日本の近代医学が初めて直面した深刻な病気=脚気

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Transcript 日本の近代医学が初めて直面した深刻な病気=脚気

日清戦争における原因別死者の数
14000
12000
10000
じゃあ、
これは
・・・?
8000
6000
4000
2000
戦
死
傷
死
不
慮
死
0
『日清戦役統計』より
軍属
軍人
日清戦争における原因別死者の数
14000
12000
10000
実は
これ・・・
8000
6000
4000
2000
戦
死
傷
死
不
慮
死
0
『日清戦役統計』より
軍属
軍人
病死
なんです!
その病気
とは・・・
日清戦争における病類別戦地入院患者
急性胃腸カタル
肺炎
脚気
患者
赤痢
死亡
マラリア
転送
コレラ
腸チフス
0
10000
20000
30000
40000
『日清戦役統計』より
そう、
脚気だった
んです!
教育基礎専修
019
森本明日美
日本の近代医学が初めて直
面した深刻な病気・脚気
昔は脚気なんて病気はなかった
・江戸時代中期に初めて流行
・脚病(かくびょう)や脚の気(あ
しのけ)とも
・農村にはなく、江戸だけで
大流行したため「江戸わずら
い」とも言われた
脚気にかかると・・・
足がだるい、疲れやすい 全身の倦怠感
足のむくみ、手足のしびれ 動悸、食欲
不振 運動神経の麻痺、視力低下
さらにひどくなると・・・
脈の乱れ 心臓麻痺
ショック死に
(脚気衝心)
脚気にかかる季節と場所
・初夏から夏にかけて、患者が増える
・人口が密集している東京、大阪、京都
などの大都市に発病率が高まる
脚気は、お雇い外国人に聞いても治療法
を教えてもらえない!
・西欧では脚気はない
・原因がわからない
・これと言った治療法がない
東洋の風土病??
明治十二年、脚気専門病院が設立され、
日本の最高の医学者たちが研究したが、
原因も治療法もつかめぬまま閉鎖
高
木
兼
寛
だ
っ
た
!
その時、日本に
敢然と脚気に
挑戦しようとする
医師が現れた!!
それは・・・
(の
海ち
軍
軍の
医海
で軍
一・
番
軍
え
ら医
い総
人監
)
高木兼寛とは・・・
・嘉永二年、宮崎県高岡町
(薩摩藩)で漢方医の家に
生まれる
・20歳のとき、薩摩藩軍医とし
て戊辰戦争に従軍、西洋医学
のすごさにショックを受ける
・英医ウイリアム・ウイリスに
就いて西洋医学、おもにイギ
リス医学を学ぶ
高木は医学だけでなく英語も優秀
明治8~13年、
ウィリス先生の母校・
セント・トーマス病院
附属医学校(イギリス)
に留学
最優秀の成績を
おさめて
帰国したばかり!
高木が帰国した頃の海軍の脚気患者数
明治
総兵員数(人)
脚気患者数
(人)
割合(%)
11年
4,528
1,485
32.79
12年
5,081
1,978
38.92
13年
4,956
1,725
34.80
14年
4,641
1,163
25.05
明治11~14年の脚気の死亡者数は146名
早く脚気の治療
法を見つけない
と、日本海軍
は、敵と戦争す
るどころではな
い、病気で自滅
してしまう!
すぐに調査を
開始しよう!
高木兼寛がよく調べてみると・・・
(季節との因果関係)
夏に多いことは確か
だが、秋や冬にも発
病しているし、涼し
い北海道の演習でも
多発した
高木兼寛がよく調べてみると・・・
(配属場所との因果関係)
艦船勤務か地上勤務か
艦船のどこの部署か
患者発生数に差はなし
高木兼寛がよく調べてみると・・・
(衣服との因果関係)
どの水兵も同じ服装
なので、衣服と関係
があるとは思えない
注目すべきデータが見つかった!
軍艦が外国の港に停泊中は
患者が発生しないのだ!
もしかすると、洋食が
脚気の予防に役立つん
じゃないか・・・
高木はさっそく、
水兵の食事を調べてみた
白い米の飯が腹一杯
食べられて、大満足で
あります!!
食事に不満
はないか?
高木はさっそく、
水兵の食事を調べてみた
白い飯さえあれば、
タクアンで十分であり
ます!
おかずは何
を食べてい
るのだ?
高木はさっそく、
水兵の食事を調べてみた
おかずの分は貯金し、
家族に送金するのであ
ります!!
魚や肉、野
菜も食べた
方がいいぞ
高木は考えた
白米を食べるとなぜ脚
気になるのかはわから
ないが、とにかく水兵
の給食を洋食(パン)
に変えたらどうだろう
しかし海軍のお偉方は・・・
給食を洋食にしたら、
予算が倍になってしま
うじゃないか! 本当
に和食が原因だとわか
れば別だが、はっきり
せんのじゃろう?
絶対ダメだ!
一般の水兵たちも・・・
自分らは、白い飯が腹一杯食べられる
からこそ、海軍を志願したのでありま
す!! 毎日まずいパンを食わされる
くらいなら、やめたいであります!!
う~ん・・・
どうしたもの
か・・・
高木兼寛が困っている
と、とうとう恐れてい
た、大惨事が起こって
しまった!!
大惨事となった「龍驤」の練習航海
「龍驤」2530トンの軍艦 明治15
年12月19日品川沖を出航、ニュー
ジーランド、チリ、ペルー、ハワイをま
わる、大航海に出発!
大惨事となった「龍驤」の練習航海
ところが378名中、半数近い150名
が脚気を発病。うち23名が死亡した。
とうとう高木は、伊藤博文に直訴した
脚気撲滅のために
は、水兵の食事改革
が急務なのです!!
本当に確信があるの
か? そこまで言うの
なら、天皇陛下に取り
次いでやろう
高木は、明治天皇に給食改革の必要性を
説いた
決め手は食事
なのです!
よい話を聞い
た。海軍のた
め、一層努力
するように
「筑波」の遠洋航海による兼寛の挑戦
航路は「龍驤」と同一にして、食事だけを変
え、脚気が予防できるかを実験する航海
品目
量(匁)
毎人一日分の食量表
米
180
魚類
40以上 ・蛋白質と含水炭素の比率
肉類
80以上 が適正であるよう調節
脂肪類
4
砂糖
20 ・港に碇泊中はパンを主食
とするよう定めた
牛乳
12
味噌
14
醤油
16
野菜
120
酢
2
おかず代を貯金す
酒類
50
る制度は廃止!
豆類
12
麦粉
20
航海距離も2倍、食事
費用も2倍じゃないで
すか! 大蔵省が予算
をつけてくれるはずあ
りません!
脚気の件は陛下も憂慮さ
れているから、俺が閣議
に諮って、大蔵大臣を
説得してやろう
こうしてついに「筑波」実験航海が
決定! しかし・・・
もし失敗したら、俺は
陛下にウソを言ったこ
とになり、膨大な予算
も無駄になる。よくて
馘、下手をすると投獄
されるかも・・・
明治17年2月3日
「筑波」は品川を出航した!
兼寛は毎日神社に参拝し、両親の位牌に合掌
して、実験の成功を祈願した。失敗したら、
自決する覚悟だった・・・
8ヶ月後、ホノルルからの電信文
が届いた!
病者一人もなし、
安心あれ
「筑波」の遠洋航海での発病者は・・・
航海中に脚気の発症者が15名いた
いずれも軽症で、死亡には至らなかった
これらの患者は、初めて口にする
肉やコンデンスミルクを嫌って、
食べない者であった
実験は大成功だったが、なぜ白米を食べると
脚気になるのか、そのメカニズムは不明のま
まだった。高木はとりあえず・・・
白米を食べている
限り、脚気はなく
ならない!
主食を等分の米と麦を混
合したものに
その結果、脚気患者数が激減!!
2500
2000
1500
患者数
死亡者数
1000
500
0
明治15年
16年
17年
18年
海軍における
脚気の被害は、
高木の研究によって
撲滅された!!
しかし!!
高木が脚気の発病は、食事の栄
養バランスの不均衡にある、と
する「食物原因説」を説き、実
際に脚気の撲滅に至ったにもか
かわらず・・・
医学界で主流であったのは、
『脚気細菌説』
脚気細菌説
・脚気の病原は細菌や黴菌の空気感染による
ものである、という説
・おもに東京大学医学部や東京大学医学部卒
が中心の陸軍軍医部が支持
細菌学の最高峰
ドイツ医学の強い影響
イギリス医学とドイツ医学
病気治療を最
優先、原因究
明は後回し
イギリス医学
原因を突き
止めなけれ
ば、解決と
は言えない
ドイツ医学
脚気細菌説を唱えた人々
・緒方正規…東京大学医学部卒
「脚気病菌発見の儀」で脚気菌を発見
した、と発表
・石黒忠悳…陸軍軍医監
脚気の原因は黴菌の空気感染だ、
と主張
・大沢謙二…東京大学生理学教授
「米と麦ではタンパク質の量は変わ
らない」と高木の「麦飯予防説」を
批判
もう1人、皆さんのよく
知っている人物で、
脚気細菌説を唱えた人が
います!
さて、それはいったい
誰!?
ヒント!!
小説家でもある!
高校の国語の教科書に出てきます!!
もう、おわかりでしょう!?
森林太郎
(森鴎外)
森林太郎
・文久二年(1862年)現在の島根
県鹿足郡に生まれる
・十九歳で東京大学医学部本科
を卒業し、陸軍に入る
・東京陸軍病院勤務を経て、陸
軍軍医本部課員となる
のちに陸軍軍医総監となる
・明治17~20年の3年間、
陸軍に命じられ、ドイツに留
学
脚気細菌説の根拠
脚気発病の特徴
・初夏から夏にかけて、患者が増える
・人口が密集している東京、大阪、京都な
どの大都市に発病率が高まる
脚気は細菌による
感染病である!
林太郎の主張
高木の食物原因説は
学問的裏付けのない単なる
思いつきである
脂肪・含水炭素・蛋白質の
いずれの点から見ても、
日本食は西洋食に劣るもの
ではない!
陸軍の兵食検査
白米のみの
米食
麦混合の
麦米食
パンと肉の
洋食
6名の兵にそれぞれの食事を8日間ずつ摂取
最新の衛生学によると、
すべての点で優れている
のは①米食である
この実験は、すべておかず付だったので、
今から見ると何の意味もない実験だった
脚気細菌説派の主張
彼らは、高木の「食物原因説」が、
発病メカニズムの解明を欠いたものである
こと、タンパク質や炭水化物など主要要素しか
知らなかった当時の栄養学の見地から、
「食物説」を断固否定し続けた
白米とドイツ医学への信奉の
姿勢を崩さなかった
日清戦争
勃発!
明治27年(1894)8月1日
日清戦争の脚気被害
海軍
陸軍
患者…34名
死亡者…1名
患者…34,783名
死亡者…3,944名
戦死及び戦傷死者合計
の3倍以上!!
陸軍は多くの脚気被害者を生みながらも、
脚気細菌説の考えを改めることはせず、
最後まで一貫して、兵食は白米食を中心と
したものであった
日清戦争、その後の日露
戦争での脚気被害はおび
ただしいものであった
脚気菌はなかなか
見つからんなぁ・・・
脚気の発病メカニズムがわかったのは・・・
明治44年、鈴木梅太郎が米糠から
脚気に有効な成分である
オリザニンを抽出
ほとんど同時にポーランドの学者
フンクがオリザニンと同種のもの
を発見 ビタミンと名付けた
これ以来、西欧ではビタミンに対す
る研究が急速に進められた
欧米各国からビタミンB₁が脚気に有効で
あるという説がつたえられた
これに注目した慶応大学医科教授の大森憲太が実験
を行い、白米は脚気を発症させるが、玄米、半つき
米は好ましいと発表
細菌説に固執していた医学者たちは、
白米説を認めざるを得なかった
しかし、この時すでに、高木兼寛も
森林太郎も亡くなっていた
晩年の高木兼寛は・・・
東京芝愛宕に私立医大の雄、東京慈恵会医科大学を設立
日本で初めての看護婦養成所を設立
そうなのよ
「看護教育発祥の地」
の記念碑
大正9年(1920)、高木は脚気論争の決
着を見ることなく、亡くなった。(72歳)
青山墓地内にある、高木兼寛の墓
南極大陸の一
角に、世界の
栄養学の先駆
者の名前を
つけた地区が
ある。
そこに「高木岬」
という岬があり、
「高木は日本帝国
海軍の軍医総監で
あり、1882
年、食餌の改善に
より脚気の予防に
初めて成功した」
と説明が付されて
いる
参考資料
・「白い航跡」上・下巻 吉村昭 1994 講談社文庫
・「森鴎外と明治国家」中村文雄 1992 三一書房
・「東アジア史としての日清戦争」大江志乃夫 1998
立風書房
・「集英社版日本の歴史⑱ 日清・日露戦争」海野福寿
1992 集英社
・「新薩摩学 薩摩と留学生」鹿児島純心女子大学 国
際文化研究センター編 2006 南方新社
・和光大学総合文化研究所年報『東西南北』より
「日清・日露戦争と脚気」内田正夫 2007
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai07/tz0716.pdf
・タケダ健康サイト 症状・疾患ナビ 脚気
http://takeda-kenko.jp/navi/navi.php?key=kakke