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中日比較文学研究 漢字文化圏とは何か 2 • 「漢字がそれと接触した土語を文字化してゆく機縁をあたえたのは、ひとり日 本語だけではなかった。ひろくシナ文化の恩恵に浴したかぎりのアジア諸民族 は、漢字とのめぐりあいによって、あるいは直接に、あるいは間接に、その土 語を文字であらわそうとする試みと経験をみせている。そういう意味で、シナ 文化の洗礼をうけたこれらの民族文化は、文字の面に即してみるなら、これを 〈漢字文化圏〉とよぶにふさわしい文化圏を形づくったといえるであろう。… /ひと口に〈漢字文化圏〉といったが、それはシナ本土を中心に、広大なアジ アの東方を占めるひろい地域にかぶさっている。まず、西はチベットにおいて インド文化圏と接し、一方、南へ延びては、ヴェトナムにおよび、ここでも、 カンボジア、ラオス、タイなどをおおうインド文化圏と接するが、チベットは もちろん、南方のこれらの土地でも、インド系文字が採用されていることに注 意しておこう。/さらに南にむかえば、そこはミンダナオ島、ボルネオ島、大 スンダ列島などイスラム・インド両文化圏の複雑に交錯する地域である。一方、 北に目をやれば、内陸アジアの高原地帯にモンゴル族やトルコ族など、遊牧民 族の舞台がひろがる。彼らのもつ遊牧的な性格は、シナ文化ときわめて異質で あったらしく、漢字文化は、その本質にまで浸透するにはいたらなかった。/ こうみてくると、漢字文化圏は、シナ本土の北、西、南方においてまったく異 質な文化とふれあい、そこにこえがたい境界をつくっているが、東方において は、がらりとその景観を一変する。そこには、漢字のよき受容者が待っていた。 こうして、漢字は東へ渡り、朝鮮半島を経て、いっきに〈日本語列島〉を洗い さってしまったのである。」(亀井孝他編『日本語の歴史2文字とのめぐりあ い』平凡社、2007年版、p.106-107) 3 • 「「漢字文化圏」という用語を最初に提案した河野六郎 執筆の『日本語の歴史2文字とのめぐりあい』昭和38年、 平凡社は『河野六郎著作集1、2』とともに重要」(中 村完「漢字文化圏の展開」佐藤喜代治編『漢字講座1 漢字とは』明治書院、1988.5、p.133) 4 • 「過去の東アジア文化圏の核心となる漢文の多様性をトータルに理 解するためには、従来よく用いられた漢字文化圏という概念は、必 ずしも適当ではない。問題はひとつひとつの漢字ではなく、漢字の 結びつけ方、すなわち文体であるからである。/従来、日本で漢文 というのは、もっぱら規範的漢文を指す用語であった。学校などで 習う漢文がすなわちそれである。しかし規範的漢文は、この地域の 共通言語ではあったが、それがカバーする範囲はきわめて狭い。そ の外には、より広い範囲で使用された変体漢文や、漢字から直接、 間接に派生したさまざまな固有文字による文章、さらには固有文字 と漢字の混用文がある。そしてそれらは、繰り返し述べたように、 互いに切り離すことのできない複雑な糸で結ばれているのである。 /近年、一国史観を脱し、東アジアの文化を総合的に考察しようと する試みが、さまざまな分野で行われているが、そのためには、漢 文を従来の規範的漢文のみにとどめず、漢字で書かれたすべての文 体をそこに含め、それら多様な文体の実態とその相互関係を解き明 かすことが必要であると考える。そのためには漢字文化圏よりも漢 文文化圏という呼称の方が、より相応しいであろう。」(p.229230) 5 • 金文京(2010)「漢文を書く―東アジアの多様な漢文世 界」『漢文と東アジア―訓読の文化圏』岩波書店 6 • 金文京(きん・ぶんきょう)〔1952― • 京都大学教授 • 中国文学専攻 〕 7 • 「漢文の訓読は従来、日本独自のものと思われてきたが、 近年、朝鮮、ウイグル、契丹など中国周辺の民族の言語 や中国語自体の中にも同様の現象があったことが明らか になってきた。仏典の漢訳の過程にヒントを得て生まれ た訓読の歴史を知ることが東アジアの文化理解に必要で あることを述べ、漢文文化圏という概念を提唱する。」 (帯より) 8 • • • • • • • • • • • • • 1.東アジアの詩の世界 ■東アジアの漢詩 閑山島夜吟 李舜臣(1545―1598) 水国秋光暮 驚寒雁陣高 憂心輾転夜 残月照弓刀 秋夕 白楽天(772―846) 葉声落如雨 月色白似霜 夜深方独臥 誰為払塵床 遊子吟 夏目漱石(1867―1916) 楼頭秋雨到 楼下暮潮寒 沢国何蕭索 愁人独倚欄 9 • 「国も時代も、おかれた状況のばらばらな三人、しかし その詩境はきわめてよく似ている。その理由は、これら の詩がみな形式的に漢詩のルールを守り、修辞、内容面 でも漢詩が規定する範囲内におさまるように書かれてい るからにほかならない。逆に言えば、約束事を知り、そ れさえ守れば、時代や国を超えて誰でも漢詩を作り、そ れを同じ約束事を知る人に理解してもらえる。」 (p.179) 10 • ■共通言語としての漢詩・漢文 • 「漢詩の押韻や平仄は、依然として唐代の発音によって 決められていた」 • →「後世の中国人にとっても、それらは自分の日常言語 とはかなりかけはなれたものであった」 • 「漢詩とは、少なくとも近世以降は、その当時の実際の 中国語とは相当に距離のある人為的な約束事によって成 り立っているのである。しかしだからこそ中国語を知ら ない外国人にも作ることができた。もし約束事が中国語 の変化にしたがって変わっていれば、中国語を知らない 外国人には作れなかったであろう。」 11 • • • • • • • • • • • • ■ホーチミンの漢詩 清明 胡志明 清明時節雨紛紛 籠裏囚人欲断魂 借問自由何処有 衛兵遙指弁公門 清明 杜牧 清明時節雨紛紛 路上行人欲断魂 借問酒屋何処有 牧童遙指杏花村 12 • 「漢詩、漢文の学習は、ふつうわれわれが外国語を学ぶ 時のように、文法と単語をおぼえ、文法によって単語を ならべれば出来るというものではない。その習得には、 まず儒教の経典や標準となる古典の名作を数多く熟読し て、それを自分なりに消化した後、それを真似るかたち で自分の言いたいことを書くのである。これがもっとも 効果的な方法で、現にこれまでずっと、この方法によっ て漢詩、漢文は学習されてきた。右のホーチミンの詩は、 わざと真似たパロディーで、極端な例であるが、煎じ詰 めれば漢詩、漢文の作り方とはこういうものである。」 13 • ■朝鮮の郷歌と日本の万葉歌謡 • • 薯童謡(『三国遺事』) • 善化公主主隠 他密只嫁良置古 薯童房乙 夜矣卯乙抱遣 去如 • • 天皇の、蒲生野(かまふの)に遊猟(みかり)したまひし時に、 額田王の作れる歌(『万葉集』巻一・二〇) • 茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布留 • あかねさす むらさきのゆき や きみがそでふる しめのゆき のもりはみず 14 15 • ■和歌・俳句と朝鮮の時調 • 『文集百首』←白楽天の漢詩を和歌に翻案したもの • 夜もすがら/月に霜をく/まきのやに/ふるかこの葉も /袖ぬらすらむ(慈円) • 声ばかり/この葉の雨は/古郷の/庭もまがきも/月の 初霜(藤原定家) • • 時(シ)調(ジョ)…ハングルの短詩 16 • 「このように慈円、定家、漱石、そして李舜臣は、漢詩 の世界と和歌、俳句、時調など固有語の詩の世界を各々 共有していたのである。これは各々の国で漢詩と固有語 の詩歌が長い間、交流した結果であった。ただし漢詩が 国を越えて東アジア世界で共通に理解されうるもので あったのに対して、和歌や時調は一国内でのみ享受され、 相手側にそのような詩型があるという事実すら互いに知 らずにいたのである。」(p.187) 17 • ■契丹語の詩と漢詩 • 契丹語の混淆した漢詩(宋・劉攽『中山詩話』) • 夜宴設邏臣拝洗 • 微臣雅魯祝若統 両朝厥荷情感勤 聖寿鉄擺倶可忒 • 「設邏、厚盛也」「拝洗、受賜」「厥荷、通好」「勤、 厚重」「雅魯、拝舞」「若統、福祐」「鉄擺、嵩高」 「可忒、無極」 • 18 19 • 契丹人、耶律楚材が、契丹文字で書かれた契丹語の詩を 「酔義歌」という漢詩に訳した(『湛然居士集』巻八) • 漢字とウイグル文字を混用し、漢字をウイグル語で訓読 みしたウイグル語の詩が作られていた(庄垣内正弘「文 献研究と言語学―ウイグル語における漢字音の再構と漢 文訓読の可能性」『言語研究』124、2003) • 日本の江戸時代に流行した狂詩 20 • 「このように東アジアの共通言語としての漢文、漢詩の 世界と、それぞれの民族の固有語、固有文字表記の世界 は、たえず交流し、多様で複合的な関係が生まれている。 /朝鮮半島の郷歌や万葉の和歌、または契丹語の漢字表 記は、すべて漢字で書いてあるが、中国人にはなんのこ とかわからない、自国人にしか理解できないもの、ある いは自国人であっても後世の人々にはわかりづらいもの である。それは、これらが漢字で書いてあるにもかかわ らず、漢詩、漢文ではないからである。しかし漢詩、漢 文と漢字を表音的に用いた自国語表現を両極として、そ の間にはさまざまな書記方法、文体が存在するのであ る。」(p.188-189) 21 ①「正月一日試分直」 ①「正月一日試分直」 浦口吹春浪秣青 旅房鷄旦祝堯冥 浦口吹春浪秣青 旅房鷄旦祝堯冥 忽磨蘇味試分直 詩是吾家般若經 忽磨蘇味試分直 詩是吾家般若經 ②「華蕚樓宴集圖」 ②「華蕚樓宴集圖」 風不鳴條仰太平 樓西曉色柳先鶯 風不鳴條仰太平 樓西曉色柳先鶯 四夷曲入三郎手 鼓暖都曇答臘聲 四夷曲入三郎手 鼓暖都曇答臘聲 ③「題便面冨士」 曾驚冨士吸銀灣 百億國無如是山 ③「題便面冨士」 浮島原みつ擎雪 扇中三拜舊時顔 曾驚冨士吸銀灣 百億國無如是山 浮島原みつ擎雪 扇中三拜舊時顔 22 ①「正月一日試分直」 浦口吹春浪秣青 旅房鷄旦祝堯冥 忽磨蘇味試分直 詩是吾家般若經 〈注〉「鶴林玉露、墨曰蘇味、筆曰分直」 蘇味=すみ=墨 分直=ふで=筆 23 • 日本国僧 余少年時、於鐘陸邂逅日本国一僧、名安覚、自言離其国已十 年、欲尽記一部蔵経乃帰、念誦甚苦、不舎昼夜、毎有遺忘則 叩頭仏前祈仏陰相。是時已記蔵経一半矣。夷狄之人、異教之 徒、其立志堅苦不退転。至於如此朱文公云、今世学者読書尋 行数墨備礼応数六経語孟不曽全記得三五板如此而望有成亦已 難矣。其視此僧殆有愧色。僧言其国称其国王曰天人国王、安 撫曰牧隊、通判曰在国司、秀才曰殿羅罷、僧曰黄榜、硯曰松 蘇利必、筆曰分直、墨曰蘇弥、頭曰加是羅、手曰提、眼曰媚、 口曰窟底、耳曰弭々、面曰皮部、心曰母児、脚曰叉児、雨曰 下米、風曰客安之、塩曰洗和、酒曰沙嬉 24 ②「華蕚樓宴集圖」 風不鳴條仰太平 樓西曉色柳先鶯 四夷曲入三郎手 鼓暖都曇答臘聲 トウトウタラリ 〈注〉「都曇答臘四字詳見韻府、入聲臘字注脚、盖外夷 樂名、後以爲鼓名」 『韻府群玉』巻二十(文淵 閣四庫全書) 「都曇答臘 ‐‐‐‐本外方樂 ‐‐似腰鼓而小‐‐即楷鼓也羯 鼓」 25 ③「題便面冨士」 曾驚冨士吸銀灣 浮島原みつ擎雪 百億國無如是山 扇中三拜舊時顔 〈注〉「梅子、曾東遊、拜 冨士、今見便面所圖、而高 抃新篇之書史會要、載本邦 之いろは、譯水曰みつ、盖 み字平聲、つ字仄聲、雖似 好事、借みつ之二字、戯冨 士云」 26 • • • • • • • 2.さまざまな漢文 ■中国の漢文と仏教漢文 中国における非規範的漢文 ・実用文(行政文書、書簡) ・駢儷文 ・仏教漢文 ・口語文体(禅語録、朱子語類など)→白話へ 27 • • • • • • • ■変体漢文の分類 変体漢文 ①未熟漢文 ②和習漢文 ③意識的に自国語的に変形させた漢文 ④漢字を表音的に用いて自国語を記述したもの 「①から④にゆくほど、規範的漢文からは文体的にも、書き 手の意識の面でも遠くなる。④の外側に、仮名、ハングル、 ウイグル文字、ヴェトナムの字喃など、漢字以外の自国文字 による文章があるが、その多くは漢字との混用文である。/ 従来、変体漢文は、中国の規範的漢文が、日本など中国文化 を受け入れた周辺地域において変化したものだと考えられる 傾向があったが、かならずしもそうとは言えない。先に述べ たように、中国の漢文にも多様な文体があり、中には変体漢 文的なものも少なくないのである。白話文などは、立派な変 体漢文であると言える。」(p.193-194) 28 • ■未熟漢文 • ◎『日本書紀』巻十一・仁徳紀六十七年 • 「有大虬、令苦人」(大虬(みつち)有りて、人を苦(くる し)びしむ)→正しくは、「有大虬、令人苦」 • ◎『日本書紀』巻八・仲哀紀八年 • 「臣敢所以献是物」(臣(やつがれ)、敢へて是(こ)の物を 献(たてまつ)る所以(ゆゑ))→正しくは、「臣所以敢献是 物」 29 • ■和習(臭)漢文 • ◎『日本書紀』巻七・景行紀十八年七月 • 「若神有其山乎」(若(けだ)し神(かみ)其の山に有(ま)し ますか)→正しくは、「若神在其山乎」 • ◎『日本書紀』景行四十年七月 • 「群臣皆不知誰遣」(群臣皆誰を遣(つか)はさむといふ ことをえ知らず)→正しくは、「群臣皆不知遣誰」 30 藤原定家『明月記』(1180年~1235年) 31 • 【本文】 • ○七日 癸丑。武衛御誕生之初被召于御乳付之青女<今 者尼。号摩々。>。住相摸國早河庄。依有于御憐愍故。 彼屋敷田畠不可有相違之由。被仰含惣領地頭<云々>。 • 【書き下し文】 • 七日 癸丑(きちゅう)。武衛御誕生之初め、御乳付 (おんちちづけ)に召さる之青女<今は尼なり。摩々と 号す。>相摸の國早河の庄に住す。御憐愍有るに依って 故(より)、彼の屋敷・田畠を相違有る可からざる之由、 惣領地頭に仰せ含めらると<云々> 32 • ■朝鮮の変体漢文 • ◎新羅語の助辞、動詞語尾を漢字で表記した例 • 「二塔天宝十七年戊戌中立在之。娚姉妹三人業以成在之。 娚者霊妙寺言寂法師在弥、姉者照文皇太后君妳在弥、妹 者敬信大王妳在也。」(葛項寺造塔記) • ※「在」=日本語の「ある」に相当する。「以」= 「で」に相当する。「弥」=「あり」の「り」に相当す る。 33 • ■日本と朝鮮の変体漢文の共通性―宣命体と新羅の「教」 • 宣命体(せんみょうたい) • 詔曰、現御神止大八嶋国所知天皇大命良麻止詔大命乎、集侍皇子等、 王等、百官人等、天下公民、諸聞食止詔。 • 詔(みことのり)して曰(のたま)わく、現御神(あきつかみ)と大八嶋(お おやしま)国(くに)知らしめす天皇(すめら)が大命(おおみこと)らまと 詔(の)りたまふ大命を、集(うごなは)り侍(はべ)る皇子(みこ)等(たち)、 王(おほきみ)等(たち)、百官人(もものつかさのひと)等(ども)、天下公 民(あめのしたのおほみたから)、諸(もろもろ)聞きたまえと詔る。 • ※「止」(と)、「良麻止」(らまと、「らま」は語調を整える接 尾辞)、「乎」(を)など万葉仮名による助辞は小字で表記してあ り、これを宣命小字体という • 「宣命体は、助辞の部分を仮名になおせば漢字仮名混用文となるた め、仮名や日本語表記の発達上、重要な文体とされる。このような 文体ができたことについては、新羅での同様の文体、…吏吐文の影 響が指摘されている。」(p.203) 34 • 「ところで注釈以外の文を本文に対して小字で書く例は、 実は中国にもある。それは十三、十四世紀の元代に流 行った雑劇という芝居の台本で、その歌詞の部分には、 本文の補助としてメロディーに乗らない襯(しん)字(じ)と いう助辞、口語成分がつけ加わるが、この襯字はしばし ば小字で書かれた。これは宣命体とはなんの関係もない が、近世の中国では文言と口語の距離が開いた結果、口 語の助辞などを補わなければ文言の理解がむずかしく なったという意味で、宣命体と一脈通じるものがあろ う。」(p.205) 35 • ■吏吐文による戯文 • 吏吐文=新羅時代にはじめり朝鮮王朝が亡びる二十世紀 初めまで、もっぱら官庁での行政文書として使用された。 「吐」は助辞、「吏」は文書をあつかう下級官吏のこと である。行政文書の文体は、中国では吏文とよばれたが、 吏吐文はそれが朝鮮化したものといえよう。 36 • 右謹言所志矣段、隴西接前翰林李太白亦、其矣祖上伝来 使用為如乎、婢詩今及一所生婢墨徳、二所生婢筆今、三 所生奴紙筒等四口乙、被謫多年、愁火焦肝分叱不喩、華 陰県逢辱以後、日漸増恨、五臓枯旱為沙乙余良、謫所窮 困、年老益深、醸酒難継乙仍于、放売計料是如。 • 右(題の韓進士)謹んで言う所志の段、隴西にすむ前翰 林、李太白が、其の祖上伝来使用してきた、婢の詩今お よび一所生、婢の墨徳・二所生、婢の筆今・三所生、奴 の紙筒など四口を、被謫多年、愁火焦肝のみならず、華 陰県逢辱以後、日漸増恨、五臓枯旱するはむろん、謫所 窮困、年老益深、醸酒難継によって、放売計料する。 37 • 「初期の吏吐文は、語順を朝鮮語風に入れ替え、漢字を 訓読みするなど変体漢文的性格が強いが、やがて右の例 のように、漢文の語順どおりに書いて音読し、ただ句と 句、単語と単語の間に、上下の接続関係をしめす言葉を 漢字表記で挿入したものに変化する。」(p.207) 38 • • • • • ■モンゴル時代の変体漢文 ◎『孝経』 「夫孝徳之本也」(それ孝は徳の本なり) ◎『孝経直解』 「孝道的勾当是徳行的根本有」(孝道の勾当(こと)は徳 行の根本である) • ※『孝経直解』の著者=貫雲石(本名:小雲石海涯【セ ヴィンチュ・カヤ】、中国化したウイグル貴族) • ※文体=蒙文直訳体 39 • ■『老乞大』の漢児言語―口語としての変体漢文 • 蒙文直訳体=当時、中国にいたモンゴル人、ウイグル人、 高麗人などの間では口語としても使用された • 『老乞大』=商業指南・中国語会話のため、高麗で編纂 • 恁是高麗人、卻怎麽漢児言語説的好有? • (おまえは高麗人なのに、どうして漢児言語がうまく話 せるのであるか?) • 俺漢児人上、学文書来的上頭、些小漢児言語省的有。 • (おれは漢児人のところで、本を学んだので、少し漢児 言語を知っているのである) 40 • ■日本の候文と中国の書簡体 • 候文:十一世紀中頃の平安後期、往来物、または消息と よばれる手紙の文例集からはじまったとされる。 • 藤原明衡『明衡往来』(また『雲州消息』ともいう) • 説法之事、不堪之身頗恥入候之処、蒙此仰之間、弥向壁 赤面臥地流汗了。 • 説法のこと、不堪の身すこぶる恥じ入り候の処、この仰 せを蒙るの間、いよいよ壁に向かいて赤面、地に臥して 汗を流しおわんぬ。 41 西野古海『はがき日用文』(大橋堂、1907年) 42 • 「『明衡往来』でこのように「候」が用いられた個所は ごく少数で、大部分はこれ以前の用字である「侍」(は べる)が使われている。ところがそれより百年あまり後 の十二世紀末、院政期にできた中山忠親(一一三二―一 一九五)の書簡文例集『貴嶺問答』では「候」の使用が 急増し、以後、「候」が定着して「侍」は使われなくな る。要するに、この百年あまりの間に「候」が「侍」を 駆逐してしまったのである。室町初期の『庭訓往来』で はもっぱら候文が使われている。これはなぜであろ う。」(p.213) • ↑ • 日本の往来物は、中国の「書儀」(手紙の書き方と文例 を示したもの)から大きな影響を受けている。 43 • ■福沢諭吉の通俗文と候文 • 「明治時代は日本語の文章の歴史のうえで、大きな転換 期であった。よく知られるように、現在一般に使われる 日本語の文体の基礎は明治期にできた。明治の新文体が 生まれる過程は複雑であるが、ふつうその根幹となった のは、漢文調つまり漢文訓読体であるとされる。ここで 漢文調と言う場合の漢文とは、せまい意味での規範的漢 文や漢詩の訓読体を指す。しかし明治の新文体に影響を あたえた漢文は、それだけではない。」 44 • ◎福沢諭吉『福沢全集』緒言(1898年) • 漢文の漢字の間に仮名を挿み、俗文中の候の字を取除く も、共に著訳の文章を成す可しと雖も、漢文を台にして 生じたる文章は、仮名こそ交りたれ矢張り漢文にして、 文意を解するに難し。之に反して俗文俗語の中に候の文 字なければとて、其根本俗なるが故に、俗間に通用す可 し。但し俗文に足らざる所を補ふに漢文字を用ふるは非 常の便利にて、決して棄つ可きに非ず。 45 • 「つまり福沢の文章の基本は、漢文に仮名をはさんだも の、すなわち漢文訓読体と、候文から候を抜いたものの 二本立てで、後者を主とし、前者を積極的に取り入れた ものであった。」(p.218) • 「明治の新文体の作者は、福沢もふくめてほとんど漢文 に習熟した人々であった。しかしその読者は、漢文はで きないが候文なら書けるという人が大多数であったろう。 候文のこの大衆性、通俗性に福沢は着目したわけである。 明治の文章への漢文の影響は、狭義の漢文だけではなく、 その背景にある候文という変体漢文の存在をぬきには語 れないであろう。」(p.218) 46 • ■東アジアの変体漢文 • 「明治にできた新しい文体は、日本語だけではなく、東アジ アにも大きな影響をあたえている。現在、韓国でふつうに用 いられる韓国語の文体、そして北朝鮮の文体も、日本統治期 を経て、漢字語彙と表現の双方において、その多くを日本語 の文章に負っている。また現在の中国語の文体は、梁啓超、 魯迅、周作人など、明治の文体に接した多くの知識人によっ て作られたものであり、随所にその影響が認められる。つま り明治の文体に端を発する今日の日本、中国、朝鮮半島それ ぞれの文体は、多くの相違点を含みつつ、互いに外国語であ りながら、なお東アジアが共有する一種の変体漢文としての 性格を強くもっていると言える。そしてその背後には、当然 ながら、中国、朝鮮半島、そして日本における規範的漢文と 変体漢文の長い伝統があったのである。」(p.219) 47 48 • 以下の論文を読んできてください。 • ①岡田英弘(2008)「邪馬台国は中国の一部だった」 『日本史の誕生』筑摩書房 • ②網野善彦(2000)「アジア大陸東辺の懸け橋―日本列 島の実像」『「日本」とは何か〈日本の歴史00〉』講談 社 49 50