Transcript 2012/11/22

歴史に記された超新星
後漢書天文志: 漢霊帝中平二年十月癸亥
客星出南門中………後年六月消
SN185 = RCW 86
鉄のリング
Ia型:若い
100 光年
わらわを信じ
よ。 あれぞ、
神のお告げ
ぞ
後漢書東夷伝、魏志倭人伝 邪馬台国
桓帝と霊帝の間(146- 189年) 倭国大乱
光和年間(178- 184年) - 卑弥呼
邪馬台国から南十字星が見えるはずはない。
だからこの話は嘘?
南十字星
西暦186年3月8日
深夜
作花一志提供
誰が何処で何時、1000年前の超新星を観測したか?
陰陽寮(陰陽道・暦道・天文道)
● 天文博士(1人):天体の異変を観察し、その吉凶
を占って密封して 天皇に奏上する(天文密奏)=安
倍晴明の子孫(土御門家)が代々受け継ぐ
● 天文生(10人)(夜空の定時観測): 戌の刻(午
後8時)と寅の刻(午前4時)
天文密奏の情報?
明月記(藤原定家)、御堂関白記(藤原道長)
SN1006
権記: 藤原行成
寛弘三年六月二四日 甲午 客星勘文被奏
御堂関白記: 藤原道長
寛弘三年七月十三日 葵丑 客星勘文について議定、御祈祷をおこなう
こと。
SN1181
吾妻鏡
治承五年六月二十五日 庚午戌剋(寸)客星見 是寛弘三年出見之後、無
例
『玉葉』九条兼実
戌の刻、客星艮方に見ゆ。鎮星色青赤にて芒角有り。これ寛弘三年出見
の後例無しと
治承五年七月七日:今日欲幸法勝寺(人々可着吉服云々)、而近日世間
不静、天変相頻之上、客星已出、如此之問、殊恐思食、 仍停止了云々、
師景、内々注進客星勘文等」
<訳文> 「(法皇)は今日、万民の幸福を祈るために法勝寺に行かれよ
うと思われたが、近日は世情騒がしく、 天変地異も大変多い上に、彗星
が現れてている、これを問いなると、そのことが、ことさら恐ろしく 思われ
たのか、御幸をお止めになったのであった。 これは師景が内々に法皇の
ご質問に答えて彗星の吉凶についての文書(勘文)を 出したためであ
る。」(現代語訳佐藤)
2011/7/5
木津川市立上狛小学校 出前授業
4
暦道(土御門家)の歴史
飛鳥時代
陰陽寮の設立。
配下に暦博士(暦作成)、天文博士(天変観測)、漏刻博士(水時計管理)、陰陽博士(陰陽師養成)を置く
平安時代中期
加茂保憲の高弟の安倍晴明が天文道を、息子の加茂光栄(みつよし)が暦道を継ぐ
室町時代
・加茂家:暦博士の家系は断絶(後に加茂家の庶流が幸徳井家を名乗って、土御門家の配下にとどまる)
・安倍有脩(ありなが)が土御門家を号して暦道も兼ねる。応仁の乱を避けて、現在の福井県に移住
江戸時代の土御門家と幕府天文方
・土御門家は江戸時代初期に京都に戻り、梅小路に大規模な邸宅を構える。
・土御門泰福(やすとみ)は天和三年(1683)、全国の陰陽師の統括と暦作成の権利を取得
・貞享元年(1684)に、渋川春海の「貞享暦」が採用される
・江戸幕府は天文方を設置して渋川春海を初代天文方に任命。
編暦業務は、朝廷の陰陽寮(土御門家を陰陽頭とする)の所轄から幕府天文方に移る
・泰福の子の土御門泰邦は、宝暦5年(1755)に「宝暦暦」の作成に成功し、改暦権限を土御門家に戻す
・幕府天文方が精度の高い「寛政暦」、「天保暦」を作成し主導権を奪回する
幕末-明治維新
・土御門晴雄(はるお)は、再び天文観測や暦の権限を土御門家が手中に収める。
・さらに西洋の太陽暦導入に強く反対し、太陰太陽暦の継続を提案するが、明治2年(1869)に病死
・安倍晴明の流れを汲む陰陽道の名門・土御門家の時代は、ここに終わった
・明治3年(1870)に明治政府は、陰陽寮を廃止し、天文・暦学は大学や天文台、海軍等などに移管された
大
宮
通
御
前
通
晴明
神社
一条通
西洞院通
土御門通
晴明が家は土御門よりは北
西洞院よりは東なり
(今昔物語二十四巻十六話)
現在のブライトンホテルあたり
それから更に東に大宮御所のあ
たりに藤原道長の土御門殿が
あった。
2011/7/5
6
平安京日食
『日本紀略』後編六によれば、平安時代後期に平安京全体が皆既日食帯にはいっ
た記録がある。「天延三年七月一日辛未(975年8月10日)、日蝕あり。十五分の十
一、或いは皆既という。卯辰の刻(午前7時)に皆既、墨色のごとくにて光なし。群
鳥飛乱し、衆星ことごとく現る。詔書して天下に大赦す」。宣明暦では食分11/15
の部分日食の予報であったが、皆既日食となった。驚いた朝廷は大赦を発布し、
改元して貞元元年となった。
源平水島合戦日食
『源平盛衰記』巻33には「寿永二年閏十月一日(1183年
11月17日)、水島にて源氏と平家と合戦を企つ。・・・城
の中よりは勝鼓を打てののしりかかるほどに、天俄に曇
りて日の光も見えず闇の夜のごとくになりたれば、源氏
の軍兵ども日蝕とは知らず、いとど東西を失いて、舟を
退きていづちともなく風にしたがいてのがれゆく。平家
の兵どもはかねて知りにければ、いよいよ時をつくりて
重ねて攻め戦う」とある。これは食分0.93の金環日食で
あった。
『源平盛衰記絵巻』巻九-四源平水島合
戦の事(『源平盛衰記絵巻』青幻舎より)
国宝「明月記」の寛喜二年十一月八日(1230年12月14)の条に超
新星の記録がある。この背景は十一月初めの彗星の出現。
1180年、世上乱逆追討耳に満つと雖も之を注せず。紅旗征戎吾が事に非ず
日本最古の天文学“論文 ”
3C58
1181
Fujiwara, Sadaiye, 1230, Meigetsuki Vol 52
Crab Nebula
1054
SN1006
泰
俊
朝
臣
の
返
書
客
星
事
、
依
不
審
問
泰
俊
朝
臣
星動 以 一
本耀 降 條 藤
体連 騎 院 原
増夜 官 寛 定
火星
変正 中 弘 家
光見 有 三
アンタレス
南大年明
方客 月
四記
或星月
云如二安
SN1006
日
倍
螢
騎
騎陣将軍
陣惑葵泰
将光酉俊
四月二日時々雨:御堂関白記 (藤原道長
軍明
夜
: 源氏物語=紫式部のスポンサー、宇治平等院)
1006年5月1日 京都巨椋池上空
天地明察 (冲方 丁)
京都梅小路に突如出現した大渾天儀
江戸時代 日本人による初めての改暦
日本で使用された暦の一覧
1. 元嘉暦(690~?)
2. 儀鳳暦(697~763)
3. 大衍暦(764~856)
4. 五紀暦(857~861)
5. 宣明暦(862~1683)
800年間も使用された
6. 貞享暦(1684~1754) 初めて日本人(渋川春海)が作った
7. 宝暦暦(1755~1797)
8. 寛政暦(1798~1843)
9. 天保暦(1844~1872)
10. 新暦(1873~現在) 新暦(グレゴリオ暦) 明治6年~
~飛鳥時代
奈良時代710~
平安時代794~
江戸時代1603~
明治 1868~
・問題点:
江戸時代初期に使用されていた宣明暦は、平安時代唐よりもたらされたのを800年近
く使用していた為、2日程度の誤差が生じていた。又、日食・月食の予報精度が悪かった
・渋川春海が改暦を申請し、1684年日本人で初めて独自の暦を作成し、貞享暦として
採用された
渋川春海:貞享暦採用に至る経緯
渋川春海
・寛永16年閏11月3日(1639)京都の生まれ
・江戸時代前期の天文暦学者、囲碁棋士、神道家
・姓は安井(算哲) から保井さらに渋川と改姓した
・正徳5年10月6日(1715) 没77才
・渋川春海21歳の時に中国の授時暦に基づいて各地の緯度を計測
・その結果を元にして1673年授時暦による改暦を申請
(元 1981:1年=365.2425日=グレゴリオ暦 1582)
・ところが、延宝3年(1675)5月の日食の予報に失敗。 申請は却下される。
・失敗の原因は、中国と日本の経度差にある事を突き止める
・天和3年(1683)授時暦に改良を加え、大和暦を作成
・朝廷に大和暦の採用を求めたが、申請は却下
・貞享元年3月(1684):朝廷は授時暦を一部修正した中国の大統暦採用を決定
・春海は暦道の責任者である土御門泰福を説得し大和暦の採用に同意させ
3度目の上表によって大和暦は朝廷により採用され貞享暦となった(1684)
梅小路で公開観測する。
・この功により渋川春海は初代幕府天文方に任ぜられ、以降、天文方は世襲となる
・貞享の改暦で天文学が必要な編暦は幕府天文方で、暦注は京都陰陽師加茂(幸徳
井)家で行う役割分担となる
日食予報合戦(蝕考)
延宝3年5月の日食の予報に失敗。 授時暦採用の申請は却下
日付
日食
月食
宣明暦
大統暦
授時暦
実際(日本)
実際(世界)
延宝元年6月15日
(1673年7月29日)
月食
X
月食4分半強
○
○
月食なし
なし(半影月蝕)
延宝元年7月1日
(1673年8月12日)
日食
X
日食2分半強
○
○
日食なし
皆既日食
アフリカ
延宝2年1月1日
(1674年2月6日)
日食
X
日食9分
○
○
日食なし
金環日食
北太平洋
延宝2年6月14日
(1674年7月18日)
月食
△月食9~10分
○
月食 9~10分
(寅卯刻)
皆既月食
延宝2年12月16日
(1675年1月12日)
月食
○
皆既月食
(寅卯刻)
皆既月食
延宝3年5月1日
(1675年6月23日)
日食
1分弱の部分日食
金環皆既日食
北極
△ 月食14分
(丑寅卯刻)
△ 皆既月食
(丑寅卯刻)
△ 3分弱日食
(午未刻)
(丑寅卯刻)
△皆既月食
(丑寅卯刻)
X なし
X なし
△は食の時刻精度が悪い
宣明暦は、これら6回共、食有りと予報した。日本では3つは食と成らなかったが、地球上では食は
確かに起こっている。予報がなく突然食が起こるという事態を防ぐ事は出来た訳である。
・宣明暦:渋川春海が授時暦の改暦を申請した時点で使用されていた暦(800年以上使用されてきた)
・授時暦:元の時代に編纂され、1281年から使用された
・大統暦:授時暦の改良版。明で1644年まで使用された( 元:1271年 - 1368年、明:1368年 - 1644年)
1675年6月23日 金環食
授時暦では、僅かな部分食であるこの日食の予報を間違えた
京(安倍家=土御門家)と江戸(渋川春海)
の暦合戦とその遺跡
江戸で、澁川春海が新暦を作成、京都梅小路(土御門泰福)
で天体観測 「貞享暦」の勝利 (水戸光圀仲介)
安倍(土御門)泰邦が1751年梅小路の自宅に天
文台をつくる。
私塾:斉政館、 四条堺町に分室(皆川村吉)
大将軍八神社
土御門家の家司、皆川家に伝わる一連の
古天文暦道資料 がある。国産第1号の暦
貞享暦を作った渋川春海製作の天球儀
江戸天文方は1797に西三条に天文台をつくる(土
御門天文台と同じ経度、緯度~35度)::伊能忠敬
の地図本初子午線はここ
梅林寺の大表土台
西三条天文台
大國家文書203=「寛政九年天文方測量場平面図」
地平経緯儀・至表儀・垂揺球儀・象限儀がある
敷地は南北30間、東西50間で、東西に長い敷地
東側に「門」=南北道の西側にあった
場所 「三条北一町千本西へ三町計余」
(三条千本と三条御前の間が600mほど、三条御前と千本の
間 (三条七本松)100mほど北、いまの「東月光町」か)
三条御前の交差点が北緯35度0分31秒、東経135度44分11秒
八条御前の交差点が北緯34度59分3秒、東経135度44分11秒
幕府が土御門家と精度を争うべくあえて同じ経度に天文台を設
けたか:日本の経度測量史にとって、極めて重要
大國家=陰陽道の一派「大黒党」=「土御門」支配下の下級陰陽師
どんな背景で大國家の文書に幕府方の天文台資料があるか
日本の古天文台
1689 本所天文台 渋川春海
邸宅内
1701 神田駿河台(宝暦
改暦のため)
1746 神田佐久間町
1765 牛込袋町
1782 浅草片町裏
「浅草鳥越の
図」
1751 梅小路天文台
1797 西三条天文台
1773 島津藩 天文台
1731? 仙台藩 天文台
京都1000年の天文学散歩
篤姫、和宮、土御門藤子
天
障
院
・
篤
姫
庭
田
継
子
若杉家文書
土御門晴親
の天璋院
あて「冬至
考」の占文
娘は土御門
藤子(安倍邦
子)
安倍(土御門)泰福の墓
真如堂
泰福の息子、安倍泰邦は梅
小路の自宅に大表土台(日時計)
と渾天儀台(天体観測機器)。