大化改新の真実

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Transcript 大化改新の真実

645年6月12日のこと。
飛鳥板蓋宮にて、専制政治を行っていた蘇我入鹿が
中大兄皇子と中臣鎌足に討たれるという事件が起きた。
その後彼らによって中央集権国家樹立を目指す改革が行
われた。
この改革を
「大化改新」という
中大兄皇子
中臣鎌足
蘇我入鹿
いっし
乙巳の変
首を斬られる
蘇我入鹿
大化改新
~古代飛鳥クーデターと改革の真相~
学校教育学類
社会科教育専修
1351040048
157
髙澤 克幸
第0章 主な史料
『日本書紀』
『大職冠伝』
『上宮聖徳法王帝説』
金大の図書館にも…
寛文9年
(1669)の写本
第1章
乙巳の変に至るまで
642年 皇極天皇の即位
舒明天皇
皇極天皇
まだ20歳では
ないので即位で
きません…
中大兄皇子
蘇我入鹿
実力者 蘇我氏
628年
推古天皇 死去
おおおみ
蘇我氏(代々大臣)
稲目
次期天皇候補
馬子
蝦夷
パパは聖徳太子
上宮王家として
斑鳩に勢力あります
推
薦
入鹿
田村皇子
舒明天皇
山背大兄王
643年11月1日のこと
蝦夷から家督を継いだ入鹿、斑鳩の上宮王家を襲撃
目的は山背大兄王の殺害
じょうぐうおうけ
上宮王家襲撃事件
入鹿の斑鳩襲撃
山背大兄王、生駒山に逃亡
再度刺客を送り、山背大兄王死亡
入鹿のイメージ
入鹿の父・蝦夷も怒る
噫、入鹿、極甚だ愚
痴にして、専行暴悪
す。儞が身命、亦殆
からずや
入鹿の独断ではない?
襲撃を命じたのは
皇極天皇
あの斑鳩の勢力が手
に入れば、朝廷はもっ
と強大になるわ!!
当時の天皇候補
軽
皇
子
法
堤
郎
媛
舒
明
天
皇
皇
極
天
皇
中
大
兄
皇
子
古
人
大
兄
皇
子
蝦
夷
入
鹿
刀
自
古
郎
女
聖
徳
太
子
山
背
大
兄
王
第2章
『日本書紀』による
“通説”乙巳の変
蘇我氏の専横
①八佾(やつら)の舞
八佾:天子
六佾:諸侯
四佾:卿大夫
二佾:士
佾=列
8人×8列の64人で舞う
論語
蘇我氏の専横
おおみささぎ
②大陵・小陵
入鹿の墓?
島の山古墳
蘇我氏の専横
③上の宮門・谷の宮門
周囲に柵
門に武器庫
多くの兵
発掘された遺跡
中臣鎌足登場
君臣の序を乱して、
天皇家の権力を奪お
うとしている蘇我氏を
討つ!!
鎌足動く
この人
鎌足動く
来てくれてうれしいなぁ…
本当にありがとう
病で隠棲中の軽皇子
殊に恩沢を奉ず。前
より望みしところに過
ぎたり。
誰か能く天下に王たら
しめざらん。
次なる動き
やはり皇子が病では心
もとないなぁ……
誰かほかにいないかな
中大兄皇子
パパは前の帝 舒明天皇
ママは今の帝 皇極天皇
蹴鞠の出会い
中大兄皇子に接近したい鎌足
法興寺
その時!
中
大
兄
皇
子
勢い余って靴
が飛んで行っ
てしまったよ
(今だ!)
皇子
鎌足
最近の蘇我親子
について、意見がご
ざいます
密議を重ねる
学者・南淵請安の塾に通う二人
その帰り道、クーデターの計画を練る
ひそひそ……
皇子
鎌足
仲間を増やす
馬
子
蘇我倉山田石川麻呂
さえきのこまろ
倉
麻
呂
蝦
夷
石倉
川山
麻田
呂
入
鹿
かつらぎのわかいぬかいのあみた
さらに、佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田も参加
決行は6月12日
645年6月12日・・・
「三韓進調の日に、入鹿を殺そう」
三韓とは、朝鮮半島における高
句麗・百済・新羅の三国家のこと
である。
この日、その三韓から貢物を進
呈する使者が来て、儀式が執り行
われたのである。
表文を読む儀式
表文を読む
石川麻呂
入鹿を斬る
子麻呂 稚犬養網田
とっさの変化に対
応する遊軍
鎌足 中大兄皇子
入鹿登場
よかろう
刀をみせてく
ださいな!
俳優(ワザオギ)
伝 飛鳥板蓋宮跡
皇極天皇
石川麻呂
入鹿
計画失敗……?
動けなくなる子麻呂と稚犬養網田
おかしいな…
どうしてそんな
に震えている?
もう斬ってもいい
頃だぞ
帝の御前で話す恐
れ多さについ……
もう猶予
はな
そのとき!!
あっ!狼藉!!
入鹿死す
なぜ私はこんな目
に・・・
わかりませぬ
一体どういうこ
とじゃ!?
この者は皇族を
みな殺し、この国を
奪おうとしていたの
でございます!
入鹿死す
入鹿の首塚
対蘇我蝦夷
蝦夷のもとに運ばれる
入鹿の死体
邸宅を焼き、蝦夷は死亡
以上が乙巳の変
次なる天皇は…
孝
徳
天
皇
兄・古人や叔父の
軽皇子をさしおいて
天皇にはなれません。
大化改新
孝徳天皇の政権で行われた、中央集権の体制を目
指すための改革
最初の年号が
「大化」だったので
す!
孝徳天皇
新政権
天皇
孝徳帝
皇祖母尊
皇太子
皇極先帝
中大兄皇子
右大臣
左大臣
蘇我倉山田
石川麻呂
阿倍内麻呂
内臣
中臣鎌足
国博士
旻
高向玄理
第3章
どうして日本は中央集権国家
を目指したのか
目指した理由
緊迫する東アジア情勢に対応する
ため
東アジアは、ここ
では中国と朝鮮の
ことを指します。
当時の東アジア
644年
唐の進軍
642年
国王殺害
642年
大規模攻撃
日本は天皇家自
体が強い力を持つ
国家にしたかった
助けを求め
るも、使者
が人質に
第4章
大化改新の真実
孝徳天皇
従来
傀儡政権
近年
実権があった
皇位からは遠かった
天皇に成れず
じまいかなぁ
両親が天皇
協力者
蘇我倉山田石川麻呂と阿倍内麻呂
のちの右大臣
のちの左大臣
お
た
ら
し
ひ
め
ち
の
い
ら
つ
め
第5章
大化改新の具体的内容と
その後
646年元旦 改新の詔
四条からなる改新の基本方針
詔(みこと
のり)とは、
天皇からの命
令のことです。
一条 公地公民制
天皇家
屯倉(みやけ)
子代(こしろ)
豪族
田荘(たどころ)
部曲(かきべ)
二条 地方行政、交通整備
国
評
(コホリ)
五十戸
(サト)
そろそろ出
番かな
駅伝制
三条 戸籍作成
造籍
税負担者の把握
校田
田の広さ調査
四条 税制
田の調(たのみつき)という独自の税制
木簡では地方の
行政単位コホリが
「評」なのに対し、
日本書紀は「郡」
改新の詔自体の存在は疑問
その他 男女の法
母
良民
奴婢
父
良民 奴婢
良民 奴婢
奴婢 奴婢
奴婢ばっかり
身分の区別
はっきり
→戸籍・税
制に便利
対外政策
復活!遣唐使(653年)
630年より23年ぶり2度目
第一船 121人
第二船 120人
無事到着
薩摩半島沖で遭難し5人のみ
竹島に漂着
645年12月 遷都
飛鳥板蓋宮から難波宮へ遷る
理由
①新政権になったから
②東アジアに対する積極性から
孝徳政権の終焉
649年 二人の側近 阿倍内麻呂、蘇我倉山田石川麻呂の死
653年 孝徳天皇を難波に残し一同飛鳥へ
行かない
でくれよ!
SEE
YOU!
その後…
654年、孝徳天皇は難波で病死
斉明天皇
皇極天皇
孝徳天皇の即位を否定し、本
来の系統にもどした
大化改新により、他国と対
等に渡り合える中央集権国家
の基盤が出来た!
参考文献
篠川賢『日本古代の歴史2 飛鳥と古代国家』(吉川弘文館、2013年)
遠山美都男『敗者の日本史1 大化改新と蘇我氏』
(吉川弘文館、2013年)
海音寺潮五郎『大化の改新』(河出文庫、2008年)
中村修也『偽りの大化改新』(講談社現代新書、2006年)
藤田友治、伊ケ崎淑彦、いき一郎『ゼロからの古代史事典』
(ミネルヴァ書房、2012年)