Transcript 明月記
明月記と現代天文学 「京都学」の1章に 超新星爆発 と X線放射 (大質量星の最期の大爆発) SN1987A (左下):可視光 その後の20年 (下):X線 X線の放射(スペクトル、形)は超新星 の進化(時間発展)の帰結である。 誰が何処で何時、1000年前の超新星を観測したか? 誰が何時?明月記:藤原定家、その他の文献、日記 :天文密奏 陰陽寮(陰陽道・暦道・天文道) ● 天文博士(1人):天体の異変を観察し、その吉 凶を占って密封して 天皇に奏上する(天文密奏)= 安倍晴明の子孫(土御門家)が代々受け継ぐ ● 天文生(10人)(夜空の定時観測): 戌の刻(午 後8時)と寅の刻(午前4時) 安倍泰親 土御門通 1170年頃 の平安京 土御門殿 (藤原道長) 藤原定家 客 国宝「明月記」の寛喜二年十一月八日(1230年12月14日)の条超 星 新星の記録がある。この背景は十一月初めの彗星の出現。 事 、 泰 Vol 52 依 日本最古の天文学“論文 ” Fujiwara, Sadaiye, 1230, Meigetsuki 不 俊 Crab Nebula 審 朝 3C58 1054 問 臣 1181 泰 SN1006 俊 の 返 朝 臣 書 SN1006 一條院 寛弘三年 四 月二日 葵酉 夜以降 騎官中 有大客星 如 螢惑 光明動耀 連夜 正見南方 或云 騎陣 将軍星本体 増変光 安倍吉昌(晴明の次男が 天文密奏 ? 騎官:27星からなる皇 帝の侍衛 騎陣将軍(1):車騎(3)に のる将軍 Chandra image of SN1006 寛弘三年四月二日(1006年5月1日)、京都南 巨椋池上空 火星 アンタレス 騎陣将軍 SN1006 四月二日時々雨:御堂関白記 成果の1 超高エネルギー粒子の加速がわかった shock 動く壁の間で「ピンポン 玉が跳ね返る ピンポン玉が早く跳ね返る 玉は早くスピードが増す 超新星SN1006 記録からは史上最高の明るさ? 南天(観測に不利):世界中の記録:30 参考 かに星雲 北天(観測に有利):10 明るさの記録 (感覚的で明らかに誇張がある?) ○中国: ○エジプト: ○シリア: ○イラク: ○イエメン: ○スイス: 地上の物がはっきり見えた(5日の月-8.5等級) 1/4の月より少し明るかった 月のようだった。 月のようだった 水面がぎらぎら輝き太陽のようだった 目がくらむようだった (アルプスの山々をかすめる) 参考 金星-4.6等級 : 満月 -12.6等級 記録から再現した光度曲線 56Coの半減期 -magnitude 12 10 8 視 6 等 級 4 2 0 -2 0 -4 50 100 150 200 1006年5月1日からの日にち Days from May 1, 1006 Ia型(核暴走型):標準光源:絶対等級(極大) = -19.5等級 距離 = 7100光年 = 2.2kpc 視等級 = -8.5等級 250 1000歳の記念写真から、何がわかったか 成果2.史上最も明るい超新星だったことを科学的に裏付けた。 (核暴走型=Ia超新星だった) ネオン 珪素 X 硫黄 線 の 強 度 酸 素 アルゴン 鉄 マグネシウム カルシウム X線のエネルギー かに星雲 (1054) 明月記:後冷泉院 天喜二年 四月中旬以降 丑時 客星觜参度見東方孛天関星大如歳星 一代要紀:二年甲午四月大客星 続資治通鑑:宋仁宗至和元年五月己丑客星天関 東南出 明月記の記録が射場氏によって米国の一般 天文雑誌に紹介された。 世界で初めて歴史に記録された超新星と して認知された。 オールトらは他国の記録を捜した。中国、アラビアからのみ。 欧米からは一例も見つかっていない。 1054年7月5日、京都の未明 東山上空 すばる カペラ アルデバラン SN1054 天関星 チャコキャ二オン国立公園 (ニューメキシコ:世界遺産) プエブロボニ―トの洞窟画。 プエブロ文化は天文観測をしていた(マヤ文明)。 13世紀中ごろ、干ばつのため村を放棄。 天関星 3C58 (1181) 明月記:高倉院 治承五年 六月廿五日 庚午 戌時客星見北方 近王良 守伝舎星 吾妻鏡:治承五年六月二十五日庚午戌時客 星見艮方鎭星色靑赤有芒角。是寛弘 三年出見之後 無例 Chandra image of 3C58 クォーク星か 土御門と江戸天文学の確執 江戸で、澁川春海が新暦を作成、京都 梅小路で天体観測江戸方の勝利、 「貞享暦」発行。 次の「宝暦暦」は土御門泰邦(安倍)が 泰邦は寛延4年(1751)梅小路に天文台。 主導。 江戸方は寛政9年(1797)西三条天文台。 江戸時代の古文書(大國家文書: 府立総 合資料館):三条北一町千本西へ三町計余 寛政九年天文方測量場平面図:東西100メートル南北60メートルほど、 経緯儀、垂揺球儀(振り子時計)、象限儀など 土御門の天文台と同じ経度 伊能忠敬(1745—1818):大日本沿海輿地全図:本初子午線(経度0度) は西三条天文台を通る線、またほぼ北緯35度線上。 地図作成にあたって、忠敬は正確な天体観測を併用した。従って緯度 方向(南北)の精度は高い。一方、経度方向(東西)の誤差はやや大きい。 しかし全体として測定誤差は0.1 %という驚異的な精度であった。明治 維新のころ、列強の連中はその精度に驚いたという。 「京1000年の天文学街道」全体の模式図、京都府マンガ観光マップより転載。