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天下の義人
茂左衛門
175037
2年
島村 仁基
今から300年以上も昔のこと、上野国の沼田に
は贅沢三昧に過ごす殿様がいました。
贅沢が過ぎたために、沼田藩の財政は危機的な状
況にありました。
これは困ったと、殿様は領地
の年貢をなんと今までの5倍に
増やしました。これで贅沢が
またできると、殿様は一安心。
領内の農民は殿様の暴挙に目を丸くしてし
まいました。今までの暮らしですら楽なも
のではなかったからです。
農民たちは何とかして年貢を収めようと、
必死に働きますが、不幸は続くもので、凶
作の年が相次いだために、年貢が収められ
ない人が続出しました。
年貢が収められない農民に怒った殿様は、納めら
れなかった人を拷問や処罰をしたりしました。
この惨状を見るに見かねた、月夜野の茂左衛門は
沼田領内利根、吾妻、勢多三郡177か町村の農
民のために立ち上
がります。茂左衛
門は人一倍義心の
強い人でした。
沼田の殿様の悪事を将軍に伝えるために、茂左衛
門は江戸に向かいます。
直訴状を持って江戸城に入ろうとしますが、農民
の分際でと、入城すらできませんでした。
そこで知恵を絞り、上野輪王寺御用箱そっくりの
箱を作り、その中に直訴状を入れて、わざと中山
道板橋の茶屋に置いていきます。
この忘れ物に気づいた茶屋の
主人は輪王寺に箱を届け、
これにより茂左衛門の訴えが
将軍の元に届きました。
茂左衛門の願いは将軍に聞き入れられ、沼田の殿
様は処罰されました。
江戸時代において、将軍に直訴するということは
極刑に処されるということであるために、茂左衛
門はしばら行方をくらましていました。
しかし、故郷に様子が気になった茂左衛門は故郷
に戻り、本望を成し遂げたことがわかると、江戸
に自首しに行きました。
家を出てしばらくしたところで、「御用!」とい
う叫び声が聞こえました。それは幕府の密偵のも
のでした。
これにつかまり、江戸に連れて行かれ、磔の刑が
下ります。
茂左衛門は妻とともに、月夜野橋の近くの川原に
て磔にされました。
茂左衛門の直訴状を代筆した僧侶も、石詰めの刑
に処されました。
沼田領内の名主たちは、茂左衛門の減刑を懇願す
るために、江戸に使者を送りますが、ついに聞き
入れてもらうことができず、「面目なし」と使者
は切腹してしまいます。
命をかけて沼田領内の農民を救う茂左衛門の戦い
は終わりました。
茂左衛門の処刑後、このことを悲しんだ人たちは
千日堂を建てて茂左衛門を奉りました。
現在では、春分と
秋分の日にお祭りが
開かれ、郡内外から
多くの人が訪れます。
月夜野のある
みなかみ町は、
群馬県の北部
に位置します。
参考文献
1)wikipedia,杉木茂左衛門,
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89
%E6%9C%A8%E8%8C%82%E5%B7%A6%E8
%A1%9B%E9%96%80,2012年12月5日