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台日異文化比較研究
ローカリティの生成Ⅰ
導入
討論①

「ローカリティ」(状態)或いは「ローカリ
ゼーション」(過程)と言えるような具体例
を一つ考えてきてください。
討論②

自分がどういうグループ(文化)に所属して
いるか、できるだけたくさん列挙してくださ
い。
課題論文
課題論文

岡村圭子(2003)「文化単位の生成」『グ
ローバル社会の異文化論―記号の流れと文化
単位』世界思想社
著者紹介
岡村圭子(おかむら・けいこ、1974― )
 獨協大学講師

『グローバル社会の異文化論―記号の流れと文
化単位』論構成
序章 異文化論の出発点
 第Ⅰ部 グローバル社会と文化的差異
 第1章 「文化論」再考
 第2章 マルチカルチュラリズムのアポリア
 第Ⅱ部 「ローカルなもの」の成立をめぐって

第3章 文化単位の生成

第4章 グローバリゼーションとローカリ
ゼーションの相補性

第5章 異文化論から考える「地域文化」
 おわりに――異文化なき異文化研究からの脱却

「文化単位の生成」論構成

「ローカル」=「地理的なものに限定されな
い」、「「われわれ」と呼ばれる集合などに
示されるような、ゆるやかな定義」
1「文化単位」という考え方から見えるもの
なにをもって「文化」とみなすか→「「文
化」という語の多義性は、しばしば議論を混
乱させる」(p.83)
↓

「文化単位」(cultural unit)
=「文化的な凝集性を持った集合体(そうみなされている
もの)」(p.83)
=「世界観や価値観の共有が前提とされるのではなく、ま
た地理的に定義づけられるものでもない。不可視で動態的
な文化的境界によって区切られ、凝集性を持った文化の単
位」(p.84)

→「文化単位という概念によって、ある集合
が、さまざまな他者をとりこみつついかにし
て一単位となり得るか、またそれがいかに維
持されるのかという疑問にアプローチできる
ようになる」(p.83)
2

異文化関係としての「われわれ」と「かれら」
「文化単位を「われわれ」関係の一形態とし
て検討しつつ、文化単位の成立と維持につい
て考察」する








「近代以前の地縁・血縁的共同体である伝統的社会は、ゲマイン
シャフト的で親密な家族的関係によって社会が組織され、いわば
社会が個人に先行するかたちで営まれていた。」(p.86)
↓
共同体の拘束力の弱体化→個人が自由を獲得(居住の自由、職業
選択の自由)
↓
「近代的「われ」は、個人主義、合理主義のもとに形成され、他
者から完全に独立した絶対的自己を生み出した」(p.87)
↓
個人の利己主義化
「近代的主観性の問題点は「他者の喪失」であり、自分が生まれ
育った共同体から切り離された個人は、他者との関係を喪失する
ことによって、「無意味性の不安に駆られて自己分裂の苦悩を味
わうにいたった」」(p.87)








◎「どのようなときに他者(たち)と「わたし」が「われ
われ」関係にあるということを感じたり、意識したりする
か」
↓
「他者(たち)と「わたし」との共通性、すなわち、時間、
空間、価値観、世界観などを共有しているという事実」
(p.87)
↓
それならその「共有している」ということをどうやって確
かめるのか
「ほんとうに価値観や世界観を他者と共有しているかどう
かは、究極的なところでは確かめようがない」(p.88)
↓
「「われわれ」関係が可能になるのは、「われわれ」では
ないものがそこに設定されているから」(p.88)

「「われわれ」という社会的集合を、文化単位
として考察するとき、その成り立ちを「われ」
と他者との意味の共有、時空間の共有からでは
なく、「かれら」に対置されたものとして、つ
まり、「かれら」との関係のなかで規定する必
要がある。それは、「われわれ」を、「われ」
と「あなた」とが共同でつくりあげる関係とし
て捉えるのではなく、「われわれ」という文化
単位と「かれら」という文化単位が互いの差異
によって(異文化関係において)つくりあげら
れる関係として捉える視点である。」(p.89)


「Aが悩まされていたのはAと彼女の個人間の問題であっ
たというよりも、「異文化間」の問題だった…。つまり、
Aが困惑したのは彼女の個人的な行動にだが、その問題の
根底にあるのは、彼女の行動は、どの文化に依拠してい
るのか?どういった文化的背景があったのか?というこ
とである。」(p.91)
「Aは自分の文化と彼女の文化が「同じ」なのか「異な
る」のか、それがわからなかったのだが、もっとも、Aと
彼女の文化が「同じ」だからといって、Aの苦悩が終わる
わけではない。ここで重要な問題は、他者(たち)との
「距離」をいかにして認識できるか、である。つまり、
自己と他者の問題として扱われていたことが、実は「文
化単位」と他の《文化単位》とのあいだに生じた「距
離」の問題であり、その「距離」を互いがある程度把握
(納得)できていなかったことが、その問題の出発点な
のである。」(p.92)
3
異文化間の「距離」
赤坂憲雄(1985)『異人論序説』による「異
人」概念
① 一時的に交渉を持つ漂泊民
② 定住民でありつつ一時的に他集団を訪れる来
訪者
③ 永続的な定住を志向する移住者
④ 秩序の周辺部に位置づけられたマージナル・
マン
⑤ 外なる世界からの帰郷者
⑥ 境外の民としてのバルバロス


↓
「ここで見すごしてはならないことは、「われ
われ」と異人との関係がつねに可変的なこと
だ。」(p.93)
 「「われわれ」と「かれら」との関係は、たん
に「異なっている」だけでは語れない。そこに
はダイナミクスがあるからだ。つまり、異文化
の境界は移動する可能性がある。」(p.93)

↓




◎「どういう場合に「われわれ」と「かれら」との距離が近くなったり遠く
なったりするのか」(p.97)
 「小さなグローバル社会では、ある側面では異文化間の距離は縮まったが、
一方で、あらたな異文化間の溝を深く刻むことになった」。「「小さな世
界」においては、遠くで起こった出来事が身近に感じる一方で、逆に近く
の出来事については、ほとんど知らないということも経験するようにな
る。」(p.98)
 「物理的に近くにいないという状況においても(空間は共有していないが
時間を共有している場合でも)、「われわれ」=文化単位を成立させ、維
持するのは可能である。その反対に、いくら対面的な状況にあっても、
「われわれ」関係が成立していないこともある。」(p.99)
 「わたしたちは日々の生活のなかで、さまざまな親密性/疎遠性のレベル
において他者(たち)と関わり、その間に生じた「距離」を把握している
(正確にいえば、「把握できた」とみなしている)。ということは、そこ
での「距離」が当事者相互にとってまったく計測不可能なものではなく、
なんらかの方法でそれが計測されているのである。」(p.102)
↓
◎「両者の間の「距離」はどのように計測できるのか」(p.102)
4

内在的時間のフォーマット化と比較可能性
《リアリティの二つの側面》
「実体(モノ)的なリアリティ」…「実際に物理的
な基準を用いて測ったり数えたりできる次元や
触覚で感じることのできる世界」
 「観念的なリアリティ」…「計測したり数値化で
きない次元」(p.103)

◎「なぜリアリティの二側面を考える必要が
あるのか?」
 →「リアリティの二つの側面を意識すること
が、異文化間の「距離」を把握し、そして
ローカルなものの成立を解く鍵となる」
(p.104)から。


「「われわれ」が他者(たち)に対して感じている「距離」と、
他者(たち)が「われわれ」に対して感じている〈距離〉とが、
観念的な次元において同じであるかどうかはわからないが、唯一、
確認し合えるのは物理的な距離である。その実体(モノ)的なリア
リティの世界を基準にすることによって、本来わからないはずの
観念的「距離」がどの程度のものなのか、それぞれのうちに解釈
する可能性が開かれる。…すなわち、互いが互いを異文化である
と認め(それによって自‐文化の固有性が発見される)、両者の
間の「距離」を暫定的にであれ、解釈したり、把握できるのは、
実体(モノ)的なリアリティの世界で用いられる外在的な基準であ
る。そこでなされた解釈が「正しい」かどうかはわらかないが、
いずれにせよ、観念的リアリティへのアクセス(解釈)可能性が
与えられることが重要である。…観念的リアリティは実体(モノ)
的なリアリティによって、また実体(モノ)的なリアリティも観念
的リアリティによって、現実化される(より明確化される)。つ
まり、リアリティの二つの側面は、互いに支えあって社会的現実
をつくりだしているのである。」(p.104-5)

《時間の二つの側面》
「外在的時間」…「実体(モノ)的なレベル」
 「内在的時間」…「観念的なレベル」(p.108)


■「実体(モノ)的リアリティとして外在的な
基準があるからこそ、それをもとにして、そ
のひとしかわらかない内的な時間の流れを、
他者(たち)に示すことができるようになる。
つまり、その基準によって、外在的時間でい
うところの「特別な出来事が起こった日」が
標準化され、他者の内在的時間と自分にとっ
ての「あの時」がそれぞれに異なった主体に
属する観念的リアリティ(ズ)として比較さ
れ得るようになる。」(p.109)

■「異文化間の「距離」を示す尺度は、きわめて計測
し難い。それでもわたしたちは、その「距離」を把
握する(正確にいえば、把握しているように錯覚す
る)。それを可能にするのが、外在的な基準、すな
わち、フォーマットであり、フォーマット化から導
き出される比較可能性である。/他者(たち)との
差異を前提とするならば、諸主体間における観念的
なレベルでの内在的時間の共有は問えない。しかし、
実体(モノ)的なレベルの外在的時間(フォーマット)
を用いることによって、それぞれの主体が異文化と
して比較可能なものとなり、諸主体間の「距離」が
明確にされる。」(p.110-1)

■「それぞれの主観において内在的に同一の
時間・空間を過ごしていないことこそが、
個々の主観の「あいだ」を維持し、そこでの
「あいだ」の距離は、外在的なフォーマット
によって(比較可能なものとされて)相対的
に知覚され、親密あるいは疎遠などの関係性
のレベルとして現れてくるのである。」
(p.113)

■「外在的時間として用いられている共通の尺度にあては
められることによって、内在的時間は、(他の)内在的
時間と比較され得るようになる。すなわち、このフォー
マット化によって、「われわれ」の内在的時間に対して、
他の〈内在的時間〉は、比較の対象となることができ、
それぞれの内在的な個別性が明らかにされる。それと同
時に、両者の間の「距離」を測ることが可能になる。こ
れが、「差異のフォーマット化」である。そういった
フォーマット化によって、異文化間における比較可能性
が導かれ、他者にとってはまったくアクセス不能な内在
的な「時間・空間」は、外在的な基準によって、他の内
在的〈時間・空間〉との比較が可能になり、諸‐個別性と
して確立するのである。」(p.113-4)
「「われわれ」関係は、「われ」と他の
〈われ〉とでなにかを共有していること
によってではなく、「われわれ」と、そ
れとは異なる「かれら」とのフォーマッ
ト化によって成立する。つまり、文化単
位が成立するのは、異なった「文化単
位」との比較可能性が成立したときであ
り、そこではなんらかの方法でフォー
マット化がなされている。」(p.114)