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道徳教育(他学部)
4月26日(金)4限
第二回 「徳は教えられるか②」
前回の感想から①
• 徳の具体例を挙げていくと、必ずどこかに共通点があると思うん
です。Tokuなんてただの音のかたまりに意味を乗せた人がど
こかにいるはずなんです。新しい言葉が生まれるときはそれを使
用するパターンがあるはずなんです。メノンのパラドクスは考え
れば考えるほど根深いですね。でも科学だって知らないことの探
求だと思うんです。でもそれは本当に答えなのか。あくまで起
こったことをもとにした仮説のかたまりで、だからときどき科学
の常識はひっくり返りますよね。私たちだってどうして生きるの
かなんて一生分かりませんよ。仮説を作って日々更新しながら答
えを探していかなければならないのでしょうから。(理学部)
• 私のイメージでは徳は抽象的(普遍的・本質的)な部分と具体的
な部分から成る。抽象的な部分が土台となり、その上に具体的な
ものが乱立している感じだ。つまり、たくさんある徳も元を辿れ
ばその本質的な部分を踏まえている。その本質的部分は言葉にす
れば「こうあるべき姿」というようなものだが、この場合の「べ
き」が何に基づくのか、私にはまだ分からない。(文学部 行動
学科 哲学講座)
前回の感想から②
• 徳の本質を言葉にするのは難しいのだが、あえて表現するとすれば、
「人に優しくすること」になると思う。人に優しくとは単に親切にす
るということではなく、先々のことまで考えてその場で一番適切だと
思われる行動をとるということである。“徳”という言葉がある以上、何
らかの定義は合ってほしいと思う。(理系の性格かもしれない
が・・)例えば物理で言うと、自然現象の後付けとして公式や説明が
生まれただけなので、必ずしも言葉の定義から生まれた行動が徳なの
ではなく、その逆かもしれない。(工学部 ナノサイエンス学科)
• 私は想起説に違和感しか感じず、なぜそうまでして人の探求心を肯定
しなければならないか、ソクラテスの姿勢がゆがみを生んでいるよう
に見えた。探求することができない、できる、する、しないというと
ころにこだわりすぎている。探求心をもつ必要がないならそれでいい
のではないか。探求心がある人間が徳のある人間であると答えている
のに等しいのではないか。結局徳は個人の頭の中にしかないもので、
あくまで他人の考えから影響を受けて同化する可能性が高く、同化し
た方が社会が安定するので同化させる必要性が出てくる、そういうも
のだと私は考える。それ以上の高位概念は存在せず、また、ありのま
までよいと考えている。(人文社会科学研究科 公共研究専攻)
前回の感想から③
• グループの話し合いでは最初に徳とは何かという疑問にぶつか
りました。グループ内では“人間として生きていく上で必要なも
の”という結論に至りましたが、そこに至るまでの考え方は人そ
れぞれ違っていました。徳というのは一人ひとり皆異なってい
るため、徳を教えるというのは難しいという意見もあって、非
常に参考になりました。(理学部 数学情報数理学科)
• 僕は徳とは人のあるべき姿だと考える。徳とは概念であり、人
のあるべき姿は時代によって、地域によって、そして人によっ
て異なる。徳はいわば日本国憲法のようなものであり、一人ひ
とりに個別具体的に定義されているものではないと考える。徳
を教えることはできるが、それは数学や理科などを教えること
とは少し違う種類のものだと考える。数学や理科の場合は公式
や定理というものが定まっているので、誰が教えても同一の内
容になるが、徳の場合は時代によって、地域によって、そして
人によって異なるので、根っこの部分(人のあるべき姿)は同
じでも細部は教える人によって異なると考える。(法経学部
法学科)
前回の感想から④
• メノンは「全か0か」という考え方をしているのではないでしょう
か。「1は分かるが2~10はわからない」あるいは「10だけ奇
跡的に一致していたがそれまでのプロセスが違う」というようなこ
とも起こりうるのではないでしょうか。そのときは自分の知らない
部分を補ったり、肉づけをすることは可能でしょう。(文学部)
• ソクラテスは「知らないこと」を「知らない」という知識として重
宝するが、メノンは「知らない」ことを知識として見ようとしない
というように感じました。そのために「~ではない」という誤り、
間違いを答えを探求するための知識として認識できないのかもしれ
ないと思いました。(文学部)
• ソクラテスの想起説に対して、魂が不死だとしても未来を生きるこ
とは不可能だと思うので、全てを知っているということはないと
思った。(理学部)
• 魂とはいったい人間のどこにあるのでしょうか。もしこの身体全体
にそれがあるのだとしても、爪を切った時に「私の魂の一部が取れ
た」とは感じませんし・・。(文学部)
前回の感想から⑤
• メノンのパラドクスについて、“知っている”ということにはレベル
があり、全く知らない状態と完全に知っている状態の二つに限られ
るわけではない。言葉だけ知っているとか、意味だけ知っていると
か中途半端なところが必ずあるはずである。だから“知っている状
態”から“より知っている状態”を目指して探求することもありうる。
また、世の中の事象のすべては独立して存在しているわけではない
ので、全く知らないこととつながっていることぉ知っているならば、
芋づる式に知らないことも探求できると考えられる。(理学部 情
報数理学科)
• メノンのパラドクスで知らないことを知ろうと思うことはできない
と思う。それは、そのものの存在すらも知らないから。でも、知ら
ないことを知っているならば、その知らないことを探求することは
可能なんではないかと思った。それこそソクラテスが説く“無知の
知”のように知らないことを知っているということは知らないこと
を知らないことと全く違うと感じた。(続く)
前回の感想から⑥
• 誰もが足で歩くことを知っている。誰も手を使って歩く人
はいないと考えると、ソクラテスが言うように、何か人間
は皆すでに知っていて、それを生きていく中で思い出して
いくという言葉に納得してしまった。“徳は”結局抽象的な話
であり、そもそも存在するのかという疑問を持った。抽象
的なものに名前を与えることでそのものが認識できるよう
になるというけれど徳もそういうものかもしれないと今日
の授業を受けて思った。(文学部)
• メノンのパラドクスについて、「探す」という行為は目的
がはっきりした上で成り立つものであると思っており、知
らないものを探すことはありえないのかもしれない。ただ、
実際に知らないものを探す行為を人は良くする。たとえば、
自分探し。これは未だ見ぬ「自分」を探す行為自体が目的
となっており、それで人は満たされると思う。パラドクス
の因果関係は成立しると思うが、知らないことを探求する
ことはあり得ると思った。(文学部)
前回の感想から⑦
• ソクラテスの論理は無制限なルールの上に立って進められているため、
必ず相手の意見に反論できるようになっているように思う。例えば徳
は一つか、たくさんあるのかという議題に対して、たくさんあると主
張する立場からすれば人徳、悪徳、など特にいくつかの種類があると
言えるが、一つだと主張する立場からはそれらは全て徳であるから徳
は一つということになる。ある条件や範囲、立場を限定しない限り、
議論は決着しないと思う。だから徳を教えることは可能かという議論
もある制限の下では可能ということになるし、無制限の場合は不可能
と言わざるをえない。(人文社会科学研究科)
• 個人的にソクラテスが嫌いです。産婆術などとのたまって結局自分の
話をしないソクラテスが嫌いです。相手の話しかしない上に結局のと
ころ話していくうちに相手のあらを探して上から目線で諭した挙句、
「無知の知」自分も知らないと予防線を張っておく周到さ。批判術と
しては素晴らしいです。(理学部)
• ソクラテスが無知の知を広めて価値観を正そうとしたなら、ソクラテ
スが目指した価値観も正しいとは限らないし、ソクラテスによって疑
われた価値観も本当は正しいかもしれない。(理学部 数学科)
前回の感想から⑧
• アレテーを決める意味とは何なのかが疑問です。馬は早いのが馬のア
レテーだという例がありましたが、そんなものを決めて何になるので
しょうか。何かしら卓越していなくてはならないものなのでしょうか。
多様であることは悪いことではないと思います。(文学部 日本文化
学科)
• 徳は教えられるかということにかんして、大事なのは「教える」こと
より「考えさせる」ことだと思った。(文学部)
• 個々人の徳は異なるだろうが、その徳同士に共通部分があればそれが
真の徳ではないかと考えた。しかしそう定義してしまうと共通部分以
外は徳ではないことになり、反論するものもいるはずだ。また、徳の
存在を全く知らない人に徳が存在しうるのかという点も不可思議なこ
とに思う。自分が正しいと思うことも間違っているかもしれないし、
他人の正解も私にとって誤りかもしれない。知らないものを知ること
は単純なようで偉大なことらしい。誰にとっての徳であるかを考えて
いくと、動植物にとっての徳や人工物にとっての徳も考慮しなければ
ならないのではという疑問が浮かび上がってきた。とすると、自分が
何者なのか、今の自分は真に「私」であると言えるのかという概念も
崩れかけてくる(文学部)
プラトン『メノン』前回まで
のあらすじ
• 「徳は教えることができるか?」を考えたい
なら、まず「徳とは何であるかを?」を知ら
なければならない。
• ところが、「徳とは何であるか?」がわから
ない。(例を挙げることはできるが、その本
質はわからない)
• では、それを探究したいのだが、そもそも知
らないことを探究することができるという前
提自体もあやしい。(ソクラテスは想起説を
使ってできると主張するが・・・)
仮説による探求
• ソクラテスは知らないものが探求できるという前提のも
とに、「徳とは何であるか?」を探求しようと言う。
• これに対して、メノンは「徳は教えられるものなのか?
それとも生まれつき人間に備わっているかが?」という
ことがどうしても気になる。
• ここでソクラテスはメノンの要求に一度折れることにし、
「徳が何であるか」がわかる前に、「徳がどのような性
質のものであるか(教えられるものかどうか)」を探求す
ることにする。
• そこで、仮説を立てて探求をすることになる。
• つまり、「徳が○○という性質のもつならば、教えられる
だろう」と考えてみる。
徳は知識か?
• 人間が教わるものといえば、知識である。
• つまり、徳が知識であれば教えられるだろうと
いう仮説が立つ。
• そこで、問いは「徳は教えられるか?」から、
「徳は知識であるか?」へと移る。
徳は善である。では、知識は善を
包括するか?
• 徳とは善きもの、つまり、善である。
• そこで善が全て知識に含まれるならば、徳は知
識である。
• 善の中に知識ではないものがあるならば、徳が
知識ではないという可能性もある。
善は有益である
• 全ての善きものは有益であるので、善き人間は
有益でもある。
• 従って、徳もまた有益なものということになる。
• では、どのようなものが人にとって有益なのだ
ろうか?有益なものについて考えてみる。
有益なものは知性を伴ってこそ有益になる。
• 魂における有益なもの。例えば、節制、正義、
勇気、ものわかりのよさ、度量の大きさetc
• これらは知識を伴ってこそ有益になる。
• 例えば、勇気。勇気は、知識を伴わなければ
ただの空元気になる。元気を出すだけではな
く、そこに知性がなければ、有益にはならな
い。
• その他の有益なもの、例えば富なども、知性
がこれを正しく用いなければ有益にならない。
有益なものが知識であるから、徳は
知識となる。
• 以上の考察から、有益なものは知識であるとい
うことになる。
• そして、先ほど徳は有益であるということが確
認されていた。
• 従って、徳は知識だということになる。
徳の教師はいるか?
• ここまでの議論でいったん、徳が知識であると
いう結論が出た。
• しかし、ここでソクラテスは違う仮説を提示し
て、その結論を確かめにかかる。
• その仮説とは、徳が知識であればそれを学ぶ者
とともに、教える者がいないといけないという
こと。
• つまり、次の問いは「徳の教師はいるか?」
徳の教師はいない。つまり、前の仮説は
間違っていた。
• ソクラテスはアテネで優れた徳をもつと言われ
ている人で、徳を他人に教えることができたか
人がいたかどうかを確かめようとする。
• しかし、そんな人物はいないという結論に至る。
• すると、今度は徳は知識ではないということに
なってしまう。
• ここで、善きもの、有益なものが必ず知識を伴
うという先の仮説が間違っていたのではないか
という疑いが生じる。
徳は知識ではなく、正しい思わくである。
• 知識だけではなく、正しい思わくも、われ
われの行為を正しく導き、有益な人間とす
ることができる。
• 徳の教師がいない以上、徳は知識ではない。
• しかし、徳は生まれながらに備わっている
ものでもない。
• 従って、徳は教えられる知識ではなく、神
によって与えられる正しい思わくである。
しかし、結局「徳は何である
か?」はわかっていない。
• ここまでの議論で、徳が神によって与えられる
正しい思わくであるという結論が得られた。
• しかし、この結論の正しさは、仮説の立て方や、
探求の仕方が正しいという前提に支えられてい
る。
• 結局のところ、この結論の正しさは、「徳とは
何であるか?」という未解決の問いに答えるこ
とでしか確かめられない。
知識という言葉について
• 実はソクラテスは知識にあたる複数の言葉を用いている。
• ソクラテスは同じ文脈の中で、それぞれの言葉を互換性があるよ
うに用いているので、岩波文庫訳では区別して訳さず、全て「知
識」で統一している。
• しかし、それぞれの言葉のニュアンスを踏まえると、「知識=教
えられる」という最初の仮説があやしくなる。ソクラテス自身、
徳が知識であるとしても、それが教えられるような知識ではない
という可能性も捨てていなかったのかもしれない。
① エピステーメー (「知識」、「学知」など)
論証による知識。学問の知。教えられることによって学ぶ。
② フロネーシス(「知慮」、「思慮深さ」など)
生きるための知恵のようなもの。賢さ、思慮深さ。経験から学
ぶ。
③ ヌース(「精神」、「知性」、「理性」、「直知」など)
感覚を越えたものを認識する魂の働き。
グループワーク
• 3~4人のグループで話し合ってみてください。
• 徳は知識なのでしょうか?それとも正しい思わくなの
でしょうか?それとも、全く別のものなのでしょう
か?知識であるとすればどのような知識なのでしょう
か?
• 徳は知識であるとしたソクラテスの議論の立て方、そ
れをひっくり返して正しい思わくとした議論の立て方
に納得がいきましたか?
• 徳の教師は本当にいないと思いますか?いるとしたら
それはどんな人物でしょうか?
• 結局、徳とは何なのでしょう?そして、それは教えら
れるのでしょうか?
• その他、今日の話の中で気になったことを自由に話し
てもらって構いません。
感想シート
• 今日の授業の中で考えたこと、疑問や質問、グループ
ワークの中で話し合ったこと、授業に対する要望、なん
でもかまいません。
• 必ず、名前、所属、学籍番号を書いて出してください。
(所属は空きスペースに分かるように書いてください)
• 授業中に伝えきれなかった質問、意見はメール、もしく
はブログを利用してください。
[email protected]
http://moral-education.seesaa.net/
参考文献
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プラトン 『メノン』 光文社古典新訳文庫or岩波文庫
プラトン 『プロタゴラス』
岩波文庫
プラトン 『ゴルギアス』
岩波文庫
アリストテレス 『ニコマコス倫理学(上)(下)』
岩波文庫
• 竹田青嗣 『プラトン入門』 ちくま新書
• 村井実 『村井実著作集3 ソクラテスの思想と教育、
「善さ」の構造』 小学館
• 村井実『村井実著作集4 道徳は教えられるか、道徳教
育の論理』 小学館