071005近代世界システム(3)第1章:銀と生糸(ネット版).

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史学講義8
近代世界システム2
第3回
上田信(立教大学)
第1章 モノから見た東ユーラシア①
銀と生糸をめぐる交易史
1.ウォーラーステインの
「近代世界システム」論
資本主義はなぜ生まれたか
• マルクスの影響を受けた大塚久雄の見通し。
• なぜ「市場」が生まれたのか?
• 単純商品生産者社会(局地市場圏)=等価
交換が実現される社会
• 局地市場圏のなかで
資本家と労働者とが分化する。
その分岐点は、勤勉・節約・創意・工夫
←マックス=ウェーバー
マックス=ウェーバー
• (Max Weber、1864- 1920年)
• ドイツの社会学者・経済学者。
• 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精
神」(1904年-1905年)
大塚久雄 訳 岩波文庫
エートス
• 西洋近代の資本主義を生んだ要因
カルヴィニズムにおける宗教倫理(エートス)
→世俗内禁欲・生活合理化
マルクスとウェーバー
• 当時のマルクス主義における、宗教は上部
構造であって下部構造である経済に規定さ
れるという史的唯物論への反証と位置づけら
れる。
世界商品
• 近年の歴史学の動向をみると、遠隔地交易
で扱われていた商品が共同体のなかに内部
化されることで、近代システムが生み出され
たと論じられる傾向が強い。
• 遠隔地貿易のなかで扱われ、交易システム
の歴史と深く関わる商品を、まだ十分には熟
してはいないが「世界商品」と呼ぶ研究者も
いる。
代表的な世界商品
•
•
•
•
•
•
•
•
生糸
高級絹織物(錦)
高級綿織物
香料(沈香など)
香辛料(胡椒など)
陶磁器
茶葉
奴隷として商品化されたヒト
世界システム論のポイント①
• 中心=周縁の外側に、外部
• 中心は周縁を自らの都合の良い形に造り変
えながら、その外側の外部をしだいに取り込
んでゆく。
世界システム論のポイント②
• 百数十年を単位とする、長期的な景気変動
があった。
世界システム論のポイント③
• 世界経済と世界帝国とを区分する
• 世界システムの形態
(1)世界帝国=全体が政治的に統合される
(2)世界経済=政治的統合を欠いたグローバル
な分業体制
交易システムの歴史
• 互酬的なミニシステム
• 再分配的な世界帝国
• 市場に基づく世界経済
の三つに区分して論じている。
世界システムに先行する交易
ミニシステム=
• 世界各地に散在していた孤立的な自給経済。
• 多様な地域文化を支える。
世界システム
世界システム=
複数の文化を包含して単一の分業によって覆
われる空間的な領域。
歴史のなかで世界システムは、2類型がある。
世界帝国と世界経済
世界帝国と世界経済
世界帝国=政治的に統合されている。
中国・エジプト・ローマなどの古代帝国
が代表として挙げられる。
世界経済=金融センターが交易を制御する
金融センターの所在地は、オランダ・イ
ギリスそしてアメリカ合衆国と移動。
2.ウォーラーステインの著作
ウォーラーステイの著作①-1
• 『近代世界システム:農業資本主義と「ヨーロ
ッパ世界経済の成立』川北稔:訳、岩波書店
、1981年
はじめに 社会変動研究のために
1、近代への序曲
2、新たなヨーロッパ分業体制の確立
~1450年頃から1640年頃まで~
3、絶対王政と国際機構の強化
ウォーラーステイの著作①-2
4、セビーリャからアムステルダムへ
~帝国の挫折~
5、強大な中核諸国家
~階級形成と国際商業~
6、「ヨーロッパ世界経済」
~辺境と外部世界~
7、理論的総括
ウォーラーステイの著作②-1
• 『近代世界システム:1600-1750,重商主義と「ヨ
ーロッパ世界経済」の凝集』川北稔:訳、
名古屋大学出版会、1993年
序章 「17世紀の危機」は実在したか
1、収縮(B)局面
2、「世界経済」におけるオランダのヘゲモニー
3、中核における抗争
~第1の局面:1651年~1689年
ウォーラーステイの著作②-2
4、低成長期における周辺諸地域
5、岐路に立つ半辺境
6、中核地域における抗争
~第2の局面:1689~1763年まで~
ウォーラーステイの著作③-1
• 『近代世界システム:1730-1840s,大西洋革命
の時代』川北稔:訳、
名古屋大学出版会、1997年
1、工業とブルジョワ
2、中核部における抗争の第3局面
~1763年から1815年まで~
3、広大な新地域の「世界経済」への組み込み
~1750年から1850年まで~
ウォーラーステイの著作③-2
4、南北アメリカにおける定住植民地の解放
~1763年から1833年まで~
3.東ユーラシアという範囲
アジアは世界帝国か?
• ウォーラーステインのなかで、ヨーロッパ以外
の地域は、「外部」としてのみ描かれ、世界シ
ステムの拡大に対して、受動的な立場に位置
づけられている。
• 本当に、それでよいのか?
• どのような範囲で見るのか。
• 「外部」が世界システム形成に与えた影響は
ないのか?
半径4000km
東ユーラシア最大域
半径3000km
東ユーラシア海域
半径2000km
東ユーラシア大陸部
半径1000km
雲南の外延部
半径500km
雲南のコア地域
昆明
東ユーラシアの範囲(1)
• 世界商品の動きをみると、従来の東アジア・
東南アジアなどと区分できない。
東ユーラシアの範囲(2)
• 中国史を明・清時代の歴史を理解するために
は、これまで多く使われてきた「東アジア」とい
う枠組みでは不十分
• 「世界」とか「地球」という枠組みでは、何も語
らないに等しい
東ユーラシアの範囲(3)
• 東ユーラシアという枠組み
海からみる→日本海・渤海・黄海・東シナ海・南
シナ海・ベンガル湾の海、およびこれらの海
に接する陸地や島嶼から構成される空間
東ユーラシアの範囲(4)
• 東ユーラシアという枠組み
陸からみる→シベリアの東部を含む北東アジア
、チベット高原・モンゴル高原を含む中央アジ
ア、日本・朝鮮を含む東アジア、そしてマラッ
カ海峡以東の東南アジア、インド沿海部を合
わせた空間
東ユーラシアの生態環境史
• 東ユーラシアという
発想を思いついた経
緯について。
• 山川出版社、2005年
4.銀がめぐった東ユーラシア
世界システムの起点
銀の大循環(1)
• 東ユーラシア全域に俯瞰するならば、長
江下流部で織られた質の高い絹織物、
景徳鎮などの窯業地で焼かれた陶磁器
が、ユーラシア全域に輸出されるように
なった。
• 中国産品の流れとは逆方向に、大量の
銀が中国に流れ込む。
銀の大循環(2)
• 元朝は商業税や塩税などのかたちで銀
を市場から徴収すると、元朝の皇帝をモ
ンゴル帝国の盟主として承認してもらう
見返りに、ユーラシア各地のモンゴル政
権に送り届けた。
• この銀が再びウイグル族やムスリムが
経営する商社に投資され、中国物産の
買い付けに使われた。この交易は銀の
大循環と呼ばれる。
銀の大循環
東ユーラシアの歴史~14世紀~
• 分水嶺の時代
→ユーラシアのコア地域(中国・内陸アジア)
での銀を軸にした経済システム
→少ない銀をどうするか
①回転速度を上げる*ストックからフローへ
商社(ムスリム・ウイグル)の活用
②紙幣の活用
交鈔
銅銭の流出
• 周辺地域への銅銭の流出
→日本
→ヴェトナム
→ジャワ
それぞれの地域で、農村社会へ貨幣経済が浸
透し、領域的な支配のシステムが形成
地域ごとに、社会統合の性格は異なる
周辺の変化
• 日本:荘園→領主権力
• ヴェトナム:中国を模倣する政権の萌芽
• ジャワ:港市が後背地と結ばれる
5.戸メカニズムのもとで
東ユーラシアの歴史~15世紀~
• コアにおける銀使いの経済の破綻
元朝の統治力の低下→循環が滞る
紙幣の乱発→循環の崩壊
モンゴル帝国の遺体から生まれた
帝国群
明朝
ティームール帝国
オスマン帝国
ロシア帝国
明朝のメカニズム(1)
• 銀を使わないメカニズムで運営
• 戸メカニズム=集中と再分配の仕組み
戸による社会の制度化は元朝に由来
テムジンのアイルに基づく軍事-社会組織
宋代までに形成されていた「戸口」制度
戸が機能単位(軍戸・竈戸・匠戸など)
明朝のメカニズム(2)
• 朝貢メカニズム=貢納の仕組み
儒教の「礼」にもとづく秩序に応じた儀礼。
中国の皇帝を父親とする親族的な関係。
周辺諸国の統治者に正当性を与える。
=冊封
戸メカニズム
• 戸メカニズムに基づく大事業
永楽帝の時代 北京遷都・大運河改修
鄭和の遠征・武当山の道観
浙江の海塘・長城の増改築など
• 軍事活動を支えた開中法
南京郊外の碑材
明の永楽帝(朱棣)が父の洪武帝(朱元璋)
のために切り出そうとした碑材
中国の絹織物①
• 【織工の生活】 杭州はかつて南宋の首都・
臨安として繁栄し、モンゴル帝国のもとでも交
易のセンターであったことが、マルコ=ポーロ
などの記載から窺い知ることができる。明朝
が成立して六年が過ぎたころ、杭州の城門外
、相安里と呼ばれる所に、浙東出身の知識人
で杭州府学の教授が仮住まいしていた。名を
徐一夔という。
中国の絹織物②
• その家の近くに、絹織物屋があった。機織り
の音は毎晩遅くまでリズミカルに響き、きまっ
て三更の夜回りの音が聞こえるころ(季節に
よって異なるが、おおよそ夜の一○時ごろ)に
なると、機織りの主人が音頭をとって、織工た
ちが声を合わせ、その日一日の仕事に一区
切りをつけていた。徐は「楽しそうだな」と感じ
入っていた。
中国の絹織物③
•
それが洪武何年なのか分からないが、ある
朝のこと、徐は織屋を訪ねてみた。古ぼけた
家屋のなかに、四、五台の織機が南北に二
列ならび、それぞれに二人が付いている。縦
糸を上げ下げして模様を織り出すものと、横
糸を通すものとが、呼吸を合わせて作業にい
そしんでいた。みな疲れ切った様子である。
なぜ、外に響く楽しげな音と実際にみる有様
との違いをいぶかしく思い、姚という姓の織工
をつかまえて理由を尋ねてみた。
中国の絹織物④
•
「私は雇われて毎日に銭二百文の給料を得
ています。主人からは衣服と食事を支給され
、給料で父母・妻子を養うことができます。ど
んな織物でもその仕事ぶりが良ければ、世間
から引き合いがあるというものです。そうなり
ますと、主人は手元に集めた織物を捌くこと
ができ、職工は給料の遅配や欠配に苦しむこ
ともありません。そのように考えますと、みな
語らずとも声が揃って、一人の声のようになり
、仕事のつらさを忘れるのです」。
中国の絹織物⑤
•
この職工と以前にいっしょに働いていたある
男は、腕が良く稼ぎも良かった。自分の才覚
に自信をもったその男は、大官に仕えて出世
の機会を伺った。五年ほどのあいだ、大官の
家奴(主人に隷属する使用人)のあいだに交
じって走り回った。しかし、ついに目が出るこ
とはなく、あるとき大官の怒りに触れて追い出
されてしまった。そのときには機織りの技術を
忘れており、誰も雇うものがなく、のたれ死ん
でしまったという。
中国の絹織物⑥
• 徐は職工の話を聞き、儒学者らしく「足を知る
」ことの大切さを教訓として学び、文章としてし
たためることとなる。織工の言葉を伝えるこの
文章は、「職工対」(職工の回答)として明・清
史研究者のあいだで良く知られている。
匠戸
• 手工業生産者は、匠戸として編成。
生糸・絹織物を手に入れたのは
• 最大の輸入先は、
日本
• 反対方向に交易されたモノは、
銀
6.朝貢メカニズムのもとで
琉球国の中国への朝貢
•
•
•
•
『新しい歴史教科書』の朝貢のイメージ。
君主と家臣との関係。
朝貢国は、中国に従属する属国。
このイメージは正しいのだろうか?
参考文献
• 豊見山和行「冊封
の様相」
• 『新・琉球史:近世
編(上)』
• 琉球新報社、
1989年
城(グスク)
• 参考:沖縄の世界遺産
http://www.chample.tv/heritage/
• 東シナ海の中程に浮かぶ沖縄本島では、一
二世紀ごろから数多くの地方政権が分立し、
グスクと呼ばれる城塞を拠り所にして割拠し
ていた。
統一の機運
• 一四世紀になると佐敷・浦添・中城・勝連・読
谷・今帰仁などの港を有するグスクが、積極
的に日本や中国・朝鮮との交易を行い、農具
や武器のために欠くことのできない鉄などを
手に入れるようになり、他のグスクを圧倒す
るようになった。
国づくりを促す朝貢
• 沖縄の統一に向けた動きに弾みをつけたも
のが、洪武五年(一三七二)に明朝が諸外国
に送った朝貢を促す招諭文であった。中国か
ら派遣された使者の楊戴は琉球へ至り、浦添
を中心に勢力圏を広げていた中山王の察度
に朝貢をするように促した。その返答として同
年一二月に察度は弟泰期を明朝へと派遣し
、朝貢関係を結ぶ。
入貢
• 洪武一三年には大里を中心とする南山王が
、洪武一六年(一三八三)には今帰仁を中心
としていた北山王が入貢した。
朝貢の条件づくり
• 中山は進貢貿易の初期段階で遠洋航海の可
能な大型船舶を自前で一隻、明からの下賜
や貸与で二隻程度保有していたと推定される
。南山・北山は大型船舶をもてなかったことか
ら、当初は中山の船に便乗することがしばし
ばあった。このことが中山を中心に琉球王国
が形成される契機となった。
冊封(さっぷう・さくほう)
• 永楽二年(一四○四)に、明朝皇帝は中山王
の武寧および南山王の汪応祖のもとに使節
を派遣し、それぞれ君主として任命した。こう
した手続きを冊封といい、琉球は中国皇帝を
頂点とする礼の秩序に組み込まれたことにな
る。
衣服の序列
• 中山王の王権のシンボルは、冊封を受け入
れたときに明朝から与えられた印章と皮弁冠
と皮弁服である。礼の秩序とは尊卑・長幼の
序列をあらかじめ定め、当事者たちがその上
下の関係を意識しながら正しく行為を取り交
わすことから生まれる。この序列を目に見え
るようにしたものが、印章や冠や衣服である。
印章
• 皇帝が冊封のときに琉球国王に与えた印章
は、「鍍金銀印」であった。これは、皇帝の孫
が任命される郡王のランクに与えられるもの
である。
冠
• 冠は「七旒皂皺紗皮弁冠」と呼ばれるもので
、「皂」すなわち黒い紗でつくられた冠の上部
に七列の玉飾りが並んでいた。
琉球国王の肖像画
遙かなる御後絵
―甦る琉球絵画
作品社
(2003-09-25出版)
御後絵 おごえ
うぐい
冠で示される序列
• 明朝の規定では皇帝の冠は一二列、皇帝の
息子である皇太子や親王は九列、そして孫
の世代である郡王は七列と決められていた。
これらのことから、琉球国王は皇帝の孫の序
列に位置づけられたことが明らかとなる。な
おこの皮弁冠は、沖縄の言葉で「ピーヒャクク
ヮン」と発音される。
東アジアの序列
• 明朝皇帝は、朝鮮半島の李朝や日本列島の
室町政権に対しては子の世代に相当する親
王ランクを、ヴェトナム安南国王には郡王の
ランクをそれぞれ充てている。朝鮮や日本に
与えられた印章は金印である。
冊封体制下の国際関係
• 冊封体制に入ることは、単に中国皇帝に対し
て臣下の礼をとるということだけではなく、他
の冊封されている政権とのあいだにも、ランク
に応じた序列関係が生まれることを意味した
。この礼の秩序が実践されれば、「四海をもっ
て一家となす」ことを目指した国際関係が生
まれることになる。琉球王国もアユタヤと交渉
するときに、この理念を拠り所としている。
守礼の門
• 琉球王国を表す言葉に、一五七九年に首里
の城門に掲げられた「守礼の邦」というものが
ある。この言葉は琉球王国が平和外交に努
めたことを示すと、一般には理解されている。
優等生としての琉球国
• この「礼」とは単に礼儀正しいという意味では
ない。中国から冊封を受け、親族関係になぞ
って中国皇帝を頂点としてつくられた朝貢体
制の優等生として行動することで、他の諸国
との外交交渉をねばり強く進め、交易の利益
を獲得しようとする、海洋の小国の国家戦略
が込められているのである。
優等生の特権
• 明朝の側も琉球に信任を与えた。たとえば後述する
符勅と勘合を諸外国に支給する際にも、朝鮮となら
んで「琉球国は入賀・謝恩のさいに使者が往来して
、公式文書が相互に行き来しているので、符勅や勘
合を支給しなくても信頼できる」(『皇明外夷朝貢考』
)とした。つまり証明書がなくても朝貢船を派遣する
ことができる特別待遇を、琉球は享受できた。こうし
た特典を得て、琉球はシナ海交易の要として、一五
世紀に中継貿易によって繁栄することができたので
ある。
困りものの日本
• 日本は明朝の朝貢メカニズムに基づかない
行動を、しばしば採るので、警戒される。
• 琉球などの「優等生」以外の朝貢国は、朝貢
に来たことを示す勘合を与えられて中国にく
ることになっていた。
• しかし、----
7.銀の再登場
日本銀の登場
• 一五二○年代、中国では嘉靖年間の初期、
日本では大永年間、博多の商人の神谷寿亭
は、銅を買い付けるため出雲に向かう船に乗
り込み、日本海を航行していた。
石見銀山
• 船上から陸を見ると眺めていたところ、山の
中腹が輝いて見えたと伝えられている。神谷
は大永六年(一五二六)に技術者とともにそ
の場所に向かうと、地表に露出した、おびた
だしい量の銀鉱石を発見した。それが石見銀
山である。
灰吹き法
• 天文二年(嘉靖一二年、一五三三)、博多より
、宗丹・桂寿という朝鮮人の技術者が石見銀
山に派遣され、大陸の製錬技術であった灰吹
き法が導入された。
世界遺産に
• 石見銀山、世界遺産に登録
http://www.pref.shimane.lg.jp/sekaiisan/
東ユーラシアの歴史~16世紀~
• 商業の時代
• 東南アジアが世界商品を生み出す
トウガラシ普及前のコショウ
• 日本の銀が交易を下支えする
• 王権と取り巻きによる私的な商業活動
日本の大内・細川 ・ 琉球王国
東南アジアのマラッカ・アユタヤ
困りものの日本(1)
• 日本は、朝貢メカニズムにとって、困りもの。
• 朝鮮・中国沿海地域で略奪を行う「倭寇」の
拠点が日本にあった。
困りものの日本(2)
• 寧波事件(1514年)
中国との交易をめぐる日本の細川・大内の
争い→正式の勘合符を持つ大内、有効期限
を過ぎた勘合符しか持たない細川氏。
細川側は賄賂→不満を持った大内側が乱
闘。
• 勘合符は、明朝の改元ごとに発給。
リアクション・ペーパーから
マルクスの理論について
• 疑問を覚えることが、多々あった。「生産力の
向上は恒常的」、「社会主義で人は変わる」の
部分は、特に強い疑問を感じた。
マルクスと「原始共同体社会」
• マルクスは生産の担い手である労働者に重
きを置いて世界を把握しようとしたようだが、
世界は何も労働者だけで成立しているわけで
はない。
• パプアニューギニアには狩猟・採取で生計を
立てている人もいる。だから西欧の歴史に照
らして、先進と発展途上とを分けることには網
がない。なぜなら、狩猟・採取をする人には「
生産」や「管理」といった概念は生じ得ないか
らである。
社会主義
• 社会主義の段階に移行し、労働者が支配階
級になると、いったい誰を支配するのか、疑
問に残りました。
マルクスの理想とは何だったのか
• 経済が最終的に共産主義になれば、人間は
幸せになれる、とマルクスが定義づけたこと
で、あのソヴィエト連邦が誕生してから、人々
は希望を見いだし、活力を得たのだと思う。
最終的な生産形態・社会形態のゴールが見
えたのだから。
• だからこそ、1991年に崩壊したときの、深い
失望感のただよう空気が忘れられません。幼
い頃に意味も分からず、ただことでないのだ
と知れたあの雰囲気を。
承前
• 今でこそ、それが理想でしかないことを人々
はよく理解していると思います。ただ、形ある
ゴールが見え、目指せることは、とても元気に
なれることです。それに代わる何かは無いと
しても、人々に必要なものは、正しいものだけ
ではないのだな、と思います。
評価方法
• 授業への参画度---主にリアクションペーパー
• 毎回のリアクションペーパーに評価
S(10)、A(8)、B(7)、C(6)、D(5)、×(0)
その総計を 「x」 とする。
最終レポートの評価 「y」
成績=√xy つまりxyが3600点以上だと合格
受講者へのメッセージ
•
•
•
•
http://blog.goo.ne.jp/east-eurasia/
上田が主催するブログ。
大学院生の書き込みがあります。
この授業に関連する情報も、掲載中。
参考書
テキスト
• 上田信『海と帝国』講談社、2005年、\2,600。
海と帝国
• この講義の時代背景
を知るために、参考
にしてください。