新シルクロード西安ーー永遠の都

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Transcript 新シルクロード西安ーー永遠の都

《高级日语听力补充讲义(视听讲义)》
(一)
(江 虹编译)
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新シルクロード
西安——永遠の都
 NHKスベシャッル
 日中共同取材班で撮影された
 音楽監督、チェロ演奏:ヨ-ヨ-・マ
2
本教材では、2005年12月日本NHKスペシャル
『新シルクロード』で、井真成のイメージ
ドラマが放送されたものによる内容である。
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キーワード:
井真成 阿倍仲麻呂 吉備真備 李白
玄奘三蔵
大唐帝國 国子監 遣唐使
留学生 ソグド人 史君墓 ゾロアスター
4
教材の構成
 一、歴史及び人物の紹介(日本語)
 二、歴史及び人物の紹介(中国語)
 三、新出単語
 四、新出単語(読み方)
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 1、井真成
 井真成(せいしんせい)699年 - 734年(日本・天平6年、唐・開元
22年))は、中国の古都・西安で墓誌が発見された、奈良時代(中
国の唐朝)の日本人留学生または官吏の姓名。日本名は不明 ...
 井真成は、中華人民共和国で発見された墓誌に、日本人留学生とし
て記されていた姓名である。
 墓誌は、同国陝西省西安市内の工事現場から発見されたと、同国の
西北大学が、2004年10月12日に発表した。墓誌は発見された後、一
度個人の所蔵となったが、西北大学付属博物館が収集したものであ
る。
 墓誌には、日本人留学生の井真成が、開元22年(西暦734年)正月
■(朔~十,廿のいずれか)日に死去したので、「尚衣奉御」の官
職を遺贈されたなどと記されている。これは考古学的に、中国で発
見された最初の日本人の墓誌であり、現存の石刻資料のなかで日本
の国号を「日本」と記述した最古の例である。
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墓誌原文
 墓誌原文は以下の通り。
 ■は、判読できない文字。
 贈尚衣奉御井公墓誌文并序
公姓井字眞成國號日本才稱天縱故能
■命遠邦馳騁上國蹈禮樂襲衣冠束帶
■朝難與儔矣豈圖強學不倦聞道未終
■遇移舟隙逢奔駟以開元廿二年正月
■日乃終于官弟春秋卅六皇上
■傷追崇有典詔贈尚衣奉御葬令官
■卽以其年二月四日窆于萬年縣滻水
■原禮也嗚呼素車曉引丹旐行哀嗟遠
■兮頹暮日指窮郊兮悲夜臺其辭曰
■乃天常哀茲遠方形旣埋于異土魂庶
帰于故鄕
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訓読文
 墓誌の訓読文は以下の通り。
 贈、尚衣奉御、井公墓誌文、并序。
 公、姓は井、字は眞成、國號は日本。才は天縱に稱ひ、故に
能く命を遠邦に■、騁を上國に馳せり。禮樂を蹈み、衣冠を
襲ひ、束帶して朝に■、與に儔び難し。豈に圖らんや、學に
強めて倦まず、道を聞くこと未だ終へずして、■移舟に遇ひ、
隙奔駟に逢へり。開元廿二年正月■日を以て、乃ち官弟に終
へり。春秋卅六。 皇上■傷して、追崇するに典有り。詔して、
尚衣奉御を贈り、葬むるに官をして■せしめ、卽ち其の年の
二月四日を以て、萬年縣滻水■原に窆るは禮なり。 嗚呼、素
車は曉に引きて丹旐哀を行ふ。遠■を嗟きて暮日に頹れ、窮
郊に指びて夜臺に悲しむ。 其の辭に曰く「乃の天の常を■、
茲の遠方なるを哀しむ。形は旣に異土に埋むるとも、魂は故
鄕に歸らんことを庶ふ。」と。
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抄訳
 墓誌の抄訳は以下の通り。氣賀澤保規・明治大学教授(中
国史)による。

 姓は井、字(あざな)は真成。国は日本と号す。生まれつ
き優秀で、国命で遠くにやってきて、一生懸命努力した。
学問を修め、正式な官僚として朝廷に仕え、活躍ぶりは抜
きんでていた。
 ところが思わぬことに、急に病気になり、開元22年(734
年)の1月に官舎で亡くなった。36歳だった。
 皇帝は大変残念に思い、特別な扱いで埋葬することにした。
体はこの地に埋葬されたが、魂は故郷に帰るにちがいな
い。
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墓誌の謎
 墓誌は石面一面に書かれているのが普通だが、この墓
誌では左1/4が空白になっている。
 表記形式が一般のものと若干異なる。
 官歴が記されていないのに、死後高位を賜っている。
 発見が科学的調査によるものではなく、建設工事現場
で地下から掘り出され人から人の手に渡ったため、い
つ、どこで掘り出されたものか不明である。
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その研究
 研究によれば、井真成は717年(養老元年)、多治比真人
県守を大使とする遣唐使とともに渡唐したとされる。こ
れは、阿倍仲麻呂や吉備真備と同時期の渡唐である。井
真成の死去の前年である733年(日本:天平5年、唐:開
元21年)には、多治比真人広成を大使とする遣唐使が渡
唐し、翌年には留学生吉備真備らを連れて帰朝している。
したがって、この遣唐使がまだ唐に滞在中に病死したも
のと考えられる。また、墓誌に日本という国名があるこ
とが興味深い。2005年(平成17年)12月には、NHKスペシ
ャル『新シルクロード』で、井真成のイメージドラマが
放送された。
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 井の姓は中国風に一字に省略したもので、古代の帰
化系氏族「井上(いのへ)氏」あるいは同様の帰化
系氏族「葛井(ふじい)氏」の出身ではないかと推
定する研究者もいる。葛井氏ゆかりの葛井寺がある
大阪府藤井寺市では、同時期の葛井氏に「○成」と
いう名が多く見られることを論拠として、井真成を
「葛井真成」と呼び「せめて墓誌の形ででも”里帰
り”を」と求める運動が起き、その”里帰り”が
2005年(平成17年)に実現され、アイセルシュラ
ホールで一般公開された。
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出自に関する諸説
井上氏説
 鈴木靖民(國學院大學教授)
 古代豪族で帰化人の末裔である井上氏の一族ではないかと主張し、
葛井氏なら一字にする際に中国にも多い「葛」姓にするのではな
いかと主張。
 葛井氏説
 東野治之(奈良大学教授)・佐伯有清(元北海道大学教授)
 古代豪族で帰化人の末裔で外交官などを輩出している葛井氏の一
族ではないかと主張。
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 情真誠説
 張雲方(中日関係史学会副会長)
 中国の言葉でまじめでまっすぐな人柄を指すときに使う言葉の音に
似た姓名を皇帝より下賜されたのではないかと主張し、日本名に関
しては不明と主張。
 中国姓説
 王維坤(西北大学教授)
 「井」姓は唐の時代から長安周辺に多い姓であり、それを採用した
と主張し、日本名に関しては不明と主張。
 その他
 「井」という姓は、九州の熊本県に多く存在する。
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2、阿倍仲麻呂
 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)[698~770]奈良
時代の学者。遣唐留学生として入唐。玄宗皇帝に
重く用いられ、朝衡と称した。乗船が難破して帰
国できず、唐の地で没。
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3、吉備真備

吉備真備(きび‐の‐まきび)[695~775]奈良時
代の政治家・学者。本姓は下道(しもつみち)氏。吉
備の豪族の出身。唐に留学、諸学を学ぶ。帰朝後、
橘諸兄(たちばなのもろえ)のもとで活躍。藤原仲麻
呂に疎まれ筑前守に左遷。その後、再び渡唐。仲麻
呂没落後、中央に帰り右大臣となる。律令の刪定
(さんてい)などに尽力。吉備大臣と称せられた。
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4、玄奘三蔵
 玄奘三蔵(げんじょう さんぞう, 仁寿2年(602年) - 麟徳元年2月5
日(664年3月7日))は、唐代の中国の訳経僧、三蔵法師。
 生涯
 洛陽近郊の緱氏県の陳氏(地方官を歴任した士大夫の家)に生まれ
る。諱は褘である。10歳のときに兄の長捷のもと、洛陽の浄土寺で
出家し、玄奘と名づけられた。隋末の動乱によって各地を転々とし
ながらも、『涅槃経』と『摂大乗論』を学ぶ。武徳元年(618年)に
は長捷と共に長安入りを果たし、後に戦乱を避けて成都に至る。そ
の後も各地を巡り、20歳で具足戒を受ける。
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 西域の旅・帰還後
 唯識の『瑜伽師地論』等の仏典の研究には原典による他ないと決
意し、また同時に仏跡の巡礼を志し、貞観3年(629年)に国禁を
犯して出国した。
 河西回廊を経て高昌に至り、天山北路を通って中央アジアから天
竺(現在のインド)に至る。ナーランダ寺では5年にわたり戒賢よ
り唯識を学び、また各地の仏跡を巡拝した後、天山南路を経て帰
国の途につき、貞観19年(645年)1月、657部という膨大な経典を
長安に持ち帰った。インドにおいては、ヴァルダナ朝の王ハル
シャ・ヴァルダナの厚い崇敬と保護を受け、ハルシャ王へも進講
している。長年にわたる旅の記録は『大唐西域記』として残され
ており、当時の中央アジア・インド社会の様相を伝える貴重な歴
史資料ともなっている。帰国した彼は、持ち帰った膨大な梵経の
翻訳に専念した。
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 貞観19年(645年)2月6日に弘福寺(のちに大慈
恩寺、玉華宮)の翻経院で太宗の勅命によって始
まった玄奘の翻訳は、『大般若経』600巻等、76
部1,347巻に及んだ。長安の大雁塔はインドから
持ち帰った経典や仏像などを保存するために、玄
奘が高宗に申し出て652年に建立された塔である。
 麟徳元年(664年)、長安近郊の玉華宮において
寂した。
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 訳経
 玄奘の翻訳は、その当時の中国語に相応しい訳語を新たに
選び直しており、それ以前のKumārajīvaクマーラジーバ
(鳩摩羅什)らの漢訳仏典を旧訳(くやく)、それ以後の
漢訳仏典を新訳(しんやく)と呼ぶ。一例として『般若心
経』も彼が翻訳したものとされているが、この中で使われ
ている観自在菩薩は クマーラジーバによる旧訳では観音経
の趣意を意訳した観世音菩薩となっている。訳文の簡潔さ、
流麗さでは旧訳が勝るといわれているが、サンスクリット
の原語Avalokiteśvara「アヴァローキテーシュヴァラ」は
「自由に見ることができる」という意味なので、観自在菩
薩の方が訳語として正確であり、また玄奘自身も旧訳を非
難している。
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 一説では唐の太宗皇帝の姓名が「李世民」であった
ため、「世」の字を使うのが避諱によりはばかられ
たからともされる。一方、玄奘にはこの『般若心
経』をはじめとして維摩経など、あたかもクマーラ
ジーバ訳に上書きして済ましたかのごとき翻訳もあ
り、彼の学究としての興味の程度により仕事ぶりが
変わるようである。
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 宗派
 玄奘のもとからは、基らの門弟によって創められた法相宗や倶舎
宗といった新しい宗派が興った。遣唐使の一員として入唐した道
昭がその教えを受けた。 道昭の弟子とされるのが、行基である。
現在、埼玉県さいたま市(旧岩槻市)にある天台宗慈恩寺に、そ
の霊骨は分骨され安置されている。これは、日中戦争のさなか、
1942年(昭和17年)に、南京市の中華門外にある雨花台で、偶然、
旧日本軍が発見したものである。それは、縦59cm横78cm高さ57cm
の石槨で、中には縦51cm横51cm高さ30cmの石棺が納められていた。
石棺の内部には、北宋代の1027年(天聖5年)と明の1386年(洪武
19年)の葬誌が彫られていた。石棺内に納められていたのは、頭
骨であり、その他に多数の副葬品も見つかった。
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 この玄奘の霊骨の扱いには関しては、日中で応酬を
経た後、分骨することで決着を見た。中国側は、北
平の法源寺内・大遍覚堂に安置された。その他、各
地にも分骨され、南京の霊谷寺や成都の浄慈寺など、
数ヶ寺に安置される他、南京博物院にも置かれてい
る。
 この時、日本で奉安されたのが、現さいたま市(旧
岩槻市)の慈恩寺である。後に奈良市の薬師寺「玄
奘三蔵院」に一部分骨された。
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5、国子監
 国子監(こくしかん)とは、中国における隋代以降、近
代以前の最高学府。各王朝の都(長安・洛陽・開封・南
京)など)に設けられた。明代には南京と北京の二都に
設けられた。
 明代の南京国子監は、清初には江寧府学に改められた。
清末には太平天国の後、紆余曲折を経て、両江師範学堂
がこの地に置かれ、西洋風の建築物が建てられた。中華
民国時代には南京高等師範学校の園内となった。なお南
京高等師範学校は1921年、国立東南大学となり、1928年
には国立中央大学と改められた。
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 中華人民共和国成立後は1949年に名を国立南京大学と
改められ、1950年からは南京大学と称した。国子監跡地
にあったのは工学院であったが、1952年には全国規模の
院系調整により、南京大学から分かれて南京工学院と
なり、南京工学院は1988年、名を東南大学と改めて現
在に至っている。
 元・明・清三代に渡って置かれた北京国子監は現在、
北京市東城区の国子監街にある。その建築物は現在に
至るまで残されており、全国重点文物保護单位となっ
ている。また、北京市の国子監街は2010年第1回「中国
歴史文化名街」の1つに選定された。
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6、ソグド人
 ソグド人Sogd は中央アジアの、ゼラフシャン川流域を中心とす
るいわゆるソグディアナ地方の原住民。ソグド人はイラン系で、
古くから国際的商業貿易に従事して、東トルキスタン、天山山
脈北麓(ほくろく)、甘粛(かんしゅく)北西部、モンゴル高
原内部に居留地をつくり、唐の長安にも多数住んでいた。とく
に匈奴(きょうど)、突厥(とっけつ)、ウイグルなどの遊牧
国家の内部では、商業に従うとともに、その君主たちの政治
的・文化的顧問として活躍し、中国では商胡(しょうこ)、賈
胡(ここ)などとよばれた。
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 初めはゾロアスター教徒であったが、のちにマニ教を奉ずる
者も現れ、彼らの発展によって、マニ教がウイグルの国教と
なり、ついで唐代の中国に伝わった。彼らの使用した暦は、
ティームール帝国のウルグ・ベク(在位1447~49)のときま
でこの地方で使用され、またソグド文字からウイグル文字が
つくられ、これがモンゴル文字、満州文字のもとになった。
なお、最近の研究によると、いわゆる突厥文字もソグド文字
からつくられたものであるといわれている。近年、サマルカ
ンド東方のムグ山、サマルカンド東方のペンジケントから、
文書(ムグ文書。紙・木などに書かれた法律・経済文書)や、
ソグド人の都市遺跡、各種の遺物が発掘され、彼らの生活様
式、文化などが明らかになりつつある。
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7、バグダード
 バグダードBaghd d イラクの首都。同国中央部、ティグリス川
沿岸に位置する。人口約495万8000(2001)。気候は、砂漠が近
いため乾燥し、年降水量は156ミリメートルにすぎず、降水はほ
とんど冬に集中する。冬は温暖だが夏の暑さは厳しい(7月の平
均気温35.1℃)。古い歴史をもち、イラクの政治、経済、文化
の中心地で諸官庁や外国公館があるほか、同国の工業の大半が
集中し、皮革、絹・綿製品、セメント、たばこ、アラック酒な
どの製造業があり、石油関連諸工業が急速に発展している。
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8、朱雀門
 朱雀門(すざくもん)、平城宮、平安宮などの宮城南面中央に
ある門。南門ともいう。大内裏(だいだいり)の正門で、儀式
や歌垣(うたがき)が行われた。朱雀門の名称は、中国の長安
城に倣ったもので、もとは大伴(おおとも)門といい、これは、
飛鳥(あすか)時代から天皇警護の中心であった大伴氏の名が
つけられたため、とされている。平安宮では、東西七間で戸が
五間、二階建てで、瓦葺(かわらぶ)き、鵄尾(しび)を頂き、
柱は赤く塗られていた。門の警備は、左右の衛門(えもん)府
が共同であたったが、のちには荒廃して、盗賊のすみかになっ
たとか、鬼や化け物が出たなどの話が残っている。
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9、奈良平城京
 平城京(へいじょうきょう)は、奈良時代の日本
の首都。所謂「奈良の都」である。唐の都「長安」
や北魏洛陽城等を模倣して建造されたとされ、現
在の奈良県奈良市及び大和郡山市近辺に位置して
いた。
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10、史君墓
 胡人の墓「史君墓」(しくんぼ)。2003年6月、西安の北の郊外で胡
人のお墓「史君墓」が見つかた。1400年以上前の北周時代の胡人官
僚の墓といわれ、中華文明と西域の文明の研究にとって、重大な発
見である。
胡人、いわゆるソグド人のことです。シルクロードの主役として
活躍しました。火を崇拝するゾロアスター教を信仰することでも有
名である。ソグド人は独自の文字と言語を持ち、若いときから商売
を習い、最先端の情報や文化、西域の品々が長安へ運ばれた。楊貴
妃と玄宗皇帝で有名な安史の乱を起した安禄山は胡人だったと言わ
れている。「胡姫」と呼ばれたソグドの女性は長安の酒場の花、
「胡旋舞」という踊りが大人気を博したと言う。
今回、同じくソグド人の「安伽墓」も西安博物院で初公開された。
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11、ゾロアスター
 ゾロアスター(ぞろあすたー)Zoroaster 生没年不詳。古代ペルシア
の宗教家、思想家。ゾロアスター教の開祖。ペルシア語でザラスシュ
トラZarathushtraという。ゾロアスターはギリシア語を介しての英語
読み。紀元前600年ころの人とする説もあるが、彼自身の作になる讃歌
(さんか)「ガーサー」の言語、形式、内容から紀元前1200年ころの
人と推測される。しかし、定説はない。東北イランから南ロシアにか
けて遊牧・半定住生活をしていたインド・イラン語族の一部族の祭司
階級に生まれた。30歳でアフラ・マズダーによる啓示を受け、倫理性
を尊ぶと同時にきわめて楽観的な新宗教(のちにゾロアスター教とよ
ばれる)を開いた。故郷では受け入れられなかったので、40歳で伝道
の旅に出、2年後、東北イランのバルフ地方を支配していたウイシュ
タースパ王の改宗に成功して、この信仰を広める契機をつくった。最
初の結婚による娘を王の宰相ジャーマスパに嫁がせ、自らもジャーマ
スパの姪(めい)を三度目の妻として迎えて地歩を固めた。77歳まで
信仰の発展に尽くしたが、対立部族の手によって暗殺されたといわれ
る。なお、ニーチェの『ツァラトゥストラ』はゾロアスターのドイツ
語読みである。
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12、突厥
 突厥(とっけつ)《T rkの音写》6~8世紀にかけて、モンゴルか
ら中央アジアを支配したトルコ系遊牧民族。また、その国。ササ
ン朝ペルシアと協力してエフタルを滅ぼし大帝国となったが、583
年には東西に分裂。モンゴル高原を支配した東突厥は、630年、唐
の攻撃で滅び、中央アジアを支配した西突厥も唐に討たれ、7世紀
末に滅亡。東突厥はその後一時復興したが、8世紀初めウイグルに
討たれ滅亡。
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13、《百人一首》
 百人一首(ひゃくにんいっしゅ、故実読みはひゃく
にんしゅ)とは、古来の代表的な歌人百人について、
一人一首を選んでつくった詞華集のことである。現
在の日本においては通常、その中でも、小倉百人一
首と通称される、藤原定家撰による新古今期までの
代表的な歌人百人について作られた私撰和歌集を指
す。
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 1、井真成
 日本遣唐使——井真成墓志
 2005年8月24日,惟一一方日本遣唐使墓志在东京展出时,
日本天皇亲临参观。这方墓志在西安发现后,引发了中日
双方对遣唐使和墓志主人井真成的研究热潮。
 中国古代文化对日本的深刻影响,日本学者已有明确认识,
但这方墓志则传达出更为复杂深远的历史情感:它再次证
实了日本国号与中国的渊源,还表达了当时的唐朝天子对
一名日本遣唐使者的个人情谊。
 更多的学者借着这方墓志的缘由,重新审视了千年来的中
日交往史。
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 这是块不同寻常的石头。盖为青石,底是白石,近方形,
上有楷书刻字。当贾麦明用软毛笔刷净石头上的土,看清
上面的字时,手开始不停地颤抖。石盖刻有“国号日本”字
样,底座上则有开元年号。“我当场就断定这是一个日本
遣唐使的墓志。”
 作为西北大学历史博物馆的副馆长,贾麦明偶然中征集到
的这块石头,在随后的研究中被证明为迄今发现的惟一一
方日本遣唐使墓志。
 墓志面世在日本引起的轰动让贾麦明惊奇:在这位遣唐使
的故乡藤井寺市里,成立了相关的研究会,发行了关于他
的纪念邮票,并打算用他作为这座城市的形象。2005年8
月24日,墓志在东京国立博物馆展出时,日本天皇亲临参
观。
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 中国古代文化对日本的深刻影响,日本学者已有明确
认识,木宫泰彦在《中日交通史》中说:“日本中古之
制度,人皆以为多系日本自创,然一检唐史,则知多
模仿唐制也。”
 然而这块石头所传递出来的历史情感要复杂得多。这
方墓志除了再次证实了日本国号为中国所赐,还表达
了当时的唐朝天子对一名日本遣唐使者的个人情谊。
 更多的学者借着这方墓志的缘由,重新审视了千年来
的中日交往史。
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 少年“才称天纵”
 李白的挚友阿倍仲麻吕,回国后利用汉字创立片假名的
下道真备和为日本完善律法的大和长冈等人,和井真成
同时入唐。这些赫赫名声的人,都还只是群十八九岁的
孩子。
 1200多年前,难波港(今日本大阪)内一派热闹的景象,又
一支准备渡海前往中国的使团船队要出发了。四只巨大
的木制帆船依次排列着,每只船上都能载一百多人,船
舷和桅杆上彩带飘扬。日本天皇举行宴会,作歌送行。
40
 侍臣们唱起天皇写的送行诗:
 希望你们渡大海如平地,
 居船上如坐床,
 四船联翩,
 不日平安归航!
 这方墓志的主人当时就坐在其中一艘巨船中,被祥和、悠长的祝愿声
围裹着,离开港口,驶向苍茫大海。他的名字叫做井真成。
 离开故乡之时,井真成多大年纪,墓志上的文字并无记载,只写道,
公元734年,这位才能出众的遣唐使,因病死于长安,享年36岁。
 《新唐书》记载,在公元717年和公元733年各有一批遣唐使从日本出
发。如果是在733年出海,井真成已35岁。日本奈良大学文学部教授东
野治之认为可能性不大。
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 在日本的遣唐使团中,除了学问僧外还有两种人,一种是年轻的
留学生,年龄一般十八九岁,他们将在中国学习二三十年后,才
被允许重回日本。另一种是请益生,他们的年龄较大,只在中国
住1年。
 “作为三十过半的请益生,很难想象在日本没有一官半职。官员入
唐后,其称呼会在墓志上被保留。”而井真成的墓志上并未记录他
生前的官职,东野治之说,因此,基本可以断定,井真成应当是
在717年入唐,正好19岁。
 这是日本第九次派遣遣唐使入唐,500多人挤在4艘大船里。这些
年轻的留学生都是日本中层官僚的子女,而且还要经过严格挑选,
必须学识、样貌都需要达到才俊的标准才能入唐。
 井真成在这方墓志上被形容为“才称天纵”。
42
 巨船之上,还有日后成为李白挚友的阿倍仲麻
吕,回国后利用汉字创立片假名的下道真备和
为日本完善律法的大和长冈等人,他们和井真
成同时入唐。当时,这些在中日两国历史上留
下了赫赫名声的人,都还只是群十八九岁的孩
子。
43
 岛国的姿态
 志石上“国号日本”与“开元廿二年(公元734年)”的记载,将
现存最早关于“日本”的文字记载746年提前了数十年。学
者认为,这也再次佐证了日本国号乃大唐所赐。
 篆刻井真成墓志铭的志石,周长约39厘米,上面仅有117
字,在面世数月后,却被视为中日文化交流史上的“一级
历史资料”。
 对于这个太平洋上的岛国,中国早在秦汉即有记载,但
史籍中多称为“倭国”。而在唐初之前,日本虽多次向中国
遣使,但其态度和目的却和后来大为不同。
 “从隋朝到唐朝初期,日本对华遣使时多为政治目的,而
且带着一种骄傲态度,甚至是傲慢。”北京大学中国古代
史研究中心教授王小甫说。
44
 日本第二次遣隋使到中国递交的国书中称“日出处天子致
书日没处天子”。第三次遣隋使国书称“东天皇敬白西皇
帝”。王小甫认为,“那些国书中充分表露出,这个岛国
欲与中国分庭抗礼的心态。”
 甚至在唐初的公元660年,日本遣使向唐朝皇帝提出要求
一些小国“每岁入贡本国之朝”,以显示自己是和中国一
样使夷狄臣服的大国。王小甫认为,这一态度反映了日
本对当时中国国力和文化的先进性认识不足。
 井真成入唐时,日本对唐朝文化的认识已经发生改观。
这与一次发生在朝鲜半岛附近的战争有关。
45
 公元663年,日本试图帮助被唐朝吞灭的百济复国,而在
白村江口和唐军大战。遭遇彻底失败后,日本发现了和
中国的距离。
 在朝鲜半岛附近,唐水军首先到达白村江口。之后,日
本水军也从海上抵达白村江,两军遭遇。当时,日本水
兵万余,有1000多艘战船,而大唐水军仅有7000余人,
170艘战船。虽在人、船数量上相差悬殊,但大唐水军船
坚器利,最终,“四战捷,焚其舟四百艘,烟焰涨天,海
水皆赤,贼众大溃。”
 日本学者森公章在近作《“白村江”之后》里说,“白江战
败以后产生的这种冲击余波,如同明治维新和二次大战
以后一样,可以说是一个举国奔走引进‘敌国’国家体制和
文化的时期。
46
 自此以后,日本遣唐使到中国来只是倾力学习唐朝文化,
不再向朝廷要求册封,甚至甘心于等同“蕃国”,其国策
也由过去的地区政治进取转向了内敛、和平、发展的方
向。
 就是在这个时期,年轻的井真成出海,踏上了“衔命远邦,
驰骋上国”的路途。
 同在巨船之上的,还有诸多日本工匠,他们是去唐朝学
习制造工艺的。认识到差距之后,日本开始迅速转向,
从制造、建筑到典章制度,全面向中国学习。
47
 盛唐气象
 在海上漂泊近3个月后,井真成到达宁波。按照惯例,他
们受到了热烈的欢迎。当地人民隆重地接待遣唐使,政府
则会把他们一路护送至首都长安。
 公元713年到公元756年,正是唐玄宗治世的开元-天宝年间,
也是盛唐时代中的鼎盛时期。唐玄宗在政治、经济、社会
和外交等各个方面,都实行了与过去不同的政策。长安城
到处洋溢着一种空前未有的生气。
 研究遣唐使的中央大学教授妹尾达彦说,他完全能想象,
作为一位来自遥远岛国的使者,在面对长安城的奇异景观
时,内心是如何震撼。那时,整个城市里流动着含黄土高
原风沙的干燥空气,街道上漂浮着特殊的内陆泥土气息。
48
 这座城池的建筑规模之大让人震惊。经对唐长安城遗址实
测,它面积约有84平方公里,是现在西安城面积的9.7倍、
明清北京城的1.4倍、古代罗马城的7倍。
 这位日本少年进入城后,很快被淹没于人海中。妹尾达彦
说,当时长安城的多样性居民构成和居民人数庞大的大都
市能量在日本是根本见不到的。
 唐长安是世界历史上第一个达到百万人口的大城市,是当
时世界上最大的国际大都市。世界西方和东方的商业、文
化都在这里交流、汇集。
 据《唐六典》记载,当时西域各国“入居长安者近万家”。
在公元679年,波斯王子泥俚斯自长安归国,统率的部属就
多达数千人。长安的那些著名佛寺中如兴善寺、慈恩寺、
青龙寺、香积寺等,都居住着外国高僧。
49
 接待日本遣唐使等外国使节的鸿胪寺及用于会客和寄宿
设施鸿胪馆,都建在皇城南边的一片广大地区上。它们
离皇城南门的朱雀门不远,据说这样设计为了方便访问
京城的外国使节,同时也有避免使其与其他官员接触,
防止泄漏政治机密的用意。
 出皇城的朱雀门后沿大街向东走一公里,就是留学生学
习的国立学校———国子监,遣唐使一行渴望拜谒的孔
子庙(文庙)就建在国子监院内。
 妹尾达彦说,“可以说,在井真成的那座小小的坟墓中,
浓缩了那个时期的长安的政治状况和城市文化状况”
50
 千年前的“国际学校”
 作为日本留学生,井真成和阿倍仲麻吕、下道真备等人一律被
安排在国子监学习。
 在中国的学习,给井真成带来了新的面貌。铭文中称赞这位年
轻人在“踏礼乐,袭衣冠”之后,“束带立朝,难与俦矣”———如
果穿上官服站立于朝廷,气度无人能比。
 作为日本留学生,井真成和阿倍仲麻吕、下道真备等人一律被
安排在国子监学习。唐玄宗命国子监的四门助教赵玄默教授这
些留学生们的功课。唐朝国子监有六学:国子学、太学、四门
学、律学、书学和算学,各学招生对象不同。
 井真成究竟在哪一个学部学习,这还是个谜团。只知道他的同
行者阿倍仲麻吕是在“太学”中学习。
51
 依据《唐六典》,进入哪一个学部要看家庭出身背
景。国子学和太学的学生,父母的官衔一般要在三
品、五品以上。浙江工商大学日本文化研究所教授
王勇推断,阿倍仲麻吕得以进入太学,大概是因为
他父亲在日本为朝中高官。而井真成和下道真备的
出身相对较为低微,最多只能进入四门学。
 1200多年前,这些高等学府就像一个个国际学校,东、
西方的留学生都混杂在一起学习。阿倍仲麻吕苦学
五、六年后,竟在与中国学生一起参加的考试中得
中进士。唐玄宗赐名晁衡,并让他担任皇帝侍从官
的左补阙。
52
 阿倍仲麻吕终身在中国为官,他和李白、王维来往
密切,彼此经常写诗唱和,73岁在长安逝世。
 下道真备则在中国住了17年,就学于四门助教赵玄
默,深通五经三史、历算、刑律、军制等诸艺。他
回国时携带中国典籍1700多部。在日本,他受到圣
武天皇的器重,官至右大臣。
 由于历史记载太少,井真成的经历就显得模糊而无
法辨认了。通过墓志上的记载,只知他“强学不倦”,
10多年来一直在追求学问。
53
 影响日本
 在日本人的生活中,中国文化的影响痕迹处处可见。从汉字、围
棋到饮茶,自传入日本,长期发展已成常人习惯。
 学业有成的井真成并未来得及衣锦还乡,就长眠在中国的土地上。
墓志铭称,井真成“问道未终……以开元廿二年正月廿日,乃终于
官弟”。
 此时,他的大多同伴陆续返回日本。遣唐使船队回日本时,唐朝
政府也经常任命中国使节陪同前往,进行回访。遣唐使团不仅带
回大量的中国文物、书籍和五金百货,也使中国的文学、宗教、
典章制度等在日本“生根发芽”。
 井真成也想回国,从墓志铭文“形既埋于异土,魂庶归于故乡”可
看出,他心中一直想念着故国。
54
 对这位天资聪慧却英年早逝的日本遣唐使,中国皇帝有着
异常深厚的情感。铭文记载,在听闻井真成忽然得病去逝
的消息后,“皇上(哀)伤”,并追奉他官职,以官礼下葬。
 而且,追奉他的官职也耐人寻味,“尚衣奉御”,即专职为
皇帝管理衣物。这个官职虽无实权,但也官至五品。而且
历史上,担任尚衣奉御一职,多为皇亲国戚,或深得皇上
宠爱、信赖的人。井真成得此厚封,足见他深得玄宗皇帝
的赏识和信任,也证明中国对日本遣唐使的真挚与友好。
 而与井真成同来的大批遣唐使回国后,在日本的政治、文
化和佛教等方面,起到了巨大作用。
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 出身法律世家的大和长冈,入唐后潜心学习唐律,
回国后曾与下道真备共同删定律令二十四条。膳大
丘在唐长安国子监学经史,归国后被任命为日本大
学寮助教,他向天皇奏请尊孔获准,推动了日本儒
学的发展。营原娓成入唐学医,回国后被任命为针
博士,对日本的医学发展极有贡献。
 在日本人的生活中,中国文化的影响痕迹处处可见。
从汉字、围棋到饮茶,自传入日本,长期发展已成
常人习惯。日本平安朝时书界有名的“三笔”,即空
海、桔逸势、嵯峨天皇三人,其中两名都曾到中国
留学。
56
 美术史家伊势专一郎说:“日本一切文化皆从中国舶来,
其绘画也由中国分支而成长,有如支流小川对本流江河。
”日本著名汉学家内藤湖南说:“日本民族未与中国文化接
触以前是一锅豆浆,中国文化就像卤水一样,日本民族和
中国文化一接触就成了豆腐。”
 更多谜底等待揭晓
 “几十个待解之谜堆积在心头,几个月内我翻阅了大量的
资料,依然没有足够的证据给出一个惟一的答案。”
 虽然在学者的反复追寻中,这位遣唐使的面貌渐渐清晰,
但围绕墓志仍有许多不解之谜:
57
 井真成这个名字是他来大唐后的取的汉名还是本来日本名的简称?
 墓志上的文字是谁书写的?是井真成的日本同学还是大唐专门负责料
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理留学生丧葬的官方机构?为什么这方墓志的底座和盖子不是同样颜
色的石料?
既然“尚衣奉御”的官衔是井真成去世后追赠的,那井真成生前有无做
官?做的是什么官?
井真成去世前,已在大唐度过17个春秋,是否已经结婚?倘若结婚,
能否找到他的后裔?
“几十个待解之谜堆积在我的心头,几个月内我翻阅了大量的资料,依
然没有足够的证据给出一个惟一的答案,”贾麦明说,这是因为墓志铭
的发现不是考古所得,无法从墓地实物挖掘中获得更多线索。
这块石头的面世,纯粹源于偶然。
58
 2004年3月底的一个星期天,贾麦明在西安八仙庵古玩市场听到一个
摆摊人说,他在东郊捡了两方合在一起的石头,盖是青石,底是白石,
上有开元和日本的字迹。
 贾麦明当时的感觉是心头一惊,他马上说,我要了。三天后,他用不
到一千元的价格买下了这块墓志铭。
 贾麦明事后曾专门找到摆摊人捡到墓志铭的地方,但这里已经是一个
楼房林立的住宅小区,要做进一步的考古发掘,已是不可能了。
 尽管如此,这方惟一的遣唐使墓志还是在日本学术界和民间掀起了热
潮。
 2004年10月11日,朝日新闻头版头条刊发了《逝于中国长安的遣唐使
井真成是井上氏还是葛井氏》的报道,一时引起很大轰动。记者渡边
延志在接受西安电视台采访时表示,这个发现具有重要的历史价值,
当时日本作为一个偏僻的岛国,能够得到大唐的承认,这有着很重要
的意义。
59
 2005年1月28日至29日,由朝日新闻社、日本专修大学和
中国西北大学共同举办的井真成研讨会在东京朝日新闻
社召开。参加该会的王维坤教授回忆,那一天,中国学
者从早上10:30讲到下午7:30,台下一直座无虚席。而
下场后很多日本民众围着他签名,使他“突然觉得自己不
是学者倒像是明星”。
 “遣唐留学生的墓志是一把开启历史之门的钥匙,它为中
日关系史新添了一段深情的佳话。”一位日本参观者在西
北大学历史博物馆留言册上留下这么一句话。
60
2、阿倍仲麻吕
 阿倍仲麻吕(698—770),日本奈良时代入唐留学生。名一作“仲麿”,
入唐后始称汉名“仲满”,后改朝衡、晁衡。一说生于701年。开元五年
(717,养老元年)随遣唐使使舶从奈良(平安京)出发经福冈,取道
南路西航,从中国扬州登陆,同行有玄昉、吉备真备、大和长冈、井
真成等557人。同年九月到达长安入太学学习。后中进士第,在唐,历
任司经局校书、左拾遗、左补阙、秘书监兼卫尉卿。工诗文,与大诗
人王维、储光羲、李白等友善。玄宗喜其才,赐名晁衡。二十一年,
请东归,玄宗未许。天宝十二载(753),随遣唐使藤原清河使舶东归,
途中遇暴风,漂流至安南。十四载,辗转再返长安。时误传其遇难,
李白曾有《哭晁卿诗》以悼之。后历官左散骑常侍、安南都护,官终
潞州大都督(从二品)。滞留唐朝五十四年,七十三岁客死长安。诗
作存于《全唐诗》中。《古今集》载其和歌一首,为在唐思乡之作,
后被选入《百人一首》。《大日本史》卷116有传。
61
 相关诗文:
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《送秘书晁衡还日本国》王维
积水不可及,安知沧海东。
九州何处远,万里若乘空。
向国惟看日,归帆但信风。
鳌身映天黑,鱼眼射波红。
乡树扶桑外,主人孤岛中。
别离方异域,音信若为通。
62
 《衔命将还国作》阿倍仲麻吕
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衔命将辞国,非才忝侍臣。
天中恋明主,海外忆慈亲。
伏奏违金阙,绯骖去玉津。
蓬莱乡路远,若木故园林。
百望怀恩日,东归感义辰。
平生一宝剑,留赠结交人。
63
 《望乡诗》阿倍仲麻吕
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仰首望长天,
神驰奈良边;
三笠山顶上,
想又皎月圆。
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 《哭晁卿衡》唐五代• 李白
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日本晁卿辞帝都,征帆一片绕蓬壶。
明月不归沉碧海,白云愁色满苍梧。
64
3、吉备真备
 吉备真备(693--775)出生在备中(今冈山县境内)小田川流域下道郡(今真
备町、矢挂町附近)的一个地方豪族家庭,其时正值日本奈良时代(710784)。

奈良时代赴唐留学生,著名学者,原姓下道朝臣。传说中吉备真
备用汉字楷体偏旁创立片假名,这个说法亦为早期台湾历史教科书和现
在初中历史与社会教科书采。世居吉备国,父下道朝臣国胜任有卫士
少尉职。少年时曾入大学寮学习。717年(灵龟二年),与阿倍仲麻吕、
大和长冈及学问僧玄昉等随多治比县守为首的第九次遣唐使团入唐学
习。在长安鸿胪寺就学于四门助教赵玄默。在唐留学近19年,研究唐
代的天文、历法、音乐、法律、兵法、建筑等知识,均有较深造诣。
回国时,带回大量中国书籍和器物。
65
 带回的《唐礼》对日本朝廷礼仪的完善和改进有很大影响,《太衍历
经》《太衍厉立成》促进了日本的历法改革,使唐代历法得以在日本
推广和使用。带回的乐器和乐书对于唐乐在日本的传播起到积极作用。
中国早已失传的《乐书要录》现仍在日本保存,成为研究唐代音乐的
重要资料。735年(天平七年),回国后,被任命为大学助,指导400多
名学生学习中国的先进文化。后又任东宫学士、春宫大夫等职,曾为
阿倍内亲王(后来的孝谦天皇)讲授《礼记》《汉书》等中国典籍。752
年以副使身份随藤原清河大使第二次赴唐。使团抵长安后,唐玄宗曾
接见,并赠吉备真备银青光禄大夫称号,离唐时玄宗赠诗相送。使团
于753年10月至扬州拜访著名高僧鉴真,对其日后东渡有所影响。归国
后,他仕途得志,屡获升迁,官至右大臣。任右大臣期间,参照《唐
律》等中国法律删定了《养老律令》。他还以《颜氏家训》为蓝本,
写成《私教类聚》一书,以训诫子孙励精图治,为历代日本思想家、
教育家所称道。775年(宝龟六年)10月病逝。
66
 养老元年(717)被朝廷选为第9次遣唐使团随行留学生,
与阿部仲麻吕等一道,自难波港(今大阪市一带)乘船
出航,几经艰险来到唐朝京都长安。自是,吉备真备
在政治稳定、经济、文化艺术空前繁荣的唐朝留学长
达18年,其间他在长安国子监勤奋钻研了三史、五经、
名刑、算术、汉音、书法等多门学问,并将政治、法
律、军事、数学、天文、历法、音乐等方面的大量书
籍和文物带回日本,其中明确记载的有《唐礼》130卷,
《大衍历经》1卷,《太衍立成》12卷,《乐书要录》
10卷等。
67
 天平胜宝四年(752),通晓经史、熟悉唐朝国情的吉备
真备受皇廷之命,作为第十一次遣唐使副使,再度漂
洋渡海,来到长安吸取盛唐文化,翌年偕阿部仲麻吕、
鉴真和尚归国,不巧途中恰遇飓风恶浪,阿部仲麻吕
被迫漂流返回中国,而吉备真备与弘扬华夏文化的伟
大使者鉴真和尚,历尽颠簸,终于抵达日本。
 晚年,吉备真备毅然辞官还乡,时常踞凸立小田川清
流畔的巨岩上,弹琴低吟,遥想追怀伴随他前后度过
19个春秋的文化名城长安,于山野的恬静中度过了余
生。这方饱涵历史灵性的巨岩至今犹在,被称作“弹琴
岩”。
68
 经过645年“大化革新”后,日本以儒教为政治的指导原理,设立
了大学寮,以经史为教科书,培养官吏。吉备真备被任命为大学
寮教授,前后在这里向400余名学生讲授了谓之“六道”的五经、
三史、明法、算术、音韵、籀篆等。特别是他以“三史”(《史
记》、《汉书》、《后汉书》)为教学内容,诱导了尔后日本在
学制领域的重大改革,他从唐携归的《唐礼》,大大有助于政府
礼典的修订;他又依据唐之《大衍历经》,于天平宝字七年废除
日本原始的“仪凤历”,改用太衍历。“三史”的研究,并非仅仅局
限于中国史书的训诂,进而取之所长,应用于日本国史的撰修。
中国的围棋由吉备真备首次带至东瀛,从而开拓出日本围棋文化
的源流。他还根据汉字的偏旁部首结构,发明了日本文字中的字
母“片假名”被尊崇为“国语之父”。
69
 1986年,为了纪念吉备真备将唐代文化传入日本1250年,为了中日
人民永远友好,日本国冈山县县民和西安市人民协力在西安唐国子
监遗址上共建了“吉备真备纪念碑”。1988年,在吉备真备的故乡冈
山县真备町,建造了充溢着浓郁唐代情调的“真备公园”和“吉备真备
公园”。漫步园内,月亮圆门,小桥流水,六角古亭,格局别致;青
松苍翠,杨柳依依,垂槐虬曲,风韵独存。尤其是突出吉备真备入
唐求学景况的大型石刻屏风和目前日本之最的石造两米见方围棋盘,
将盛唐的风雅氛围一举推向高潮。园中心高耸着由著名日中友好人
士、周总理生前好友冈崎嘉平太老先生挥毫题就的“遣唐留学生吉备
真备纪念碑”,纪念碑正面镶嵌着吉备真备身着唐装手按佩剑的逼真
形像。真备公园门口,是独具特色的唐代建筑格调大型吉备真备纪
念馆,馆内收藏着各种珍贵文物和描绘他入唐盛况的及其拜谒唐玄
宗的巨幅画卷。附有日本第50代天皇桓武天皇(737--806)御笔题词:
“故右大臣,往学盈归,播风弘道,遂登端揆。”
70
 为缅怀吉备真备,当地町民至今仍珍视着每年两
次隆重的传统节日,一个是仲秋明月之夜,举行“
弹琴祭”,在小田川畔弹琴岩上鼓琴吹箫,深情歌
吟;一个是盛夏之际举行的“遣唐使行列祭”,人
们身着唐朝服装,扮作遣唐使节,排成丽逶长队
行进,十分雄壮威武。
71
4、国子监
 国子监是中国古代隋朝以后的中央官学,为中国古代教育体系中的
最高学府。明朝由于首都北迁,在北京、南京分别都设有国子监,
于是设在南京的国子监被称为“南监”或“南雍”,而设在北京的国子
监则被称为“北监”或“北雍”。
 北京国子监始建于元朝大德十年(公元1306年),是我国元、明、
清三代国家管理教育的最高行政机关和国家设立的最高学府。坐落
在北京东城区安定门内国子监街(原名成贤街)15号,与孔庙和雍
和宫相邻。国子监街两侧槐荫夹道,大街东西两端和国子监大门两
侧牌楼彩绘,是北京仅存的建有四座牌坊的古建街。
 国子监整体建筑坐北朝南,中轴线上分布着集贤门(大门)、太学
门(二门)、琉璃牌坊、辟雍、彝伦堂、敬一亭。东西两侧有四厅
六堂,构成传统的对称格局,是我国现存唯一一所古代中央公办大
学建筑。
72
 国子监是中国古代的一种大学,始设于隋代。上古的大学,称
为成均、上庠。 董仲舒:“五帝名大学曰成均”,郑玄:“上庠为
大学。”至于夏商周,大学在夏为东序,在殷为右学,在周有东
胶,而周朝又曾设五大学:东为东序,西为瞽宗,南为成均,
北为上庠,中为辟雍。汉代始设太学,隋代始设国子监。
 西晋武帝咸宁四年(278)﹐始立国子学﹐设国子祭酒和博士各
一员﹐掌教导诸生。北齐改名国子寺。隋文帝时﹐改寺为学。
不久﹐废国子学﹐唯立太学一所﹐省祭酒﹑博士﹔置太学博士
﹐总知学事。炀帝即位﹐改为国子监﹐复置祭酒。唐沿此制﹐
国子监下设国子﹑太学﹑四门﹑律算﹑书等六学﹐各学皆立博
士﹐设祭酒一员﹐掌监学之政﹐并为皇太子讲经。
73
 唐高宗龙朔元年(661)﹐东都亦置监。一度改称司成馆或成均
监。宋属礼部。宋初承五代后周之制﹐设国子监﹐招收七品
以上官员子弟为学生。端拱二年(989)改国子监为国子学﹐淳
化五年(994)依旧为监。庆历四年(1044)建太学前﹐国子监系
宋朝最高学府。但高﹑中级官员子弟坐监读书﹐仅是挂名﹐
数量既少﹐平日听课者又甚寥寥。自设太学和其他各类学校
后﹐国子监成为掌管全国学校的总机构﹐凡太学﹑国子学﹑
武学﹑律学﹑小学﹑州县学等训导学生﹑荐送学生应举﹑修
建校舍﹑画三礼图﹑绘圣贤像﹑建阁藏书﹑皇帝视察学校﹐
皆属其主持筹办。元丰改革官制(见元丰改制)前﹐国子监官员
有判监事﹑直讲﹑丞﹑主簿等。
74
 自元丰三年(1080)起﹐改设国子祭酒(即旧判监事)﹑司业(祭
酒的副手)﹑丞﹑主簿﹑太学博士(即旧直讲)﹑学正﹑学录
﹑武学博士﹑律学博士等官﹐监内分成三案﹕厨库案管太学
钱粮﹑颁发书籍条册﹐学案管文﹑武学生公私试﹑补试﹑上
舍试﹑发解试等升补﹑考选行艺﹐知杂案管监学杂务。各案
设胥长﹑胥佐﹑贴书等吏人多员。国子监还设书库﹐刻印经
史书籍﹐供朝廷索取﹑赐予以及本监出售之用。南宋在监内
专设“印文字所”。国子监所印书籍称“监本”﹐一般刻印精美
﹐居全国之冠。北宋陪都西京﹑南京﹑北京亦陆续置国子监
﹐设分司官﹐由朝廷执政﹑侍从等官迭互充任﹐职事颇简﹐
仅出纳钱粮﹐实际成为士大夫休养之所。崇宁四年(1105)﹐
罢三京国子监官﹐各设司业一员。
75
 辽太祖置南面上京国子监﹐设祭酒﹑司业﹑丞﹑主簿﹑下辖国子
学。中京另建国子监﹐设官与上京同。金代国子监下辖国子学﹑
太学﹐设祭酒﹑司业各一员﹔监丞二至三员﹐一员兼管女直学。
元初置国子监﹐属集贤院﹐下辖国子学﹐设祭酒﹑司业﹐掌国子
学的教令﹔监丞﹐专领监务。另建蒙古国子监和回回国子监学﹐
以示与汉人﹑南人之别。
明初设中都国子学﹐后改为国子监﹐掌国学诸生训导的政令。明
成祖永乐元年(1403)﹐在北京设国子监﹐皆置祭酒﹑司业﹑监丞﹑
典簿各一员。清代国子监总管全国各类官学(宗学﹑觉罗学等除
外)﹐设管理监事大臣一员﹔祭酒﹐满﹑汉各一员﹔司业﹐满﹑蒙
﹑汉各一员。另设监丞﹑博士﹑典簿﹑典籍等学官。光绪三十三
年(1907)﹐并归学部。
76
 国子监,始于隋代,为教育机关,至清代变为只管考
试,不管教育的考试机构;到清末则成为卖官机构。
国子监学生,等于秀才,分文武两种,文称文生,武
称武生。凡依照惯例规定缴纳一定数额的钱给朝廷,
即可称为“例监生”。他们有资格去见县官,但没有什
么实权。"(摘自黄现璠著《中国封建社会史》,1952
年12月)
 历经元、明、清三代的北京国子监,位于北京市东城
区的国子监街内,是中国最后一个国子监,保存至今,
现为全国重点文物保护单位。
77
5、大唐西市
 “大唐西市”项目是在西安市政府“皇城复兴计划”的推动下,形成的一
个以商业为主线,以丝路风情和文化为特色的综合性商业地产项目。
项目占地约500亩,总投资35亿元人民币,是全国唯一在原址上重建
的项目,同时也是陕西省、西安市、莲湖区的三级重点建设项目。
 在唐朝长安有东市(今西安交大一带)和西市(今劳动南路附近)两
大市场,东市主要服务于达官贵人等少数人群,而西市则是大众化、
平民化,有大量西域、日本、韩国等国客商在内的国际性大市场。当
时西市占地1600多亩,建筑面积100万平方米,有220多个行业,固定
商铺4万多家,被誉为“金市”,是当时世界上最大的商贸中心,根据权
威机构调查,也是迄今为止世界上最大的商贸中心。在这里曾发生了
大量的历史趣闻轶事,留下了大量文人骚客的墨宝。如李白的《少年
行》,杜甫的“李白斗酒诗百篇,长安市上酒家眠”,其中都提到或涉
及到了西市。
78
6、突厥
 突厥是中国古代民族。先世源出于丁零、铁勒。南北朝时铁勒原
住在叶尼塞河上游,后南迁高昌的北山(今新疆博格达山)。 突厥
是铁勒的一部,以狼为图腾。5世纪中叶被柔然征服,徙于金山南
麓(今阿尔泰山)。 因金山形似战盔“兜鍪”,俗称突厥,因以名其
部落。以善锻铁被柔然称为“锻奴”。6世纪时突厥首领阿史那土门
遣使向西魏献方物。546年合并铁勒部5万馀落(户), 势力逐渐强
盛。552年又大败柔然,以漠北为中心在鄂尔浑河流域建立突厥奴
隶制政权。最盛时疆域东至辽海(辽河上游), 西濒西海(今咸海),
北至北海(今贝加尔湖), 南临阿姆河南。“可汗”为最高首领,其
子弟称“特勤”,将领称“设”。分辖地为“突利”(东部)、“达头”(西部)。
可汗廷帐在东、西两部之间鄂尔浑河上游一带。
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 汗国官制有28级。税法规定对普通牧民、黑民(战争中归附者)“征
发兵马、科税杂畜”。历法以动物纪年。5世纪始创制突厥文,亦
名鄂尔浑-叶尼塞文,是中国古代北方民族最古老的文字。1889年
在鄂尔浑河发现《阙特勤碑》和《毗伽可汗碑》后,始为世人所
知。据《新唐书》、《旧唐书》的《突厥传》,前一碑文的汉文
为唐玄宗撰。突厥在隋唐时期与中原汉族政治经济联系密切。582
年分裂为东突厥和西突厥,其中东突厥可汗汗室为原统一突厥可
汗正支嫡系之后,故东突厥仍经常被直呼为“突厥”。638、659年,
东西突厥先后统一于唐。680年,南迁的东突厥之后北返复国,
建立后突厥汗国,745年亡于回纥。突厥各部乃大多附于回纥,一
部西迁中亚,另部南下附唐。

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7、尚衣奉御
 尚衣奉御,这个官阶为从五品上,高于阿部的官阶。
81
82
 1、大雁塔(だいがんとう) 652年に唐の高僧玄奘三蔵がインドから持ち

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帰った経典や仏像などを保存するために、高宗に申し出て建立した塔。
2、水しぶき(みずしぶき) 大量の水が飛沫となって飛び散ること。
3、噴水(ふんすい) ふき出る水。
4、古(いにしえ) 過ぎ去った古い時代
5、見守る(みまもる)目を離さずにじっと見る
6、移り変わる(うつりかわる) 時とともに変わっていく。
7、東西南北(とうざいなんぼく)
8、大路(おおじ)幅の広い道路。町中の大きな道。大通り。
9、伸びる(のびる)もとからある物につなげられて長くなる。
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 10、目指す(めざす)到達・達成の目標とする。
 11、疎ら(まばら)すきまだらけのさま。
 12、華やか(はなやか)花が開いたように、明るく人目を引きつ
ま。
けるさ
 13、変貌(へんぼう)姿やようすが変わること。
 14、見詰める(みつめる)凝視する。
 15、王朝(おうちょう) 同じ王家に属する帝王の系列。また、その王家
が支配している時期。
 16、インフラ インフラストラクチャーの略語《下部構造の意》社会的経
済基盤と社会的生産基盤とを形成するものの総称。
 17、整備せい‐び【整備】すぐ役立つように準備したり整えたりすること。
 18、裏付ける(うらづける)ある事が確かであることを証拠立てる。物事
を確実なものとする。
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 19、追う(おう)先に進むものに行き着こうとして急ぐ。あとをつ


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いて行く。
20、出土(しゅつど)遺物や遺跡が土の中から出ること。
21、名もない(なもない)無名の
22、暮らし振り(くらしぶり)日々の生活のやり方。日常のようす。
23、中継貿易(ちゅうけいぼうえき)一国の周辺他国との貿易の形
態のひとつ。自国で原材料から生産、加工したものを他国に輸出し、
自国では生産できなかったり、不足するものをその代わりに輸入す
るというのではなく、他国から輸入したものをさらに別の他国に輸
出するというものである。いわゆる加工貿易とは異なり、輸入した
ものをそのまま、輸出することを指す。
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 24、生業/家業(なりわい)生活を営むための仕事。
 25、川の辺/畔(ほとり)その付近。近辺。あたり。そば。
 26、駱駝(らくだ)偶蹄(ぐうてい)目ラクダ科の哺乳類のうち、ヒトコブラ
クダとフタコブラクダの総称。
 27、キャラバン(caravan)砂漠を隊を組んで行く商人の一団。隊商。
 28、生き抜く(いきぬく)さまざまな苦しみや障害を乗り越えて、どこまで
も生きる。生き通す。
 29、記す(きする)書きとめる。しるす。
 30、授ける(さずける)目上の者が目下の者に特別に与える。
 31、乗り込む(のりこむ)乗り物に乗ってその中へはいる。
 32、総勢(そうぜい)その集団の全部の人員。また、その数。
 33、刻まれる(きざむ)刃物で物を細かく切る。
 34、連ねる/列ねる(つらねる)列に、また順番に並べる。
 35、木の葉
(このは)樹木の葉。きのは。
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 36、右大臣(うだいじん)朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。
 37、荒れ狂う(あれくるう)風や波などが、ひどく荒れさわぐ。
 38、冠(かん)最も優れているさま。最高と認められるさま。多く「冠
たる」の形で用いる。
 39、アラル海 サマルカンド【Samarkand】南東部にある都市。中央アジ
ア最古の都市の一つで、古来、東西交易の要地として栄え、14~15世紀
にはチムール帝国の都。
 40、碁盤(ごばん)囲碁に使う方形の盤。
 41、区画(くかく)区切り
 42、メーン‐ストリート(main street)本通り。目抜き通り。大通り。
 43、合間(あいま)間の時間に、暇な間に。
 44、舞上るまいあがる
舞うようにして空中高くあがる
 45、砂埃(すなぼこり)細かい砂が、煙のように舞い上がったもの。砂
塵(さじん)。
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 46、スケール
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大きさの程度。規模。
47、ユネスコ(UNESCO)(United Nations Educational, Scientific
and Cultural Organization)国連教育科学文化機関。
48、面影(おもかげ)記憶によって心に思い浮かべる顔や姿。
49、軒(のき)屋根の下端で、建物の壁面より外に突出している部分。
50、我等(われら) 一人称の人代名詞。「われ」の複数。わたくしたち。
われわれ。
51、エキゾチック(exotic)異国の情緒や雰囲気のあるさま。異国的。
52、酒場の花(はな)華やかできらびやかなもの。「社交界の―」「―
の都」
53、施す(ほどこす)飾りや補いのために何かを付け加える。
54、心を躍らせる(おどらせる)喜びや楽しい期待などのために心をわ
くわくさせる。
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 55、蘇る(よみがえる)《黄泉(よみ)から帰る意》1 死んだもの、死
にかけたものが生きかえる。蘇生する。「死者が―・る」。2 一度衰
退したものが、再び盛んになる。「記憶が―・る」。
 56、満ちる(みちる)一定の枠、空間や限界を越えそうになるほどいっ
ぱいになる。あふれる。
 57、ぶつかる出くわす。遭遇する。
 58、オアシス(oasis)砂漠の中で、水が湧き、樹木の生えている所。
 59、ネトッワ―ク(network)《網状組織の意》テレビ・ラジオで、
キー局を中心にして多数の放送局が協定を結び、同一番組を放送するこ
と。また、その組織。放送網。
 60、ラスベガス(Las Vegas)米国ネバダ州南部の観光都市。砂漠地帯
にある。1931年に州法により賭博(とばく)が認められて以来の世界的な
歓楽地。
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 61、取り戻す(とりもどす)一度失ったものや与えたものを再び自分のも
のとする。取り返す。
 62、儲かる(もうかる) 利益が得られる。
 63、プロジェクト(project)企画。計画事業。研究開発計画。
 64、立ち退き(たちのき)立ち退くこと。特に、住まいを明け渡してよそ
へ移ること。
 65、打ち立てる(うちたてる)物事をしっかりと定める。確立する。
 66、抜きんでる(ぬきんでる)すぐれる(優れる・勝れる)
 67、土地勘、土地鑑(とちかん)その土地の地理・地形・事情などについ
ての知識。
 68、出店(でみせ)本店から分かれて別の場所に出した店。支店。
 69、付き添い(つきそい)付き添うこと。また、その人。
 70、デジタル(digital)連続的な量を、段階的に区切って数字で表すこ
と。計器の測定値やコンピューターの計算結果を、数字で表示すること。
数字表示。
90
 71、呼び込む(よびこむ)呼んで中に入れる。呼び入れる。
 72、操る(あやつる)操作する。
 73、一線を越える(いっせんをこえる)守るべきことを破る。してはなら
ないことをする。
 74、担い手(にないて)中心となってある事柄を支え、推し進めていく人。
 75、大手(おおて)同種の企業の中で、特に規模の大きい会社。
 76、精鋭(せいえい)えり抜きのすぐれた人・兵士。
 77、潜り抜ける(くぐり‐ぬ・ける)困難や危険な状況を切り抜ける。
 78、たゆむ

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疲れる。くたびれる。
79、ロケットエンジンrocket engine 原理的にはロケット推進薬(推進剤
ともいう)を高速で噴出し、その反作用で推力を得る装置であり、ジェッ
トエンジンと原理は同じである。
80、街角(まちかど)街頭
81、大道芸人(だいどうげいにん)大道芸をして生計を立てる人。
82、エリ-ト 社会や集団で、指導的、支配的役割を受け持つ層。
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 83、携える(たずさえる)身につけて持つ。
 84、綴る(つづる)言葉をつらねて詩歌や文章を作る。
 85、しきたり
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ならわし。慣例。
86、則る(のっとる)規準・規範として従う。
87、称える(たたえる)ほめていう。ほめる。
88、突き出る(つきでる)突き破って出る。
89、艶やか(あでやか)女性の容姿がなまめかしいさま。美しくて華やか
なさま。
90、光ファイバー 高純度のガラスやプラスチックでできた細い繊維。光
通信用ケーブル・胃カメラなど、光による情報伝達路として用いる。
91、ケーブル 針金や麻をより合わせて作った、太くて強い綱。2 絶縁
物で覆った電線を束ね、さらに外装して1本にしたもの。電信・電話線な
どに用いる。
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 92、張り巡らす(はりめぐらす)まわり一面に張る。もれなく張る。は
りまわす。
 93、延長(えんちょう)つながるもの。
 94、タクラマカン砂漠(塔克拉瑪干沙漠)中央アジア、中国の新疆ウイ
グル自治区にある砂漠である。
 95、オアシス 砂漠の中で、水が湧き、樹木の生えている所。
 96、カシュガル(Kashgar)中国新疆ウイグル自治区西部のオアシス都
市。天山南路最西部にあり、交通の要地。漢代には疎勒(そろく)とよば
れた。
 97、庫爾勒(コルラ)中国、新疆ウイグル自治区中央部、バインゴル・
モンゴル自治州北部の市。同自治州の政府所在地。天山(てんざん)山
脈南麓(なんろく)、タリム盆地北東部にある。クチャ、アクスなどを
結ぶ天山南路の拠点で、現在トゥルファンから南疆(なんきょう)線が
通じる。小麦、ワタ作などのオアシス農業や牧畜業が発達し、ナシ(香
梨)は特産である。
93
 98、引き詰める(ひきつめる)強く引っ張ってすきまのないように
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
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する。
99、集う(つどう)人々がある目的をもってある場所に集まる。
100、織り上げる(おりあげる)織っている布を完成させる。
101、遂げる(とげる)目的を達する。果たす。
102、グローバル(global)世界的な規模であるさま。
103、顔立ち(かおだち)顔全体の形。顔のつくり。目鼻立ち。
104、soft park ソフト工業地区
105、シリコンバレー(Silicon Valley)米国カリフォルニア州サ
ンフランシスコ市の南方にあるサンノゼ・サンタクララ付近一帯の
通称。半導体企業が集中しているのでいう。
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95
 1、品々(しなじな)
2、盛む(さかむ)
 3、物語る(ものがたる)
4、貴族(きぞく)
 5、官僚(かんりょう)
6、髪の毛(かみのけ)
 7、高官(こうかん)
8、西域(さいいき)
 9、胡人(こじん)
10、イラン系(けい)
 11、主役(しゅやく)
12、交易(こうえき)
 13、闊歩(かっぽ)
14、埋める(うめる)
 15、遣唐使船(けんとうしせん) 16、山岳(さんがく)
 17、墓誌(ぼし)
18、埋葬(まいそう)
 19、縦(たて)
20、横(よこ)
 21、端整(たんせい)
22、楷書(かいしょ)
 23、礼儀教養(れいぎきょうよう) 24、風俗(ふうぞく)
 25、役人(やくにん)
26、遥か(はるか)
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 27、揺れる(ゆれる)
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28、大唐帝国()
29、誇る(ほこる)
30、漢の武帝(かんのぶてい)
31、物流生命線(ぶつりゅうせいめいせん)32、城壁(じょうへき)
33、囲む(かこむ)
34、玄宗皇帝(げんそうこうてい)
35、盛り(さかり)
36、明の時代(みんのじだい)
37、築く(きずく)
38、整然(せいぜん)
39、賓客(ひんきゃく)
40、元日(がんじつ)
41、復元(ふくげん)
42、独特乾いた空気(かわいた)
43、宮殿(きゅうでん)
44、儀礼(ぎれい)
45、壁画(へきが)
46、市場(いじば)
47、物産(ぶっさん)
48、庶民の町(しょみんのまち)
49、絹織物(きのおりもの)
50、香料(こうりょう)
51、装飾(そうしょく)
52、信仰(しんこう)
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 53、西域文明(さいいきぶんめい)
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54、炎(ほのお)
55、民(たみ)
56、集落(しゅうらく)
57、最先端(さいせんたん)
58、西の市(にしのいち)
59、異国の香り(いこくのかおり)
60、遺風(いふう)
61、風格(ふうかく)
62、高級ブランド品(こうきゅう)
63、一流ファッション(いりりゅう64、重点項目(じゅうてんこうもく)
65、急(きゅう)な通告
66、明け渡す(あけわたす)
67、動き出す(うごきだす)
68、町(まち)をあげて
69、繁栄(はんえい)
70、基礎(きそ)を付ける
71、太宗(たいそう)
72、皇帝(こうてい)
73、昭陵(しょうりょう)
74、蕃臣像(ばんしんぞう)
75、遊牧騎馬民族(ゆうぼくきばみんぞく)76、髪型(かみかた)
77、征服(せいふく)
78、首領(しゅりょう)
79、証(あかし)
80、従順(じゅうじゅん)
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 81、人種(じんしゅ)
83、差別(さべつ)
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82、出身民族(しゅっしんみんぞく)
84、優遇(ゆうぐう)
85、政権の中枢(ちゅうすう)に起用する 86、花開く(はなひらく)
87、名門(めいもん)
88、生涯(しょうがい)
89、難関中の難関(なんかん)
90、科挙試験(かきょしけん)
91、将軍(しょうぐん)
92、豪族(ごうぞく)
93、兵法(へいほう)
94、受入れる(うけいれる)
95、懐ふ(ふところ)
96、輝き(かがやき)
97、起点(きてん)
98、終点(しゅうてん)
99、玄関口(げんかんぐち)
100、大動脈(だいどうみゃく)
101、溢れる(あふれる)
102、移転(いてん)
103、持参(じさん)
104、洗い桶(あらいおけ)
105、ハイテック産業(さんぎょう) 106、広大敷地(こうだいしきち)
107、力を注ぐ(そそぐ)
108、旗印(はたじるし)
109、懇親会(こんしんかい)
110、城(しろ)
111、動かす(うごかす)
112、狙い(ねらい)
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 113、投資(とうし)
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114、自在(じざい)
115、華僑実業家(かきょうじつぎょうか)116、担い手(にないて)
117、大手(おおて)
118、新会社(しんがいしゃ)
119、入居(にゅうきょ)
120、視察(しさつ)
121、訪れる(おとずれる)
122、賃金(ちんぎん)
123、叩く(たたく)
124、古(いにしえ)
125、凧揚げ(たこあげ)
126、哀悼(あいとう)
127、同期出征(どうきしゅっせい)128、享年(きょうねん)
129、直前(ちょくぜん)
130、未完(みかん)
100
 131、山河の東の原(はら)
 133、白木(しらき)
 135、赤い旗(あかいはた)
 137、絹の束(きぬのたば)
 139、輝き(かがやき)
 141、開口(かいこう)
 143、変貌(へんぼう)
132、埋葬(まいそう)
134、明け方(あけがた)
136、唐三彩(とうさんさい)
138、象牙(ぞうげ)
140、運ぶ(はこぶ)
142、吐き出す(はきだす)
144、胎動(たいどう)


(終わり)
101