴木貞美(2009)「「日本文学」とは何
か」『「日本文学」の成立』作品社
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鈴木貞美(すずき さだみ、1947― )
日本近代文学研究者。
国際日本文化研究センター・総合研究大
学院大学文化科学研究科国際日本専攻教
授。
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『現代日本文学の思想―解体と再編のストラテジー』(トラ
ンスモダン叢書)五月書房 1992
『日本の「文学」を考える』角川選書 1994
『「生命」で読む日本近代―大正生命主義の誕生と展開』
NHKブックス:日本放送出版協会 1996
『日本の「文学」概念』作品社 1998
『梶井基次郎の世界』作品社 2001
『日本の文化ナショナリズム』平凡社新書、2005
『生命観の探究-重層する危機のなかで』作品社、2007
『日本人の生命観-神・恋・倫理』中公新書、2008
『「日本文学」の成立』作品社、2009
『戦後思想は日本を読みそこねてきた 近現代思想史再考』
平凡社新書、2009
『「文藝春秋」とアジア太平洋戦争』東アジア叢書:武田ラ
ンダムハウスジャパン、2010
はしがき―課題と構成、立場と方法など
序章 東アジア近代の知的システムを問う
一、「近代」を問いなおす 二、日本近代の知的システムの
特殊性 三、概念編成史の方へ 四、古典評価史再考 五、
文化諸制度の総体を問う
 第一章 「日本文学」とは何か
 一、中国の伝統概念と新概念 二、新「文学」のカテゴリー
三、ふたつの「文学」 四、“literature”と「文学」の出会い
五、最初期の「文学」 六、最初の「日本文学」 七、なぜ、
明治期まで「日本文学」は成立しなかったのか 八、なぜ、
江戸時代に近代的な「文学」が成立していたと論じられたの
か 九、なぜ、日本では言語芸術の観念が受け入れられたの
か 一〇、日本の「人文学」―ヨーロッパとの三つのちがい
一一、宗教をふくむ「人文学」 一二、バイリンガルの「人
文学」 一三、民衆文芸の位置
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第二章 「芸術」の近代的再編
一、ふたつの「純文学」 二、明治期の「純文学」 三、「純文
学」と「大衆文学」 四、「理学」と「哲学」 五、「天理」の分
解 六、「文学」の広義と狭義 七、「芸術」の再編 八、「美
術」の登場 九、「美術」の定着 一〇、ふたつのロマン主義 一
一、生命主義の渦 一二、「芸術」の近代的価値 一三、伝統的な
「美」とは? 一四、「芸術」と「人文学」の概念を転換する
第三章 近代化主義の迷妄から抜け出る
一、「言文一致」と「写生」 二、「情景」の成立 三、近代化主
義の迷妄 四、「写実」の行方 五、文化構造論の落とし穴 六、
音読と黙読について 七、リアリズム基準を解体する 八、分析ス
キームを再編する
第四章 文学改良と古典評価―その結びつき
一、国民文学としての『万葉集』 二、新体詩―詩歌改良運動 三、
戯作改良 四、方法としてのリアリズム 五、ロマンティシズムと
リアリズム 六、政治小説の理念 七、脚本と劇評の改良 八、
『源氏物語』の評価 九、『万葉集』と『源氏物語』評価の組み替
え
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第五章 北村透谷の「文学」観―宗教と芸術のあいだ
一、なぜ、透谷の「文学」観をとりあげるのか 二、透谷に
おける「文学」用法の変遷 三、考察―美と宗教と
第六章 幸田露伴の「美術」観―『風流仏』再考
一、最初期露伴を読みなおす 二、『風流仏』発端―「如是
我聞」 三、ストーリー 四、『風流仏』の近代性
第七章 明治期「言文一致」と「写生」―子規、独歩、蘆花
一、明治期「言文一致」神話 二、ヨーロッパの俗語革命と
中国、日本における読み書き言葉 三、明治期の「国語」改
良論とその後 四、「言文一致体」―その論と実際 五、
「言文一致」は庶民から―『ホトトギス』募集日記をめぐっ
て 六、近代以前の「言文一致」体―「~た」の性格
第八章 象徴主義へ
一、日本の古典芸術とロマン主義芸術 二、セルフ・
オリエンタリズム 三、象徴の価値転換 四、中世美
学は、いつ成立したのか 五、『新古今和歌集』の表
現論 六、ヨーロッパ象徴主義の導入 七、ロマン主
義から象徴主義へ 八、情調的象徴主義 九、日本象
徴詩の成立と古典評価 一〇、象徴主義受容―島村抱
月の場合 一一、「自然主義」の終焉
 第九章 「歴史」の歴史
 一、「歴史」概念の組み替え 二、「史」と「歴史」
三、近代以前の歴史叙述 四、明治期における歴史概
念の再編成 五、現代史の季節へ―久米邦武再考 六、
日本の歴史叙述の特徴
 あとがき
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「本書は、「日本文学史」などに用いられる
「日本文学」という概念が明治期に成立した
ものであること、それが宗教を抱え、かつバ
イリンガルな、国際的にユニークな「人文
学」であることを明らかにし、それが、どの
ように成立し、どのように展開したか、また、
その下位概念である「哲学」「史学」、文字
で書かれた言語芸術を意味する狭義の「文
学」のそれぞれについて、二〇世紀への転換
期までの軌跡を迫ったものである。」
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魯迅「門外文談」(一九三五)
→「近ごろの新しがり屋が古典を呼ぶのに用
いている「文学」という呼称は、〈「文学は
子游、子夏」からきりとってきたものではな
く、日本からの輸入品であり、英語の
“literature”の翻訳なのだ〉(竹内好訳)
と。」(p.36)
※『論語』(先進)「言語は宰我、子貢、文
学は子游、子夏」
言語:口頭での弁論
←→
文学:書かれた文字、文章による学問
■魯迅(本名、周樹人)
 1881年、浙江省紹興市の官僚の家に生まれる。
 1889年、南京の江南水師学堂(海軍養成学校)に入学。
 1902年、官費留学生として日本を訪れる。
 1904年、仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に留学
する。
 1906年、文学に転向して東京で生活する。
 1909年、帰国。中学校で教鞭をとる。
 1912年、南京において中華民国臨時政府教育部員となる。
 1918年、「新青年」に処女作『狂人日記』を発表。その後も
『孔乙巳』『阿Q正伝』などを発表。
 1936年、没。
◎士大夫層(官僚および読書階層)の「旧文学」(←魯迅)の変遷
劉宋
(五世紀)
『世説新語』第四章「文学篇」
→文学=「儒学のほかに老荘や仏教、また詩や批評文」
南宋
朱子学(朱熹)→「虚構を弄ぶことはもちろん、文章に価値を認めることに
も厳しい態度をとり、詩を書くことも「玩物喪志」として戒めた。」(p37)
陽明学(王陽明)→科挙受験のための勉強に堕した朱子学を批判
李贅(卓吾、陽明学者)→『水滸伝』などを「古今の至文」と賛美する
→危険な思想家として捕らえられ、獄中で自刎
袁宏道(中郎、李卓吾の影響を受ける)を中心に、当代のことばで個人の性
情をうたう公安派が起こる
袁枚→性霊説
(1930年代、中国思想の近代化のなかで、これを再評価する機運が起こり、
「陽明学左派」と呼ばれる)
朱子学の復権→古文辞派(古典への回帰)・考証学
→中国では、「文学」の語は、『論語』にいう「文学」の意味で流通。
明
明末
清
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魯迅日本留学
→帰国後、中国で「文字で記される言語芸術」としての「文学」の興隆に尽くす
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魯迅『中国小説史略』(1923~24年)
→「唐代「伝奇」を中国における虚構意識と文体意識を兼ね
備えた「小説」のはじまり」とする
↓
「この魯迅の定義にしたがうなら、中国では「文学革命」よ
りはるか以前、唐代に近代的な小説が生まれていたことにな
る。では、中国の近代「文学」は唐代伝奇にはじまるとすべ
きだろうか。」(p.39)
↓
「何をもって「文学」の近代性を定義するか、また、それぞ
れの価値づけや西欧のそれらとの細かなちがいを別にすれば、
詩も小説も、戯曲もまた中国にあったものだ。『隋書』経籍
志(六五六)で確立した四部分類法は、学問すなわち「文
学」を「経、史、子、集」に分類する。「経」は儒学書、
「史」は歴史書、「子」は「諸子百家」の書、「集」は詩文
の選集(アンソロジー)をさす。」(p.39)
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↓
「儒学の教えは経験的事実を尊重し、詩文も例外では
ない。夢も想像も経験したものなら書いてもよいが、
虚構すなわち嘘は厳しく退ける。それゆえ詩を除けば、
その価値は認められていなかった。士大夫層も「志
奇」や「伝奇」や噂話の類を楽しんではいたが、嘘を
嫌い、虚構を排する儒学の伝統的価値観が、これらを
ゴミために投げ捨てた。……元曲から、ごくわずかの
詞章が詩のアンソロジーに採られることはあっても、
戯曲の全体が読書の対象になることはなかった。つま
り、「文字による言語芸術」という概念と範疇は、
五・四運動のころにひろがり、そして、魯迅らが「文
学革命」運動をおこしたのだった。」(p.40)
1920年の上海租界
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○日本に西洋近代的な「文学」概念が導入されたのは、香港や上海
経由
19世紀半ばになると、新興都市上海で、プロテスタント系宣教師と
中国の若手知識人とが協力して、自然科学や人文系科学の書籍が次
つぎに漢訳され、幕末の日本に輸入された。
↓
だが、西洋近代的な「文学」概念は、中国では、すぐにはひろがら
なかった。にもかかわらず、日本ではいちはやくひろがった。なぜ
か。
↓
「「中国の士大夫層は自らの知の体系とその価値に自信をもってい
たがゆえにイギリスとのアヘン戦争(1840~42)に敗れても悠然と
していたが、日本の武士層はまさに武士であったがゆえに、また日
本が小さな島国であるがゆえに、植民地化の危機に敏感に反応し
た。」(p.41)
(※その他の原因については、後述)
夏目漱石『文学論』(一九〇七)
 「漢学に所謂文学と英学に所謂文学とは到底
同定義の下に一括し得るべからず」
 →中国語の「文学」と英語の“literature”とで
は、その意味がまったくちがう

 「文学」:『論語』(先進)にいう「文学は子游、
子夏」の「文学」
 “literature”:詩、小説、戯曲、そして感情表現を
主としたエッセイなどを意味する「文字で記され
た言語芸術」
■「文学」→“literature”へと概念が交代したという認識の誤り
根拠①:「今日の「文学」にも、「文字による言語芸術」という
意味のほかに、神話や歴史、地理をふくむ「人文学」にあたる意
味があることを考慮していないこと」(p.43)
 根拠②:「今日の「文学」概念のひとつになっている「文字で記
された言語芸術」が英語“literature”の翻訳語というのは、そのと
おりだが、それは英語“literature”の意味のなかでは比較的遅くで
きた狭義の意味であること。つまり、英語“literature”の多義性が
ふまえられていないこと。」(p.43-44)

↓
 「このふたつの誤りは、実は、あるひとつの事態をないがしろに
することによって生じている。その事態とは、英語“literature”が
中国語「文学」と互いに翻訳語になったということだ。なぜ、そ
れらが互いに翻訳語になったのか、それがよく解きほぐされてこ
なかった。」
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↓
「第一の人文学についていえば、もとは“the
humanities”の訳語で、神についての神聖な言語作品に
対して、人間についての言語作品と、それについての
批評や研究を包括する概念である。」
 「人文学は文学をふくみ、そのふたつは広義と狭義の
関係にある。」

↓
 「当時の日本における「文学」概念には、漱石が思っ
ているのとはちがって、もうひとつ、日本に特有の人
文学を意味する「文学」があった」。しかし、それは
「英語“literature”が中国語「文学」と互いに翻訳語に
なったときにつくられた概念だった。」(p.44)
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「近代ヨーロッパ語の“literature”は、広義、中義、狭
義の三層にわけて考えることができる。」(p.45)
①広義=文字で書かれたもの、著述一般(writings)
を指す
②中義=高尚な著作一般(polite literature)、高級な
文字文化、主に「人文学」を指す
③狭義=文字で記された価値の高い言語芸術
(literary art)を指す
「創造性と想像性を重んじるロマンティシズムの価値
観によって、ジャンルとしては、“poetry”(詩)、
“fiction”(novel,romanなど小説類)、“drama”(演劇台
本、戯曲)に感情表現を主とするエッセイを加える編
成が一般的」
○「今日、ヨーロッパの狭義「文学」研究を専門とする研究
者の多くは、一九世紀に入ると、この用法が一般的になった
と認識している。だが、一九世紀半ばのフランスで「想像的
な虚構の文章」を“littérature”と呼ぶ用法を新奇で曖昧だと非
難する知識人たちもかなりいたという。概念として一般に定
着するのは、もっと遅いと考えてよい。」(p.47)
↓
 「この狭義の概念が国際的にひろがるのに働いたのは、フラ
ンスの哲学者、イポリット・テーヌによる『イギリス文学
史』(全四巻、一八六三~六四。のち五巻)ではないだろう
か。これは、その序文に記された「決定論」―文学、芸術は
人種、環境、時代の三大因子と作家、芸術家の主要機能に
よって規定されるとする説―を国際的にひろめたことでよく
知られる。」(p.47-48)
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○英語“literature”と中国「文学」が互いに訳語となったのは、19世紀
中葉の香港など
↓
しかし、中国ではすぐには広がらなかった
「なぜなら、中義の“literature”は、狭義のそれ、すなわち文字で記
される言語芸術をふくむものだったから」(p.49)
ヨーロッパの言語芸術(詩、小説、戯曲など)は、「ロマン主義の
価値観により、創造性と想像力による虚構を重視するもので、その
価値観が当時、支配的だった儒学の精神、経験的事実を重んじる朱
子学とぶつかったからである。それゆえ、一九世紀半ばの中国南部
では、「文学」に狭義の用法は生じなかったか、生じたとしてもひ
ろがらなかった。“polite literature”のなかの詩、小説、戯曲を中心に
する狭義の“literature”は、ヨーロッパでも、一九世紀半ばでは、ま
だ一部の知識人しか用いていないものだったし、そもそも中国には
近代的な意味での「芸術」という概念(第二章七節で述べる)が存
在しなかったからである。」(p.49-50)
「では、日本では、なぜ、狭義の「文学」が
積極的に受け入れられたのか。」(p.50)
■「官報には一八七二年から「学芸詩歌」の意味で「文学」の
語が見られる。この「文学」は、“science and arts”の訳語
で、自然科学をふくめて学問芸術全般を漠然と指していう用法
と見てよい。」(p.50)
→「江戸時代の公認の学問だった朱子学―宇宙論や自然科学
をも包むような学問だった―をリセプターとして、広義、ない
しはそのうち高級なものに限定する中義の“literature”を受
けとめたことによってできた概念」
■文部省編纂『日本教育史略』(1877年)
(お雇い外国人、デイヴィッド・マーレイの提言。当初は1876
年のフィラデルフィア万国博覧会に向けて完成予定)。
→「文学」と「文芸」の歴史をまとめることを目的とする
○「文学」:習字、読書、作文(漢文から和文まで)
○「文芸」:歴史理学詩賦小説、画学、医学、薬物学、暦学
■榊原芳野編纂『文芸類纂』(1879年)
 →「字」「文」「学」「文具」の四部構成
■『古事類苑』(1879年西村茂樹の建議により着手、
1914年完成)
 「このような古典籍の編纂がなしえたのは、徳川時
代における考証学の展開によって、すでにかなりの
文献類の整理がなされていたからである。」
(p.52)(例)塙保己一『群書類従』五三〇巻
(1819年)
「これらはみな、それをなんと呼ぶかは別に
して、古代から行われてきた日本の学芸全般
を覆う概念のもとになされた事業である。こ
の漠然と学問教育の全般を指す「文学」の用
例は、明治中期まで、しばしば見かける。」
(p.52-53)
■福地桜痴による「日本文学」
 「公表された文章で、はじめて「日本文学」という語
を用いたのは、明治維新後八年、福地桜痴「日本文学
の不振を嘆ず」(一八七五)とされている。西欧知識
の紹介をはかるばかりの当代知識人の様子を嘆いて、
日本における、というより日本語による人文諸学、ま
た、とりわけ言語芸術の興隆を呼びかけるものだっ
た。」(p.53)
 《特徴》:言語ナショナリズム
 日本の「詩」から漢詩を除外
 「正史」がみな、漢文で記されていることを批判
 (つまり、『栄華物語』『大鏡』『平家物語』『太平
記』などの和文系の、物語形式をとった歴史叙述を
「歴史」から除外)
「明治初期の官報に記された「学芸詩歌」を意味
する「文学」や、『日本教育史略』、福地桜痴
「日本文学の不振を嘆ず」の「日本文学」、また
田口卯吉『日本開化小史』などによって、和歌や
物語、俳諧や戯作類をふくむ日本の「文学」とい
う概念がつくられていった。」(p.52-53)
■「東京大学」発足(1877年)
 「法・理・医・文」の四学部構成
 →学芸全般を意味する「文学」の用法は徐々に廃れ、ヨー
ロッパ人文学を模した「文学」の用法が主流化
 ○「文学部」構成

第一科=史学、哲学、政治学科

第二科=和漢文学科
■「帝国大学」として再編(1886年)
 法科、医科、理科、工科、文科の五大学から構成
 ○「文科大学」構成
 哲学、和文学、漢文学、博言学の四科でスタート、翌87年に
史学、英文学、独逸文学科を、89年に国史科を新設。和文学
科を国文科へ、漢文学科を漢学科へ改称。
 「「和文学」こそ、「日本文学」という概念の定着に決定的
な役割をはたした」(p.56)
■中学(エリート育成機関)用の「国文学」教科書編纂(1890年)
 芳賀矢一・立花銑三郎編『国文学読本』
 上田万年編『国文学』巻之一
 三上参次・高津鍬三郎著『日本文学史』:和製漢文を含むもので、
国学者流の和文主義を退けている
■文学全集(中学教科書用)の編纂(1890年)
 『日本文学全書』全24巻(博文館):史書を含む散文
 『日本歌学全書』全10巻(博文館):和歌のアンソロジー
 ※「あわせると、いわば日本で最初の「日本文学全集」となるが、
ここには日本人の書いた「漢文」はふくまれていない。」(p.57)
 ※「なお、新井白石、頼山陽ら日本人の漢文は博文館の「近古文芸
温故叢書」の内にかなり収められている。また、九二年より「支那
文学全書」全二四巻を刊行開始する。憲法発布、教育勅語の公布、
「国粋保存主義」を名のる政教社の台頭など、文化ナショナリズム
の興隆が背景にある。それは一国主義ではなく、アジア主義と漢文
学習のブームをともなうものだった。」(p.57)
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「明治期になるまで、和歌や物語、俳諧や戯作などは「文
学」と呼ばれたことも、それに類する概念でくくられたこと
もなかった。「文学」の語は、中国からわたってきた漢籍の
類、また、それを学ぶことにしか用いられていなかったから
である。この規範は強く、和歌や物語を「文学」と呼ぶ例外
的な事例さえ、まだ見つかっていない。/江戸時代まで、日
本の「文学」といえば、日本製の「漢詩文」を意味した。」
(p.57-58)
○漢文:公式の文章
○和文:歌謡や和歌を記すときだけ
※古今集仮名序→和文を和文の文体として成立させた
※『栄華物語』→権力が自らの正当性を主張する史書とし
て、和文体で編んだことは、画期的な出来事
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「戦乱の世をおさめた武家の政権が、日本の「文学」概念を
生まなかったのは、その安定のための知的システムを中国宋
代に確立した朱子学に求めたからである。……武家や武士が
和歌を詠み、物語を読むことがあっても、それらは「学芸」
ではなく、「遊芸」とされた。朱子学を尊ぶ人びとは、漢詩
も「遊芸」のうちに入れた。/その「遊芸」の世界は、公家
や武家、武士の上層がたしなむ「雅」と、民衆のたしなむ
「俗」のふたつにはっきり分断されていた。」(p.60)
■雅(公式)の学問:朱子学
■俗(民間)の学問:朱子学、陽明学、折衷派、国学など
伊藤仁斎:古義学
荻生徂徠:古文辞学派
石田梅岩:心学
本居宣長・平田篤胤:国学
往来物(手紙の文例集から、字引や各種のハウトゥーもの
へと発展)
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■雅の遊芸:和歌、物語、書、画、香、雅
楽、能、狂言、茶の湯、立花
■俗の遊芸:俳諧、草双紙、浮世草子、読
本、戯作、浮世絵、小唄、端唄、俚謡、
歌舞伎、人形浄瑠璃、煎茶道、講談、落
語、談義もの
「こうして、日本の「経・史・詩・集」の全体、
すなわち日本の「文学」にあたる概念は、ついに
成り立たなかった。」(p.62)

「第二次大戦後、江戸時代に、すでに広
義の「文学」概念が成立していたかのよ
うな説が近世「文学」全般によく通じた
中村幸彦によって出された。それを受け
て、明治期の「文学」によく通じた柳田
泉が、明治初期の「文学」の様変わり論
じた。近世、近代の「文学」研究者のほ
とんどが、彼らの説を吟味することなく、
その枠組が受けつがれてきた。」(p.63)
○中村幸彦『近世儒者の文学観』(1958年)
 →「徳川幕府お抱えの林羅山が朱熹の講義録『朱子語類』をふまえ
て道徳と「文学」の一致を説き、和歌や物語を論じていることから、
江戸時代初期の儒学啓蒙期に「勧善懲悪的文学観」が広がったとす
る。これに対して、伊藤仁斎の学風は、勧善懲悪の思想を否定し、
民間の読み物をわけへだてなく扱い、その学統に『源氏物語』や
「好色もの」と呼ばれた井原西鶴の小説や近松門左衛門の浄瑠璃、
中国白話小説を論評の対象とする人びとが出る。ここに詩歌、小説、
戯曲類を「俗の文学」とする概念が認められるとし、「人情的文学
観」とする。」(p.63)
 →「江戸中期について、学芸各ジャンルがさかんになったこと、と
くに荻生徂徠の学統の「文章」重視と風雅を尊ぶ気風がひろがった
ことをもって「風雅的文学観」の時代と呼んでいる。」(p.64)
 →「「雅」の「遊芸」の文字文化を「上の文学」と呼び、江戸時代
後期、とくに文化文政期に町人層の読み物として戯作類が発展した
ことをもって、それに対する「下の文学」の確立を唱えている。」
(p.65)

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

「江戸初期の山崎闇斎、藤井懶斎らの儒者が『伊勢物語』や『源氏物語』などをとりあ
げるのは、それらの「淫乱不道徳」を難ずるためであり、これを「文の道」から排斥す
る態度である。」(p.63)
「伊藤仁斎が勧善懲悪思想を否定したのも、やはり陽明学に学んだものである。」
(p.64)
伊藤の講義録『童子問』には「道徳を超えた近代芸術概念と見まがうような、また民間
の俗なものを分け隔てなく扱う態度」が見られるが、それは「あくまでも儒学の教えに
のっとった、心のレッスンのためだった。つまり、言語芸術に類する概念があったわけ
ではない。」(p.64)
(中村が「風雅的文学観」と呼んだのとは異なる態度も見られる→例えば)「中国清代
の詩人、袁枚の性霊説を受けとった山本北山が、詩は格律(リズム)や神韻(高い精神
の響き)を主とすべきではなく、清新性霊(ありのままの精神や感情)を主にすべきで
あると主張、菅茶山らが活躍し、個性豊かな詩が喜ばれ、各地に詩社が生まれ、漢詩が
一般士民のあいだに広く浸透し、徂徠派の詩風を一変させた。そして、歌人、香川景樹
が『古今和歌集』を尊重しながらも「今の世の歌は今の世の詞にして今の世の調にある
べし」と「調の説」を立て、和歌の現代性を強調する桂園派を起こした。」(p.65)
(「上の文学」「下の文学」という区分について)「そこには、比喩として、戦後の
「純文学」「大衆文学」図式がもちだされており、それを投影していることが歴然とし
ている。」(p.65)
「中村幸彦の『近世儒者の文学観』は、江戸時代のうちに
近代的な要素が独自に発展していたとする内在的近代化史
観に立ち、儒学の展開に、それを探ろうとしたものだった。
当時のカテゴリー意識や概念編成を無視し、近大の広義の
「文学」、狭義の「文学」を投影して、それに合致するも
のを拾い出し、「上の文学」「下の文学」の双方が、そし
てそれを統一する広い意味での「文学」が形成されていた
かのようにまとめあげたものだった。」(p.66)

「中村幸彦が江戸文学研究の道を歩みつつあった昭和戦前~戦中期に思
想・文芸界に登場した文化史観で、一九三〇年代後半に丸山真男が記した
一連の政治思想史研究(のち『日本政治思想史研究』一九五二にまとめら
れる)や、「日本文芸学」を名のる岡崎義恵らが芭蕉俳諧を近代象徴詩の
ように論じたこと、保田与重郎が上田秋成の小説『雨月物語』に日本独自
の近代小説の誕生を論じた「上田秋成」(一九三九、のち「近代文芸の誕
生」)などをあげることができる。丸山のそれは朱子学の体制が次第に崩
壊してゆく過程として江戸時代の政治思想史を想定し、吉宗の時代、荻生
徂徠の説く「聖人の作為による政治」にヨーロッパ絶対主義を投影し、そ
れが天皇主権論に傾いてゆく過程を、民間の本居宣長の神道思想や江戸時
代のうちにはほとんどひろがりをもたなかった安藤昌益の天皇制下の農本
主義共同体論などに探るもので、自分の思い描いたスキームに合致する思
想を拾い上げてストーリーを書くものだった。保田与重郎の『雨月物語』
評価は、ヨーロッパ・ロマンティシズムの幻想志向をアテハメるもの。仏
教を迷妄とし、それを排撃するために不可思議な出来事の裏面を暴露する
『春雨物語』(一八〇八頃)の方がより「近代」的リアリズムに近いと見
る向きもあろう。ただし、それも神道思想の「まこと」=事実性の考えに
立つものである。芭蕉俳諧を近代的な象徴詩として扱う態度の成立につい
ては、第八章で扱う。」(p.66-67)
「こうして、江戸時代には、学芸全般の意味にせ
よ、人文諸学の意味にせよ、また言語芸術の意味
にせよ、日本語による「文学」に相当する概念や
カテゴリーはついに成りたたなかったのであ
る。」(p.68)
柳田泉『明治初期の文学思想』(1965年)
 →「明治初期に流通した学芸一般を意味する「文学」に
よって、江戸時代の漢詩文を中心にする「上の文学」と、
詩歌、戯作などの「下の文学」のふたつの差が、〈明治
が深くなるにつれて、ほぼ平均化され〉てゆくと説明し
ている。そして、そこから学問が分かれ、ふたたび上下
に分かれるという。」(p.69)
「実際のところ、江戸時代の「文学」は、漢詩文
の範囲を指していう概念であり、それと「雅」に
属する和歌、物語を包括する概念はなく、まして
俳諧や戯作などをまとめて「下の文学」とする概
念も、それらをすべてひっくるめてひとつのジャ
ンルに括る概念も生じていなかった。歌や物語、
戯作などをも包括する「文学」概念は、ヨーロッ
パの人文学の範疇を指す“literature”を受容するこ
とによって、はじめて形づくられた。」(p.69)
 「中国と同様、江戸時代の日本においても近代的
な芸術概念は存在しなかった。」(p.69)





中国:想像力による虚構を尊ぶ言語芸術
を意味する狭義の「文学」は受け入れに
くく、それはひろがらなかった。
日本:言語芸術概念が受け入れられた。
↓
なぜ?
→【理由①】虚構に対する価値観の違い
 「日本では、平安時代後半の貴族のあいだに、史
官の記録をまとめた「正史」より、作り物語の方
が、人の心や事実の細部をそのまま記録し、伝え
るという価値観がひろがっていた。それは、虚構
のうちにこそ、なにがしかの真実味がこめられる
という観念を生んでいた。」(p.70)(例)近松
門左衛門「虚実皮膜」説
 【注意】日本における虚構の価値(規範を変化さ
せるものを尊ぶ。創造性と模倣性は対立しない)
 ≠ヨーロッパ近代のロマンティシズムの価値(独
創性を尊ぶ)
→【理由②】「ヨーロッパの人文学や文学に
よる言語芸術のそれぞれに相当するような、
あるいはそのようなものに容易に転化しうる、
それぞれのジャンルが展開し、また、詩、小
説、戯曲をひとまとめにするのに近いジャン
ル意識も芽生えていた。」(p.73)

【注意】ヨーロッパ近代における人文
学・芸術が、キリスト教会による支配からの
人間精神の自由を目指したのとは異なり、日
本・中国では、宗教から全く自由になろうと
する学問や芸術は生まれなかった。

■「日本文学」の成立における西洋各国「(人)文
学」とは相違する事態
① 「西洋の自国の「(人)文学」が基本的に神話
や宗教を排除しているのに対して、それがむし
ろ積極的に取り入れられていること」
② 「西洋の各国「(人)文学」は、各「国語」で
書かれた文献をその範囲とするのに対して、
「日本文学(史)」は、その根本精神を逸脱し、
漢文、すなわち中国語で書かれた著作を組み入
れて成りたっていること」
③ 「ヨーロッパの“polite literature”が排除する
“popular literature”を組み入れていたこと」

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
「日本の人文学」の範囲が、ヨーロッパ各国の
「文学史」が包括する人文学の範囲を逸脱してい
る
○ヨーロッパ人文学:キリスト教神学に対して人
間の言葉の領域を対象化
人文学を担当する学部は、神学部とは別に組織さ
れる
キリスト教の『聖書』は、人文学では扱わない
※ドイツを例外とする(ドイツ観念論によって、
人文諸学と神学は密接に関連する)
○「日本文学(史)」:古代神話に限らず、神道、
儒学、仏教などの著作を含む

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【原因】「これは、ヨーロッパ各国の「文学史」がナショナ
リズムとロマンティシズムとの結びつきによって、ギリシ
ア・ローマ神話や土地の神話・伝承(たとえば北欧で発掘さ
れたゲルマン神話)に題材をとる文芸作品を多くふくんでい
ることに範を求めたためだろう。ヨーロッパ近代においては、
キリスト教と、それが邪教とする異文化の信仰や民間信仰と
いう対立の構図が支配的で、後者が宗教学の対象とされ、そ
れらの信仰と結びついた言語作品や芸術作品が人文学の対象
とされる。」(p.76)
【経緯】
○1870年発布の大学設立計画=西洋の神学部に相当する「教
科」として「皇学」と「儒学」が構想される
○文部省内の洋学重視勢力の台頭によって(?)、実現せず。
→「皇学」と「儒学」は「和文学科」に吸収される
→日本の「(人)文学」は、内部に日本と東洋の宗教につ
いての学問を抱える編成となった
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「日本文学」は、言語ナショナリズムを
採用しなかった
→ほとんどの「日本文学史年表」には、
多くの「漢文」の書物がふくまれている
【原因】「これは日本の知識層が時代に
よる濃淡の差はあれ、古代からリテラ
シーにおいてバイリンガルだったことに
文化的基礎をもつ。そして、明治五年の
学制で中学の国語のうちに漢文をふくめ
たことに法制的な基礎をもつ。」(p.81)
【経緯】
■学制に導かれ、一時期、英学に圧されて衰退した「漢
学」は日本古典学習熱とともに一八八〇年代に復興する

【理由】
 公用語として硬い「漢文」読み下し体を用いたため、エ
リート層には「漢文」の習得が必要になった
 西欧列強に伍してゆくためには、学知の基本を「漢文」か
ら得てきた伝統に拠るしかなった
 西洋知識の理解と導入には、上海で漢訳された大量の英学
の知識が必要であり、かつ、それには儒学の概念が必須で
あった
 英語を身につけるのに、語順の似ている「漢文」の学習が
必須とされた
■一八九〇年に「日本文学史」が編まれ始める
 三上参次・高津鍬三郎『日本文学史』上下巻(最初の日本文
学史を自称)
 「西欧の一国文学史が自国語で書かれた作品のみを対象にし
て編まれていることをよく承知していながら、〈従来、国学
者が和文を誇張せしは唯、我古文学を以て、之を支那文学に
比較せし上のみの事なれば、其比較の区域甚狭し〉と批判し、
〈諸般の文学を総括して、これを我国文学の全体とし、之を
西洋各国の文学と対照比較する〉ことを主張して、「漢文」
を含める態度を明確にしている。」(p.81-82)
 【理由】「日本の知的な書物の多くが「漢文」で書かれてお
り、それを無視しては古代からの、すなわち西欧諸国よりも
長い伝統を誇る日本の「(人)文学史」が書けない、書けた
としても、はるかに内容が貧弱なものになるからだろう。」

■「今日、いわゆる複合国家を除けば、こ
のようにバイリンガルの「国文学史」を
もつ国は、日本と朝鮮半島のふたつの分
裂国家しかない。……そして、今日、ハン
グル主義の考えは、「朝鮮文学史」のな
かの漢文作品の軽視を進めているとい
う。」(p.83)
「日本文学」は、民衆文学を組み入れた
【経緯】
■福地桜痴・田口卯吉→江戸時代の民衆のあいだに行われた
「俗」の文芸を積極的に日本の「文学」の範囲に取り込む
 ■明治中期のアカデミズムに民衆文化を軽視する傾向が起こ
る(近松門左衛門・曲亭馬琴を除いて、戯作などの作品価値
を低く見なす)



 三上参次・高津鍬三郎『日本文学史』(1890年)→俳諧・井原
西鶴・江戸後期の戯作類を低評価
 芳賀矢一『国文学史十講』(1899年)→和文重視に大きく傾く。
江戸時代の「俗文学」を軽視する。
【原因】「国際的に誇りうる自国語の高級文化を押しだすこ
とが課題となっていたから」(p.85)
 ■藤岡作太郎『国文学史講話』(1907年)→日露戦争後のリ
ベラルな風潮の中で、民衆文芸を高く評価してゆく

「「日本文学史」の形成と展開の過程は、旧来の
知のシステムがヨーロッパからもたらされた新し
い知のシステムにとってかわられたわけでもない
し、新旧がそのまま併存していたわけでもない。
旧来のシステムが新来のシステムを受け取り、新
たなシステムに組み替えられてゆく相互作用のし
くみを見てゆくよりない。そこでは新旧のシステ
ムがともに組み替えられており、その組みかえに
は文化と歴史の条件が働く。」(p.86)
指定された課題論文を読んでくること。
 橋本萬太郎(1978)「結論」『言語類型
地理論』弘文堂
 村田雄二郎(2005)「漢字圏の言語」村
田雄二郎・C.ラマール編『漢字圏の近代
―ことばと国家―』東京大学出版会
 岡田英弘(1977)「真実と言葉」伊東俊
太郎・他編『講座・比較文化 第二巻
亜細亜と日本人』研究社