いのちの言葉 2012年8月 人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う 者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。 (マタイ 10.32-33) この言葉は、私たちすべてのキリスト者に、 大きな慰めと励ましを与えてくれます。 イエスは私たちに一貫し た信仰をもって生きるよ う勧めておられます。私 たちの永遠の行き先は、 この地上で私たちがイエ スにどのような態度を取 るかにかかっているから です。 もし私たちが人々の前で、自分はイエスの仲間であると言い表すなら、彼も また父の前で、私たちを認めてくださり、逆に、私たちが人々の前で彼を知ら ないと言うなら、彼もまた父の前で私たちを知らないと言う、とおっしゃってい ます。 人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う 者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。 (マタイ 10.32-33) イエスは私たちを愛しておられるので、地上の生活の後で待っている報いと罰 に、私たちの注意を向けさせようとされます。ある教父の言葉にもあるように、 罰への恐れは、時に、すばらしい約束よりも効果があることを、イエスは知っ ておられるのです。 ですからイエスは、私たちの心に限りない幸せへの望みを育まれると同時に、 私たちを救うために、罰への恐れを抱かせるのです。 イエスは、私たちが永遠に、神と共に生きられるようになることに、心をかけ ておられます。そして、これこそが、唯一大切なことなのです。この究極の目 的のために、私たちは地上で生きるよう招かれました。事実、神と共に生き て こ そ 、 私 た ち は 完 全 な 自 己 実 現 に 至 り.

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Transcript いのちの言葉 2012年8月 人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う 者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。 (マタイ 10.32-33) この言葉は、私たちすべてのキリスト者に、 大きな慰めと励ましを与えてくれます。 イエスは私たちに一貫し た信仰をもって生きるよ う勧めておられます。私 たちの永遠の行き先は、 この地上で私たちがイエ スにどのような態度を取 るかにかかっているから です。 もし私たちが人々の前で、自分はイエスの仲間であると言い表すなら、彼も また父の前で、私たちを認めてくださり、逆に、私たちが人々の前で彼を知ら ないと言うなら、彼もまた父の前で私たちを知らないと言う、とおっしゃってい ます。 人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う 者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。 (マタイ 10.32-33) イエスは私たちを愛しておられるので、地上の生活の後で待っている報いと罰 に、私たちの注意を向けさせようとされます。ある教父の言葉にもあるように、 罰への恐れは、時に、すばらしい約束よりも効果があることを、イエスは知っ ておられるのです。 ですからイエスは、私たちの心に限りない幸せへの望みを育まれると同時に、 私たちを救うために、罰への恐れを抱かせるのです。 イエスは、私たちが永遠に、神と共に生きられるようになることに、心をかけ ておられます。そして、これこそが、唯一大切なことなのです。この究極の目 的のために、私たちは地上で生きるよう招かれました。事実、神と共に生き て こ そ 、 私 た ち は 完 全 な 自 己 実 現 に 至 り.

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いのちの言葉

2012年8月

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

この言葉は、私たちすべてのキリスト者に、
大きな慰めと励ましを与えてくれます。

イエスは私たちに一貫し
た信仰をもって生きるよ
う勧めておられます。私
たちの永遠の行き先は、
この地上で私たちがイエ
スにどのような態度を取
るかにかかっているから
です。

もし私たちが人々の前で、自分はイエスの仲間であると言い表すなら、彼も
また父の前で、私たちを認めてくださり、逆に、私たちが人々の前で彼を知ら
ないと言うなら、彼もまた父の前で私たちを知らないと言う、とおっしゃってい
ます。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

イエスは私たちを愛しておられるので、地上の生活の後で待っている報いと罰
に、私たちの注意を向けさせようとされます。ある教父の言葉にもあるように、
罰への恐れは、時に、すばらしい約束よりも効果があることを、イエスは知っ
ておられるのです。

ですからイエスは、私たちの心に限りない幸せへの望みを育まれると同時に、
私たちを救うために、罰への恐れを抱かせるのです。

イエスは、私たちが永遠に、神と共に生きられるようになることに、心をかけ
ておられます。そして、これこそが、唯一大切なことなのです。この究極の目
的のために、私たちは地上で生きるよう招かれました。事実、神と共に生き
て こ そ 、 私 た ち は 完 全 な 自 己 実 現 に 至 り 、
すべての望みを満たすことができます。

そのためイエスは、この地上にいる内から、自分を彼の仲間だと言い表しな
さい、と勧めておられます。反対に、もしこの世で私たちがイエスとの関わり
を持とうとせず、今この時、彼を知らないと言うのであれば、私たちがこの世
を去る時、永遠に彼から断ち切られてしまうでしょう。

私たちが人生を終える時、イエスは、各々が地上で何を選んだか、その結果
どうなったかを、御父の前で明らかになさるでしょう。またイエスは、最後の審
判について話しながら、私たちがこの地上でする決心が、いかに重要で真剣
なものかを示しておられます。実際、それは私たちの永遠の命に関わること
なのです。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

このイエスの忠告を、どのように生かし、実行に移すことができるでしょうか。
「わたしの仲間であると言い表す者は…」とイエスご自身がおっしゃっている
のですから、単純に、人々の前で自分がイエスの仲間であると言い表しま
しょう。

世間体にこだわるのをやめ、また、キリスト者としての本物の生き方を私たち
から奪う、どっちつかずの妥協した生き方から、抜け出しましょう。

私たちは、キリストを証しするように召されていることを思い出しましょう。
キリストは、ご自分の平和、正義、愛のメッセージが、私たちを通してす
べての人に及ぶよう望んでおられます。ですから、家庭や職場、友人関
係や学校で、また生活の様々な状況の中で、キリストを証ししましょう。

そしてこの証しを、まず行動を通して示しましょう。つまり、実直な生活、
誠実な態度、また金銭に執着をもたず、他人の喜びや苦しみを分かち
合うことによって、などです。

何よりも、私たちの相互愛と一致によって、それを証ししましょう。イエス
と結ばれている人々に約束された、真の平和と喜びが、この地上にいる
うちから私たちの魂を満たし、ほかの人々の上にも注がれるためです。

そして「この苦しみの多い世の中で、どうしてあなたはそのような態度が取れ
るのですか」、「なぜそんなに穏やかなのですか」と、だれかが尋ねるなら、
謙虚に、聖霊が導くままに、率直に話しましょう。こうして私たちは、言葉に
よっても、また考え方においても、キリストを証しすることになります。

それにより、キリストを探し求めている多くの人々が、
彼を見いだすことができるでしょう。

時には、誤解されたり、反論や嘲りの的となったり、敵意をもたれたり、
迫害されたりするかもしれません。イエスは、このことも予告しておられ
ます。「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだ
ろう」と。

それならいっそう私たちは正しい道を歩んでいるのです。ですから、試練の中
にあっても、命を求められても、勇気をもってキリストを証しし続けましょう。

私たちの目的地である
天国は、それに値する
ものです。そこでは、私
たちの愛するイエスが、
御父の前で、永遠に私
たちを認めてくださるで
しょう。

人々の前で自分をわたしの仲
間であると言い表す者は、わ
たしも天の父の前で、その人
をわたしの仲間であると言い
表す。しかし、人々の前でわた
しを知らないと言う者は、 わ
たしも天の父の前で、その人
を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

フォコラーレの創立者キアラ・ルービックが、
2008年3月14日に帰天した後、彼女が過去に残した解説を「いのちの言葉」として取り上げます。
今月の言葉は、1984年7月に発表されたものです。
いのちの言葉は聖書の言葉を黙想し、生活の中で実践するための助けとして、書かれたものです。
Anna Lollo のグラフィックスPlacido d’Omina神父の共同制作 (シシリア –イタリア)
連絡先フォコラーレ:03-3707-4018 [email protected]
03-5370-6424 [email protected]
http://focolare.world.coocan.jp/


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いのちの言葉

2012年8月

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

この言葉は、私たちすべてのキリスト者に、
大きな慰めと励ましを与えてくれます。

イエスは私たちに一貫し
た信仰をもって生きるよ
う勧めておられます。私
たちの永遠の行き先は、
この地上で私たちがイエ
スにどのような態度を取
るかにかかっているから
です。

もし私たちが人々の前で、自分はイエスの仲間であると言い表すなら、彼も
また父の前で、私たちを認めてくださり、逆に、私たちが人々の前で彼を知ら
ないと言うなら、彼もまた父の前で私たちを知らないと言う、とおっしゃってい
ます。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

イエスは私たちを愛しておられるので、地上の生活の後で待っている報いと罰
に、私たちの注意を向けさせようとされます。ある教父の言葉にもあるように、
罰への恐れは、時に、すばらしい約束よりも効果があることを、イエスは知っ
ておられるのです。

ですからイエスは、私たちの心に限りない幸せへの望みを育まれると同時に、
私たちを救うために、罰への恐れを抱かせるのです。

イエスは、私たちが永遠に、神と共に生きられるようになることに、心をかけ
ておられます。そして、これこそが、唯一大切なことなのです。この究極の目
的のために、私たちは地上で生きるよう招かれました。事実、神と共に生き
て こ そ 、 私 た ち は 完 全 な 自 己 実 現 に 至 り 、
すべての望みを満たすことができます。

そのためイエスは、この地上にいる内から、自分を彼の仲間だと言い表しな
さい、と勧めておられます。反対に、もしこの世で私たちがイエスとの関わり
を持とうとせず、今この時、彼を知らないと言うのであれば、私たちがこの世
を去る時、永遠に彼から断ち切られてしまうでしょう。

私たちが人生を終える時、イエスは、各々が地上で何を選んだか、その結果
どうなったかを、御父の前で明らかになさるでしょう。またイエスは、最後の審
判について話しながら、私たちがこの地上でする決心が、いかに重要で真剣
なものかを示しておられます。実際、それは私たちの永遠の命に関わること
なのです。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

このイエスの忠告を、どのように生かし、実行に移すことができるでしょうか。
「わたしの仲間であると言い表す者は…」とイエスご自身がおっしゃっている
のですから、単純に、人々の前で自分がイエスの仲間であると言い表しま
しょう。

世間体にこだわるのをやめ、また、キリスト者としての本物の生き方を私たち
から奪う、どっちつかずの妥協した生き方から、抜け出しましょう。

私たちは、キリストを証しするように召されていることを思い出しましょう。
キリストは、ご自分の平和、正義、愛のメッセージが、私たちを通してす
べての人に及ぶよう望んでおられます。ですから、家庭や職場、友人関
係や学校で、また生活の様々な状況の中で、キリストを証ししましょう。

そしてこの証しを、まず行動を通して示しましょう。つまり、実直な生活、
誠実な態度、また金銭に執着をもたず、他人の喜びや苦しみを分かち
合うことによって、などです。

何よりも、私たちの相互愛と一致によって、それを証ししましょう。イエス
と結ばれている人々に約束された、真の平和と喜びが、この地上にいる
うちから私たちの魂を満たし、ほかの人々の上にも注がれるためです。

そして「この苦しみの多い世の中で、どうしてあなたはそのような態度が取れ
るのですか」、「なぜそんなに穏やかなのですか」と、だれかが尋ねるなら、
謙虚に、聖霊が導くままに、率直に話しましょう。こうして私たちは、言葉に
よっても、また考え方においても、キリストを証しすることになります。

それにより、キリストを探し求めている多くの人々が、
彼を見いだすことができるでしょう。

時には、誤解されたり、反論や嘲りの的となったり、敵意をもたれたり、
迫害されたりするかもしれません。イエスは、このことも予告しておられ
ます。「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだ
ろう」と。

それならいっそう私たちは正しい道を歩んでいるのです。ですから、試練の中
にあっても、命を求められても、勇気をもってキリストを証しし続けましょう。

私たちの目的地である
天国は、それに値する
ものです。そこでは、私
たちの愛するイエスが、
御父の前で、永遠に私
たちを認めてくださるで
しょう。

人々の前で自分をわたしの仲
間であると言い表す者は、わ
たしも天の父の前で、その人
をわたしの仲間であると言い
表す。しかし、人々の前でわた
しを知らないと言う者は、 わ
たしも天の父の前で、その人
を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

フォコラーレの創立者キアラ・ルービックが、
2008年3月14日に帰天した後、彼女が過去に残した解説を「いのちの言葉」として取り上げます。
今月の言葉は、1984年7月に発表されたものです。
いのちの言葉は聖書の言葉を黙想し、生活の中で実践するための助けとして、書かれたものです。
Anna Lollo のグラフィックスPlacido d’Omina神父の共同制作 (シシリア –イタリア)
連絡先フォコラーレ:03-3707-4018 [email protected]
03-5370-6424 [email protected]
http://focolare.world.coocan.jp/


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いのちの言葉

2012年8月

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

この言葉は、私たちすべてのキリスト者に、
大きな慰めと励ましを与えてくれます。

イエスは私たちに一貫し
た信仰をもって生きるよ
う勧めておられます。私
たちの永遠の行き先は、
この地上で私たちがイエ
スにどのような態度を取
るかにかかっているから
です。

もし私たちが人々の前で、自分はイエスの仲間であると言い表すなら、彼も
また父の前で、私たちを認めてくださり、逆に、私たちが人々の前で彼を知ら
ないと言うなら、彼もまた父の前で私たちを知らないと言う、とおっしゃってい
ます。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

イエスは私たちを愛しておられるので、地上の生活の後で待っている報いと罰
に、私たちの注意を向けさせようとされます。ある教父の言葉にもあるように、
罰への恐れは、時に、すばらしい約束よりも効果があることを、イエスは知っ
ておられるのです。

ですからイエスは、私たちの心に限りない幸せへの望みを育まれると同時に、
私たちを救うために、罰への恐れを抱かせるのです。

イエスは、私たちが永遠に、神と共に生きられるようになることに、心をかけ
ておられます。そして、これこそが、唯一大切なことなのです。この究極の目
的のために、私たちは地上で生きるよう招かれました。事実、神と共に生き
て こ そ 、 私 た ち は 完 全 な 自 己 実 現 に 至 り 、
すべての望みを満たすことができます。

そのためイエスは、この地上にいる内から、自分を彼の仲間だと言い表しな
さい、と勧めておられます。反対に、もしこの世で私たちがイエスとの関わり
を持とうとせず、今この時、彼を知らないと言うのであれば、私たちがこの世
を去る時、永遠に彼から断ち切られてしまうでしょう。

私たちが人生を終える時、イエスは、各々が地上で何を選んだか、その結果
どうなったかを、御父の前で明らかになさるでしょう。またイエスは、最後の審
判について話しながら、私たちがこの地上でする決心が、いかに重要で真剣
なものかを示しておられます。実際、それは私たちの永遠の命に関わること
なのです。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

このイエスの忠告を、どのように生かし、実行に移すことができるでしょうか。
「わたしの仲間であると言い表す者は…」とイエスご自身がおっしゃっている
のですから、単純に、人々の前で自分がイエスの仲間であると言い表しま
しょう。

世間体にこだわるのをやめ、また、キリスト者としての本物の生き方を私たち
から奪う、どっちつかずの妥協した生き方から、抜け出しましょう。

私たちは、キリストを証しするように召されていることを思い出しましょう。
キリストは、ご自分の平和、正義、愛のメッセージが、私たちを通してす
べての人に及ぶよう望んでおられます。ですから、家庭や職場、友人関
係や学校で、また生活の様々な状況の中で、キリストを証ししましょう。

そしてこの証しを、まず行動を通して示しましょう。つまり、実直な生活、
誠実な態度、また金銭に執着をもたず、他人の喜びや苦しみを分かち
合うことによって、などです。

何よりも、私たちの相互愛と一致によって、それを証ししましょう。イエス
と結ばれている人々に約束された、真の平和と喜びが、この地上にいる
うちから私たちの魂を満たし、ほかの人々の上にも注がれるためです。

そして「この苦しみの多い世の中で、どうしてあなたはそのような態度が取れ
るのですか」、「なぜそんなに穏やかなのですか」と、だれかが尋ねるなら、
謙虚に、聖霊が導くままに、率直に話しましょう。こうして私たちは、言葉に
よっても、また考え方においても、キリストを証しすることになります。

それにより、キリストを探し求めている多くの人々が、
彼を見いだすことができるでしょう。

時には、誤解されたり、反論や嘲りの的となったり、敵意をもたれたり、
迫害されたりするかもしれません。イエスは、このことも予告しておられ
ます。「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだ
ろう」と。

それならいっそう私たちは正しい道を歩んでいるのです。ですから、試練の中
にあっても、命を求められても、勇気をもってキリストを証しし続けましょう。

私たちの目的地である
天国は、それに値する
ものです。そこでは、私
たちの愛するイエスが、
御父の前で、永遠に私
たちを認めてくださるで
しょう。

人々の前で自分をわたしの仲
間であると言い表す者は、わ
たしも天の父の前で、その人
をわたしの仲間であると言い
表す。しかし、人々の前でわた
しを知らないと言う者は、 わ
たしも天の父の前で、その人
を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

フォコラーレの創立者キアラ・ルービックが、
2008年3月14日に帰天した後、彼女が過去に残した解説を「いのちの言葉」として取り上げます。
今月の言葉は、1984年7月に発表されたものです。
いのちの言葉は聖書の言葉を黙想し、生活の中で実践するための助けとして、書かれたものです。
Anna Lollo のグラフィックスPlacido d’Omina神父の共同制作 (シシリア –イタリア)
連絡先フォコラーレ:03-3707-4018 [email protected]
03-5370-6424 [email protected]
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いのちの言葉

2012年8月

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

この言葉は、私たちすべてのキリスト者に、
大きな慰めと励ましを与えてくれます。

イエスは私たちに一貫し
た信仰をもって生きるよ
う勧めておられます。私
たちの永遠の行き先は、
この地上で私たちがイエ
スにどのような態度を取
るかにかかっているから
です。

もし私たちが人々の前で、自分はイエスの仲間であると言い表すなら、彼も
また父の前で、私たちを認めてくださり、逆に、私たちが人々の前で彼を知ら
ないと言うなら、彼もまた父の前で私たちを知らないと言う、とおっしゃってい
ます。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

イエスは私たちを愛しておられるので、地上の生活の後で待っている報いと罰
に、私たちの注意を向けさせようとされます。ある教父の言葉にもあるように、
罰への恐れは、時に、すばらしい約束よりも効果があることを、イエスは知っ
ておられるのです。

ですからイエスは、私たちの心に限りない幸せへの望みを育まれると同時に、
私たちを救うために、罰への恐れを抱かせるのです。

イエスは、私たちが永遠に、神と共に生きられるようになることに、心をかけ
ておられます。そして、これこそが、唯一大切なことなのです。この究極の目
的のために、私たちは地上で生きるよう招かれました。事実、神と共に生き
て こ そ 、 私 た ち は 完 全 な 自 己 実 現 に 至 り 、
すべての望みを満たすことができます。

そのためイエスは、この地上にいる内から、自分を彼の仲間だと言い表しな
さい、と勧めておられます。反対に、もしこの世で私たちがイエスとの関わり
を持とうとせず、今この時、彼を知らないと言うのであれば、私たちがこの世
を去る時、永遠に彼から断ち切られてしまうでしょう。

私たちが人生を終える時、イエスは、各々が地上で何を選んだか、その結果
どうなったかを、御父の前で明らかになさるでしょう。またイエスは、最後の審
判について話しながら、私たちがこの地上でする決心が、いかに重要で真剣
なものかを示しておられます。実際、それは私たちの永遠の命に関わること
なのです。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

このイエスの忠告を、どのように生かし、実行に移すことができるでしょうか。
「わたしの仲間であると言い表す者は…」とイエスご自身がおっしゃっている
のですから、単純に、人々の前で自分がイエスの仲間であると言い表しま
しょう。

世間体にこだわるのをやめ、また、キリスト者としての本物の生き方を私たち
から奪う、どっちつかずの妥協した生き方から、抜け出しましょう。

私たちは、キリストを証しするように召されていることを思い出しましょう。
キリストは、ご自分の平和、正義、愛のメッセージが、私たちを通してす
べての人に及ぶよう望んでおられます。ですから、家庭や職場、友人関
係や学校で、また生活の様々な状況の中で、キリストを証ししましょう。

そしてこの証しを、まず行動を通して示しましょう。つまり、実直な生活、
誠実な態度、また金銭に執着をもたず、他人の喜びや苦しみを分かち
合うことによって、などです。

何よりも、私たちの相互愛と一致によって、それを証ししましょう。イエス
と結ばれている人々に約束された、真の平和と喜びが、この地上にいる
うちから私たちの魂を満たし、ほかの人々の上にも注がれるためです。

そして「この苦しみの多い世の中で、どうしてあなたはそのような態度が取れ
るのですか」、「なぜそんなに穏やかなのですか」と、だれかが尋ねるなら、
謙虚に、聖霊が導くままに、率直に話しましょう。こうして私たちは、言葉に
よっても、また考え方においても、キリストを証しすることになります。

それにより、キリストを探し求めている多くの人々が、
彼を見いだすことができるでしょう。

時には、誤解されたり、反論や嘲りの的となったり、敵意をもたれたり、
迫害されたりするかもしれません。イエスは、このことも予告しておられ
ます。「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだ
ろう」と。

それならいっそう私たちは正しい道を歩んでいるのです。ですから、試練の中
にあっても、命を求められても、勇気をもってキリストを証しし続けましょう。

私たちの目的地である
天国は、それに値する
ものです。そこでは、私
たちの愛するイエスが、
御父の前で、永遠に私
たちを認めてくださるで
しょう。

人々の前で自分をわたしの仲
間であると言い表す者は、わ
たしも天の父の前で、その人
をわたしの仲間であると言い
表す。しかし、人々の前でわた
しを知らないと言う者は、 わ
たしも天の父の前で、その人
を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

フォコラーレの創立者キアラ・ルービックが、
2008年3月14日に帰天した後、彼女が過去に残した解説を「いのちの言葉」として取り上げます。
今月の言葉は、1984年7月に発表されたものです。
いのちの言葉は聖書の言葉を黙想し、生活の中で実践するための助けとして、書かれたものです。
Anna Lollo のグラフィックスPlacido d’Omina神父の共同制作 (シシリア –イタリア)
連絡先フォコラーレ:03-3707-4018 [email protected]
03-5370-6424 [email protected]
http://focolare.world.coocan.jp/


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いのちの言葉

2012年8月

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

この言葉は、私たちすべてのキリスト者に、
大きな慰めと励ましを与えてくれます。

イエスは私たちに一貫し
た信仰をもって生きるよ
う勧めておられます。私
たちの永遠の行き先は、
この地上で私たちがイエ
スにどのような態度を取
るかにかかっているから
です。

もし私たちが人々の前で、自分はイエスの仲間であると言い表すなら、彼も
また父の前で、私たちを認めてくださり、逆に、私たちが人々の前で彼を知ら
ないと言うなら、彼もまた父の前で私たちを知らないと言う、とおっしゃってい
ます。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

イエスは私たちを愛しておられるので、地上の生活の後で待っている報いと罰
に、私たちの注意を向けさせようとされます。ある教父の言葉にもあるように、
罰への恐れは、時に、すばらしい約束よりも効果があることを、イエスは知っ
ておられるのです。

ですからイエスは、私たちの心に限りない幸せへの望みを育まれると同時に、
私たちを救うために、罰への恐れを抱かせるのです。

イエスは、私たちが永遠に、神と共に生きられるようになることに、心をかけ
ておられます。そして、これこそが、唯一大切なことなのです。この究極の目
的のために、私たちは地上で生きるよう招かれました。事実、神と共に生き
て こ そ 、 私 た ち は 完 全 な 自 己 実 現 に 至 り 、
すべての望みを満たすことができます。

そのためイエスは、この地上にいる内から、自分を彼の仲間だと言い表しな
さい、と勧めておられます。反対に、もしこの世で私たちがイエスとの関わり
を持とうとせず、今この時、彼を知らないと言うのであれば、私たちがこの世
を去る時、永遠に彼から断ち切られてしまうでしょう。

私たちが人生を終える時、イエスは、各々が地上で何を選んだか、その結果
どうなったかを、御父の前で明らかになさるでしょう。またイエスは、最後の審
判について話しながら、私たちがこの地上でする決心が、いかに重要で真剣
なものかを示しておられます。実際、それは私たちの永遠の命に関わること
なのです。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

このイエスの忠告を、どのように生かし、実行に移すことができるでしょうか。
「わたしの仲間であると言い表す者は…」とイエスご自身がおっしゃっている
のですから、単純に、人々の前で自分がイエスの仲間であると言い表しま
しょう。

世間体にこだわるのをやめ、また、キリスト者としての本物の生き方を私たち
から奪う、どっちつかずの妥協した生き方から、抜け出しましょう。

私たちは、キリストを証しするように召されていることを思い出しましょう。
キリストは、ご自分の平和、正義、愛のメッセージが、私たちを通してす
べての人に及ぶよう望んでおられます。ですから、家庭や職場、友人関
係や学校で、また生活の様々な状況の中で、キリストを証ししましょう。

そしてこの証しを、まず行動を通して示しましょう。つまり、実直な生活、
誠実な態度、また金銭に執着をもたず、他人の喜びや苦しみを分かち
合うことによって、などです。

何よりも、私たちの相互愛と一致によって、それを証ししましょう。イエス
と結ばれている人々に約束された、真の平和と喜びが、この地上にいる
うちから私たちの魂を満たし、ほかの人々の上にも注がれるためです。

そして「この苦しみの多い世の中で、どうしてあなたはそのような態度が取れ
るのですか」、「なぜそんなに穏やかなのですか」と、だれかが尋ねるなら、
謙虚に、聖霊が導くままに、率直に話しましょう。こうして私たちは、言葉に
よっても、また考え方においても、キリストを証しすることになります。

それにより、キリストを探し求めている多くの人々が、
彼を見いだすことができるでしょう。

時には、誤解されたり、反論や嘲りの的となったり、敵意をもたれたり、
迫害されたりするかもしれません。イエスは、このことも予告しておられ
ます。「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだ
ろう」と。

それならいっそう私たちは正しい道を歩んでいるのです。ですから、試練の中
にあっても、命を求められても、勇気をもってキリストを証しし続けましょう。

私たちの目的地である
天国は、それに値する
ものです。そこでは、私
たちの愛するイエスが、
御父の前で、永遠に私
たちを認めてくださるで
しょう。

人々の前で自分をわたしの仲
間であると言い表す者は、わ
たしも天の父の前で、その人
をわたしの仲間であると言い
表す。しかし、人々の前でわた
しを知らないと言う者は、 わ
たしも天の父の前で、その人
を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

フォコラーレの創立者キアラ・ルービックが、
2008年3月14日に帰天した後、彼女が過去に残した解説を「いのちの言葉」として取り上げます。
今月の言葉は、1984年7月に発表されたものです。
いのちの言葉は聖書の言葉を黙想し、生活の中で実践するための助けとして、書かれたものです。
Anna Lollo のグラフィックスPlacido d’Omina神父の共同制作 (シシリア –イタリア)
連絡先フォコラーレ:03-3707-4018 [email protected]
03-5370-6424 [email protected]
http://focolare.world.coocan.jp/


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いのちの言葉

2012年8月

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

この言葉は、私たちすべてのキリスト者に、
大きな慰めと励ましを与えてくれます。

イエスは私たちに一貫し
た信仰をもって生きるよ
う勧めておられます。私
たちの永遠の行き先は、
この地上で私たちがイエ
スにどのような態度を取
るかにかかっているから
です。

もし私たちが人々の前で、自分はイエスの仲間であると言い表すなら、彼も
また父の前で、私たちを認めてくださり、逆に、私たちが人々の前で彼を知ら
ないと言うなら、彼もまた父の前で私たちを知らないと言う、とおっしゃってい
ます。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

イエスは私たちを愛しておられるので、地上の生活の後で待っている報いと罰
に、私たちの注意を向けさせようとされます。ある教父の言葉にもあるように、
罰への恐れは、時に、すばらしい約束よりも効果があることを、イエスは知っ
ておられるのです。

ですからイエスは、私たちの心に限りない幸せへの望みを育まれると同時に、
私たちを救うために、罰への恐れを抱かせるのです。

イエスは、私たちが永遠に、神と共に生きられるようになることに、心をかけ
ておられます。そして、これこそが、唯一大切なことなのです。この究極の目
的のために、私たちは地上で生きるよう招かれました。事実、神と共に生き
て こ そ 、 私 た ち は 完 全 な 自 己 実 現 に 至 り 、
すべての望みを満たすことができます。

そのためイエスは、この地上にいる内から、自分を彼の仲間だと言い表しな
さい、と勧めておられます。反対に、もしこの世で私たちがイエスとの関わり
を持とうとせず、今この時、彼を知らないと言うのであれば、私たちがこの世
を去る時、永遠に彼から断ち切られてしまうでしょう。

私たちが人生を終える時、イエスは、各々が地上で何を選んだか、その結果
どうなったかを、御父の前で明らかになさるでしょう。またイエスは、最後の審
判について話しながら、私たちがこの地上でする決心が、いかに重要で真剣
なものかを示しておられます。実際、それは私たちの永遠の命に関わること
なのです。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

このイエスの忠告を、どのように生かし、実行に移すことができるでしょうか。
「わたしの仲間であると言い表す者は…」とイエスご自身がおっしゃっている
のですから、単純に、人々の前で自分がイエスの仲間であると言い表しま
しょう。

世間体にこだわるのをやめ、また、キリスト者としての本物の生き方を私たち
から奪う、どっちつかずの妥協した生き方から、抜け出しましょう。

私たちは、キリストを証しするように召されていることを思い出しましょう。
キリストは、ご自分の平和、正義、愛のメッセージが、私たちを通してす
べての人に及ぶよう望んでおられます。ですから、家庭や職場、友人関
係や学校で、また生活の様々な状況の中で、キリストを証ししましょう。

そしてこの証しを、まず行動を通して示しましょう。つまり、実直な生活、
誠実な態度、また金銭に執着をもたず、他人の喜びや苦しみを分かち
合うことによって、などです。

何よりも、私たちの相互愛と一致によって、それを証ししましょう。イエス
と結ばれている人々に約束された、真の平和と喜びが、この地上にいる
うちから私たちの魂を満たし、ほかの人々の上にも注がれるためです。

そして「この苦しみの多い世の中で、どうしてあなたはそのような態度が取れ
るのですか」、「なぜそんなに穏やかなのですか」と、だれかが尋ねるなら、
謙虚に、聖霊が導くままに、率直に話しましょう。こうして私たちは、言葉に
よっても、また考え方においても、キリストを証しすることになります。

それにより、キリストを探し求めている多くの人々が、
彼を見いだすことができるでしょう。

時には、誤解されたり、反論や嘲りの的となったり、敵意をもたれたり、
迫害されたりするかもしれません。イエスは、このことも予告しておられ
ます。「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだ
ろう」と。

それならいっそう私たちは正しい道を歩んでいるのです。ですから、試練の中
にあっても、命を求められても、勇気をもってキリストを証しし続けましょう。

私たちの目的地である
天国は、それに値する
ものです。そこでは、私
たちの愛するイエスが、
御父の前で、永遠に私
たちを認めてくださるで
しょう。

人々の前で自分をわたしの仲
間であると言い表す者は、わ
たしも天の父の前で、その人
をわたしの仲間であると言い
表す。しかし、人々の前でわた
しを知らないと言う者は、 わ
たしも天の父の前で、その人
を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

フォコラーレの創立者キアラ・ルービックが、
2008年3月14日に帰天した後、彼女が過去に残した解説を「いのちの言葉」として取り上げます。
今月の言葉は、1984年7月に発表されたものです。
いのちの言葉は聖書の言葉を黙想し、生活の中で実践するための助けとして、書かれたものです。
Anna Lollo のグラフィックスPlacido d’Omina神父の共同制作 (シシリア –イタリア)
連絡先フォコラーレ:03-3707-4018 [email protected]
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いのちの言葉

2012年8月

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

この言葉は、私たちすべてのキリスト者に、
大きな慰めと励ましを与えてくれます。

イエスは私たちに一貫し
た信仰をもって生きるよ
う勧めておられます。私
たちの永遠の行き先は、
この地上で私たちがイエ
スにどのような態度を取
るかにかかっているから
です。

もし私たちが人々の前で、自分はイエスの仲間であると言い表すなら、彼も
また父の前で、私たちを認めてくださり、逆に、私たちが人々の前で彼を知ら
ないと言うなら、彼もまた父の前で私たちを知らないと言う、とおっしゃってい
ます。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

イエスは私たちを愛しておられるので、地上の生活の後で待っている報いと罰
に、私たちの注意を向けさせようとされます。ある教父の言葉にもあるように、
罰への恐れは、時に、すばらしい約束よりも効果があることを、イエスは知っ
ておられるのです。

ですからイエスは、私たちの心に限りない幸せへの望みを育まれると同時に、
私たちを救うために、罰への恐れを抱かせるのです。

イエスは、私たちが永遠に、神と共に生きられるようになることに、心をかけ
ておられます。そして、これこそが、唯一大切なことなのです。この究極の目
的のために、私たちは地上で生きるよう招かれました。事実、神と共に生き
て こ そ 、 私 た ち は 完 全 な 自 己 実 現 に 至 り 、
すべての望みを満たすことができます。

そのためイエスは、この地上にいる内から、自分を彼の仲間だと言い表しな
さい、と勧めておられます。反対に、もしこの世で私たちがイエスとの関わり
を持とうとせず、今この時、彼を知らないと言うのであれば、私たちがこの世
を去る時、永遠に彼から断ち切られてしまうでしょう。

私たちが人生を終える時、イエスは、各々が地上で何を選んだか、その結果
どうなったかを、御父の前で明らかになさるでしょう。またイエスは、最後の審
判について話しながら、私たちがこの地上でする決心が、いかに重要で真剣
なものかを示しておられます。実際、それは私たちの永遠の命に関わること
なのです。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

このイエスの忠告を、どのように生かし、実行に移すことができるでしょうか。
「わたしの仲間であると言い表す者は…」とイエスご自身がおっしゃっている
のですから、単純に、人々の前で自分がイエスの仲間であると言い表しま
しょう。

世間体にこだわるのをやめ、また、キリスト者としての本物の生き方を私たち
から奪う、どっちつかずの妥協した生き方から、抜け出しましょう。

私たちは、キリストを証しするように召されていることを思い出しましょう。
キリストは、ご自分の平和、正義、愛のメッセージが、私たちを通してす
べての人に及ぶよう望んでおられます。ですから、家庭や職場、友人関
係や学校で、また生活の様々な状況の中で、キリストを証ししましょう。

そしてこの証しを、まず行動を通して示しましょう。つまり、実直な生活、
誠実な態度、また金銭に執着をもたず、他人の喜びや苦しみを分かち
合うことによって、などです。

何よりも、私たちの相互愛と一致によって、それを証ししましょう。イエス
と結ばれている人々に約束された、真の平和と喜びが、この地上にいる
うちから私たちの魂を満たし、ほかの人々の上にも注がれるためです。

そして「この苦しみの多い世の中で、どうしてあなたはそのような態度が取れ
るのですか」、「なぜそんなに穏やかなのですか」と、だれかが尋ねるなら、
謙虚に、聖霊が導くままに、率直に話しましょう。こうして私たちは、言葉に
よっても、また考え方においても、キリストを証しすることになります。

それにより、キリストを探し求めている多くの人々が、
彼を見いだすことができるでしょう。

時には、誤解されたり、反論や嘲りの的となったり、敵意をもたれたり、
迫害されたりするかもしれません。イエスは、このことも予告しておられ
ます。「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだ
ろう」と。

それならいっそう私たちは正しい道を歩んでいるのです。ですから、試練の中
にあっても、命を求められても、勇気をもってキリストを証しし続けましょう。

私たちの目的地である
天国は、それに値する
ものです。そこでは、私
たちの愛するイエスが、
御父の前で、永遠に私
たちを認めてくださるで
しょう。

人々の前で自分をわたしの仲
間であると言い表す者は、わ
たしも天の父の前で、その人
をわたしの仲間であると言い
表す。しかし、人々の前でわた
しを知らないと言う者は、 わ
たしも天の父の前で、その人
を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

フォコラーレの創立者キアラ・ルービックが、
2008年3月14日に帰天した後、彼女が過去に残した解説を「いのちの言葉」として取り上げます。
今月の言葉は、1984年7月に発表されたものです。
いのちの言葉は聖書の言葉を黙想し、生活の中で実践するための助けとして、書かれたものです。
Anna Lollo のグラフィックスPlacido d’Omina神父の共同制作 (シシリア –イタリア)
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いのちの言葉

2012年8月

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

この言葉は、私たちすべてのキリスト者に、
大きな慰めと励ましを与えてくれます。

イエスは私たちに一貫し
た信仰をもって生きるよ
う勧めておられます。私
たちの永遠の行き先は、
この地上で私たちがイエ
スにどのような態度を取
るかにかかっているから
です。

もし私たちが人々の前で、自分はイエスの仲間であると言い表すなら、彼も
また父の前で、私たちを認めてくださり、逆に、私たちが人々の前で彼を知ら
ないと言うなら、彼もまた父の前で私たちを知らないと言う、とおっしゃってい
ます。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

イエスは私たちを愛しておられるので、地上の生活の後で待っている報いと罰
に、私たちの注意を向けさせようとされます。ある教父の言葉にもあるように、
罰への恐れは、時に、すばらしい約束よりも効果があることを、イエスは知っ
ておられるのです。

ですからイエスは、私たちの心に限りない幸せへの望みを育まれると同時に、
私たちを救うために、罰への恐れを抱かせるのです。

イエスは、私たちが永遠に、神と共に生きられるようになることに、心をかけ
ておられます。そして、これこそが、唯一大切なことなのです。この究極の目
的のために、私たちは地上で生きるよう招かれました。事実、神と共に生き
て こ そ 、 私 た ち は 完 全 な 自 己 実 現 に 至 り 、
すべての望みを満たすことができます。

そのためイエスは、この地上にいる内から、自分を彼の仲間だと言い表しな
さい、と勧めておられます。反対に、もしこの世で私たちがイエスとの関わり
を持とうとせず、今この時、彼を知らないと言うのであれば、私たちがこの世
を去る時、永遠に彼から断ち切られてしまうでしょう。

私たちが人生を終える時、イエスは、各々が地上で何を選んだか、その結果
どうなったかを、御父の前で明らかになさるでしょう。またイエスは、最後の審
判について話しながら、私たちがこの地上でする決心が、いかに重要で真剣
なものかを示しておられます。実際、それは私たちの永遠の命に関わること
なのです。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

このイエスの忠告を、どのように生かし、実行に移すことができるでしょうか。
「わたしの仲間であると言い表す者は…」とイエスご自身がおっしゃっている
のですから、単純に、人々の前で自分がイエスの仲間であると言い表しま
しょう。

世間体にこだわるのをやめ、また、キリスト者としての本物の生き方を私たち
から奪う、どっちつかずの妥協した生き方から、抜け出しましょう。

私たちは、キリストを証しするように召されていることを思い出しましょう。
キリストは、ご自分の平和、正義、愛のメッセージが、私たちを通してす
べての人に及ぶよう望んでおられます。ですから、家庭や職場、友人関
係や学校で、また生活の様々な状況の中で、キリストを証ししましょう。

そしてこの証しを、まず行動を通して示しましょう。つまり、実直な生活、
誠実な態度、また金銭に執着をもたず、他人の喜びや苦しみを分かち
合うことによって、などです。

何よりも、私たちの相互愛と一致によって、それを証ししましょう。イエス
と結ばれている人々に約束された、真の平和と喜びが、この地上にいる
うちから私たちの魂を満たし、ほかの人々の上にも注がれるためです。

そして「この苦しみの多い世の中で、どうしてあなたはそのような態度が取れ
るのですか」、「なぜそんなに穏やかなのですか」と、だれかが尋ねるなら、
謙虚に、聖霊が導くままに、率直に話しましょう。こうして私たちは、言葉に
よっても、また考え方においても、キリストを証しすることになります。

それにより、キリストを探し求めている多くの人々が、
彼を見いだすことができるでしょう。

時には、誤解されたり、反論や嘲りの的となったり、敵意をもたれたり、
迫害されたりするかもしれません。イエスは、このことも予告しておられ
ます。「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだ
ろう」と。

それならいっそう私たちは正しい道を歩んでいるのです。ですから、試練の中
にあっても、命を求められても、勇気をもってキリストを証しし続けましょう。

私たちの目的地である
天国は、それに値する
ものです。そこでは、私
たちの愛するイエスが、
御父の前で、永遠に私
たちを認めてくださるで
しょう。

人々の前で自分をわたしの仲
間であると言い表す者は、わ
たしも天の父の前で、その人
をわたしの仲間であると言い
表す。しかし、人々の前でわた
しを知らないと言う者は、 わ
たしも天の父の前で、その人
を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

フォコラーレの創立者キアラ・ルービックが、
2008年3月14日に帰天した後、彼女が過去に残した解説を「いのちの言葉」として取り上げます。
今月の言葉は、1984年7月に発表されたものです。
いのちの言葉は聖書の言葉を黙想し、生活の中で実践するための助けとして、書かれたものです。
Anna Lollo のグラフィックスPlacido d’Omina神父の共同制作 (シシリア –イタリア)
連絡先フォコラーレ:03-3707-4018 [email protected]
03-5370-6424 [email protected]
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いのちの言葉

2012年8月

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

この言葉は、私たちすべてのキリスト者に、
大きな慰めと励ましを与えてくれます。

イエスは私たちに一貫し
た信仰をもって生きるよ
う勧めておられます。私
たちの永遠の行き先は、
この地上で私たちがイエ
スにどのような態度を取
るかにかかっているから
です。

もし私たちが人々の前で、自分はイエスの仲間であると言い表すなら、彼も
また父の前で、私たちを認めてくださり、逆に、私たちが人々の前で彼を知ら
ないと言うなら、彼もまた父の前で私たちを知らないと言う、とおっしゃってい
ます。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

イエスは私たちを愛しておられるので、地上の生活の後で待っている報いと罰
に、私たちの注意を向けさせようとされます。ある教父の言葉にもあるように、
罰への恐れは、時に、すばらしい約束よりも効果があることを、イエスは知っ
ておられるのです。

ですからイエスは、私たちの心に限りない幸せへの望みを育まれると同時に、
私たちを救うために、罰への恐れを抱かせるのです。

イエスは、私たちが永遠に、神と共に生きられるようになることに、心をかけ
ておられます。そして、これこそが、唯一大切なことなのです。この究極の目
的のために、私たちは地上で生きるよう招かれました。事実、神と共に生き
て こ そ 、 私 た ち は 完 全 な 自 己 実 現 に 至 り 、
すべての望みを満たすことができます。

そのためイエスは、この地上にいる内から、自分を彼の仲間だと言い表しな
さい、と勧めておられます。反対に、もしこの世で私たちがイエスとの関わり
を持とうとせず、今この時、彼を知らないと言うのであれば、私たちがこの世
を去る時、永遠に彼から断ち切られてしまうでしょう。

私たちが人生を終える時、イエスは、各々が地上で何を選んだか、その結果
どうなったかを、御父の前で明らかになさるでしょう。またイエスは、最後の審
判について話しながら、私たちがこの地上でする決心が、いかに重要で真剣
なものかを示しておられます。実際、それは私たちの永遠の命に関わること
なのです。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

このイエスの忠告を、どのように生かし、実行に移すことができるでしょうか。
「わたしの仲間であると言い表す者は…」とイエスご自身がおっしゃっている
のですから、単純に、人々の前で自分がイエスの仲間であると言い表しま
しょう。

世間体にこだわるのをやめ、また、キリスト者としての本物の生き方を私たち
から奪う、どっちつかずの妥協した生き方から、抜け出しましょう。

私たちは、キリストを証しするように召されていることを思い出しましょう。
キリストは、ご自分の平和、正義、愛のメッセージが、私たちを通してす
べての人に及ぶよう望んでおられます。ですから、家庭や職場、友人関
係や学校で、また生活の様々な状況の中で、キリストを証ししましょう。

そしてこの証しを、まず行動を通して示しましょう。つまり、実直な生活、
誠実な態度、また金銭に執着をもたず、他人の喜びや苦しみを分かち
合うことによって、などです。

何よりも、私たちの相互愛と一致によって、それを証ししましょう。イエス
と結ばれている人々に約束された、真の平和と喜びが、この地上にいる
うちから私たちの魂を満たし、ほかの人々の上にも注がれるためです。

そして「この苦しみの多い世の中で、どうしてあなたはそのような態度が取れ
るのですか」、「なぜそんなに穏やかなのですか」と、だれかが尋ねるなら、
謙虚に、聖霊が導くままに、率直に話しましょう。こうして私たちは、言葉に
よっても、また考え方においても、キリストを証しすることになります。

それにより、キリストを探し求めている多くの人々が、
彼を見いだすことができるでしょう。

時には、誤解されたり、反論や嘲りの的となったり、敵意をもたれたり、
迫害されたりするかもしれません。イエスは、このことも予告しておられ
ます。「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだ
ろう」と。

それならいっそう私たちは正しい道を歩んでいるのです。ですから、試練の中
にあっても、命を求められても、勇気をもってキリストを証しし続けましょう。

私たちの目的地である
天国は、それに値する
ものです。そこでは、私
たちの愛するイエスが、
御父の前で、永遠に私
たちを認めてくださるで
しょう。

人々の前で自分をわたしの仲
間であると言い表す者は、わ
たしも天の父の前で、その人
をわたしの仲間であると言い
表す。しかし、人々の前でわた
しを知らないと言う者は、 わ
たしも天の父の前で、その人
を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

フォコラーレの創立者キアラ・ルービックが、
2008年3月14日に帰天した後、彼女が過去に残した解説を「いのちの言葉」として取り上げます。
今月の言葉は、1984年7月に発表されたものです。
いのちの言葉は聖書の言葉を黙想し、生活の中で実践するための助けとして、書かれたものです。
Anna Lollo のグラフィックスPlacido d’Omina神父の共同制作 (シシリア –イタリア)
連絡先フォコラーレ:03-3707-4018 [email protected]
03-5370-6424 [email protected]
http://focolare.world.coocan.jp/


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いのちの言葉

2012年8月

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

この言葉は、私たちすべてのキリスト者に、
大きな慰めと励ましを与えてくれます。

イエスは私たちに一貫し
た信仰をもって生きるよ
う勧めておられます。私
たちの永遠の行き先は、
この地上で私たちがイエ
スにどのような態度を取
るかにかかっているから
です。

もし私たちが人々の前で、自分はイエスの仲間であると言い表すなら、彼も
また父の前で、私たちを認めてくださり、逆に、私たちが人々の前で彼を知ら
ないと言うなら、彼もまた父の前で私たちを知らないと言う、とおっしゃってい
ます。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

イエスは私たちを愛しておられるので、地上の生活の後で待っている報いと罰
に、私たちの注意を向けさせようとされます。ある教父の言葉にもあるように、
罰への恐れは、時に、すばらしい約束よりも効果があることを、イエスは知っ
ておられるのです。

ですからイエスは、私たちの心に限りない幸せへの望みを育まれると同時に、
私たちを救うために、罰への恐れを抱かせるのです。

イエスは、私たちが永遠に、神と共に生きられるようになることに、心をかけ
ておられます。そして、これこそが、唯一大切なことなのです。この究極の目
的のために、私たちは地上で生きるよう招かれました。事実、神と共に生き
て こ そ 、 私 た ち は 完 全 な 自 己 実 現 に 至 り 、
すべての望みを満たすことができます。

そのためイエスは、この地上にいる内から、自分を彼の仲間だと言い表しな
さい、と勧めておられます。反対に、もしこの世で私たちがイエスとの関わり
を持とうとせず、今この時、彼を知らないと言うのであれば、私たちがこの世
を去る時、永遠に彼から断ち切られてしまうでしょう。

私たちが人生を終える時、イエスは、各々が地上で何を選んだか、その結果
どうなったかを、御父の前で明らかになさるでしょう。またイエスは、最後の審
判について話しながら、私たちがこの地上でする決心が、いかに重要で真剣
なものかを示しておられます。実際、それは私たちの永遠の命に関わること
なのです。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

このイエスの忠告を、どのように生かし、実行に移すことができるでしょうか。
「わたしの仲間であると言い表す者は…」とイエスご自身がおっしゃっている
のですから、単純に、人々の前で自分がイエスの仲間であると言い表しま
しょう。

世間体にこだわるのをやめ、また、キリスト者としての本物の生き方を私たち
から奪う、どっちつかずの妥協した生き方から、抜け出しましょう。

私たちは、キリストを証しするように召されていることを思い出しましょう。
キリストは、ご自分の平和、正義、愛のメッセージが、私たちを通してす
べての人に及ぶよう望んでおられます。ですから、家庭や職場、友人関
係や学校で、また生活の様々な状況の中で、キリストを証ししましょう。

そしてこの証しを、まず行動を通して示しましょう。つまり、実直な生活、
誠実な態度、また金銭に執着をもたず、他人の喜びや苦しみを分かち
合うことによって、などです。

何よりも、私たちの相互愛と一致によって、それを証ししましょう。イエス
と結ばれている人々に約束された、真の平和と喜びが、この地上にいる
うちから私たちの魂を満たし、ほかの人々の上にも注がれるためです。

そして「この苦しみの多い世の中で、どうしてあなたはそのような態度が取れ
るのですか」、「なぜそんなに穏やかなのですか」と、だれかが尋ねるなら、
謙虚に、聖霊が導くままに、率直に話しましょう。こうして私たちは、言葉に
よっても、また考え方においても、キリストを証しすることになります。

それにより、キリストを探し求めている多くの人々が、
彼を見いだすことができるでしょう。

時には、誤解されたり、反論や嘲りの的となったり、敵意をもたれたり、
迫害されたりするかもしれません。イエスは、このことも予告しておられ
ます。「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだ
ろう」と。

それならいっそう私たちは正しい道を歩んでいるのです。ですから、試練の中
にあっても、命を求められても、勇気をもってキリストを証しし続けましょう。

私たちの目的地である
天国は、それに値する
ものです。そこでは、私
たちの愛するイエスが、
御父の前で、永遠に私
たちを認めてくださるで
しょう。

人々の前で自分をわたしの仲
間であると言い表す者は、わ
たしも天の父の前で、その人
をわたしの仲間であると言い
表す。しかし、人々の前でわた
しを知らないと言う者は、 わ
たしも天の父の前で、その人
を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

フォコラーレの創立者キアラ・ルービックが、
2008年3月14日に帰天した後、彼女が過去に残した解説を「いのちの言葉」として取り上げます。
今月の言葉は、1984年7月に発表されたものです。
いのちの言葉は聖書の言葉を黙想し、生活の中で実践するための助けとして、書かれたものです。
Anna Lollo のグラフィックスPlacido d’Omina神父の共同制作 (シシリア –イタリア)
連絡先フォコラーレ:03-3707-4018 [email protected]
03-5370-6424 [email protected]
http://focolare.world.coocan.jp/


Slide 11

いのちの言葉

2012年8月

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

この言葉は、私たちすべてのキリスト者に、
大きな慰めと励ましを与えてくれます。

イエスは私たちに一貫し
た信仰をもって生きるよ
う勧めておられます。私
たちの永遠の行き先は、
この地上で私たちがイエ
スにどのような態度を取
るかにかかっているから
です。

もし私たちが人々の前で、自分はイエスの仲間であると言い表すなら、彼も
また父の前で、私たちを認めてくださり、逆に、私たちが人々の前で彼を知ら
ないと言うなら、彼もまた父の前で私たちを知らないと言う、とおっしゃってい
ます。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

イエスは私たちを愛しておられるので、地上の生活の後で待っている報いと罰
に、私たちの注意を向けさせようとされます。ある教父の言葉にもあるように、
罰への恐れは、時に、すばらしい約束よりも効果があることを、イエスは知っ
ておられるのです。

ですからイエスは、私たちの心に限りない幸せへの望みを育まれると同時に、
私たちを救うために、罰への恐れを抱かせるのです。

イエスは、私たちが永遠に、神と共に生きられるようになることに、心をかけ
ておられます。そして、これこそが、唯一大切なことなのです。この究極の目
的のために、私たちは地上で生きるよう招かれました。事実、神と共に生き
て こ そ 、 私 た ち は 完 全 な 自 己 実 現 に 至 り 、
すべての望みを満たすことができます。

そのためイエスは、この地上にいる内から、自分を彼の仲間だと言い表しな
さい、と勧めておられます。反対に、もしこの世で私たちがイエスとの関わり
を持とうとせず、今この時、彼を知らないと言うのであれば、私たちがこの世
を去る時、永遠に彼から断ち切られてしまうでしょう。

私たちが人生を終える時、イエスは、各々が地上で何を選んだか、その結果
どうなったかを、御父の前で明らかになさるでしょう。またイエスは、最後の審
判について話しながら、私たちがこの地上でする決心が、いかに重要で真剣
なものかを示しておられます。実際、それは私たちの永遠の命に関わること
なのです。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

このイエスの忠告を、どのように生かし、実行に移すことができるでしょうか。
「わたしの仲間であると言い表す者は…」とイエスご自身がおっしゃっている
のですから、単純に、人々の前で自分がイエスの仲間であると言い表しま
しょう。

世間体にこだわるのをやめ、また、キリスト者としての本物の生き方を私たち
から奪う、どっちつかずの妥協した生き方から、抜け出しましょう。

私たちは、キリストを証しするように召されていることを思い出しましょう。
キリストは、ご自分の平和、正義、愛のメッセージが、私たちを通してす
べての人に及ぶよう望んでおられます。ですから、家庭や職場、友人関
係や学校で、また生活の様々な状況の中で、キリストを証ししましょう。

そしてこの証しを、まず行動を通して示しましょう。つまり、実直な生活、
誠実な態度、また金銭に執着をもたず、他人の喜びや苦しみを分かち
合うことによって、などです。

何よりも、私たちの相互愛と一致によって、それを証ししましょう。イエス
と結ばれている人々に約束された、真の平和と喜びが、この地上にいる
うちから私たちの魂を満たし、ほかの人々の上にも注がれるためです。

そして「この苦しみの多い世の中で、どうしてあなたはそのような態度が取れ
るのですか」、「なぜそんなに穏やかなのですか」と、だれかが尋ねるなら、
謙虚に、聖霊が導くままに、率直に話しましょう。こうして私たちは、言葉に
よっても、また考え方においても、キリストを証しすることになります。

それにより、キリストを探し求めている多くの人々が、
彼を見いだすことができるでしょう。

時には、誤解されたり、反論や嘲りの的となったり、敵意をもたれたり、
迫害されたりするかもしれません。イエスは、このことも予告しておられ
ます。「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだ
ろう」と。

それならいっそう私たちは正しい道を歩んでいるのです。ですから、試練の中
にあっても、命を求められても、勇気をもってキリストを証しし続けましょう。

私たちの目的地である
天国は、それに値する
ものです。そこでは、私
たちの愛するイエスが、
御父の前で、永遠に私
たちを認めてくださるで
しょう。

人々の前で自分をわたしの仲
間であると言い表す者は、わ
たしも天の父の前で、その人
をわたしの仲間であると言い
表す。しかし、人々の前でわた
しを知らないと言う者は、 わ
たしも天の父の前で、その人
を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

フォコラーレの創立者キアラ・ルービックが、
2008年3月14日に帰天した後、彼女が過去に残した解説を「いのちの言葉」として取り上げます。
今月の言葉は、1984年7月に発表されたものです。
いのちの言葉は聖書の言葉を黙想し、生活の中で実践するための助けとして、書かれたものです。
Anna Lollo のグラフィックスPlacido d’Omina神父の共同制作 (シシリア –イタリア)
連絡先フォコラーレ:03-3707-4018 [email protected]
03-5370-6424 [email protected]
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いのちの言葉

2012年8月

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

この言葉は、私たちすべてのキリスト者に、
大きな慰めと励ましを与えてくれます。

イエスは私たちに一貫し
た信仰をもって生きるよ
う勧めておられます。私
たちの永遠の行き先は、
この地上で私たちがイエ
スにどのような態度を取
るかにかかっているから
です。

もし私たちが人々の前で、自分はイエスの仲間であると言い表すなら、彼も
また父の前で、私たちを認めてくださり、逆に、私たちが人々の前で彼を知ら
ないと言うなら、彼もまた父の前で私たちを知らないと言う、とおっしゃってい
ます。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

イエスは私たちを愛しておられるので、地上の生活の後で待っている報いと罰
に、私たちの注意を向けさせようとされます。ある教父の言葉にもあるように、
罰への恐れは、時に、すばらしい約束よりも効果があることを、イエスは知っ
ておられるのです。

ですからイエスは、私たちの心に限りない幸せへの望みを育まれると同時に、
私たちを救うために、罰への恐れを抱かせるのです。

イエスは、私たちが永遠に、神と共に生きられるようになることに、心をかけ
ておられます。そして、これこそが、唯一大切なことなのです。この究極の目
的のために、私たちは地上で生きるよう招かれました。事実、神と共に生き
て こ そ 、 私 た ち は 完 全 な 自 己 実 現 に 至 り 、
すべての望みを満たすことができます。

そのためイエスは、この地上にいる内から、自分を彼の仲間だと言い表しな
さい、と勧めておられます。反対に、もしこの世で私たちがイエスとの関わり
を持とうとせず、今この時、彼を知らないと言うのであれば、私たちがこの世
を去る時、永遠に彼から断ち切られてしまうでしょう。

私たちが人生を終える時、イエスは、各々が地上で何を選んだか、その結果
どうなったかを、御父の前で明らかになさるでしょう。またイエスは、最後の審
判について話しながら、私たちがこの地上でする決心が、いかに重要で真剣
なものかを示しておられます。実際、それは私たちの永遠の命に関わること
なのです。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

このイエスの忠告を、どのように生かし、実行に移すことができるでしょうか。
「わたしの仲間であると言い表す者は…」とイエスご自身がおっしゃっている
のですから、単純に、人々の前で自分がイエスの仲間であると言い表しま
しょう。

世間体にこだわるのをやめ、また、キリスト者としての本物の生き方を私たち
から奪う、どっちつかずの妥協した生き方から、抜け出しましょう。

私たちは、キリストを証しするように召されていることを思い出しましょう。
キリストは、ご自分の平和、正義、愛のメッセージが、私たちを通してす
べての人に及ぶよう望んでおられます。ですから、家庭や職場、友人関
係や学校で、また生活の様々な状況の中で、キリストを証ししましょう。

そしてこの証しを、まず行動を通して示しましょう。つまり、実直な生活、
誠実な態度、また金銭に執着をもたず、他人の喜びや苦しみを分かち
合うことによって、などです。

何よりも、私たちの相互愛と一致によって、それを証ししましょう。イエス
と結ばれている人々に約束された、真の平和と喜びが、この地上にいる
うちから私たちの魂を満たし、ほかの人々の上にも注がれるためです。

そして「この苦しみの多い世の中で、どうしてあなたはそのような態度が取れ
るのですか」、「なぜそんなに穏やかなのですか」と、だれかが尋ねるなら、
謙虚に、聖霊が導くままに、率直に話しましょう。こうして私たちは、言葉に
よっても、また考え方においても、キリストを証しすることになります。

それにより、キリストを探し求めている多くの人々が、
彼を見いだすことができるでしょう。

時には、誤解されたり、反論や嘲りの的となったり、敵意をもたれたり、
迫害されたりするかもしれません。イエスは、このことも予告しておられ
ます。「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだ
ろう」と。

それならいっそう私たちは正しい道を歩んでいるのです。ですから、試練の中
にあっても、命を求められても、勇気をもってキリストを証しし続けましょう。

私たちの目的地である
天国は、それに値する
ものです。そこでは、私
たちの愛するイエスが、
御父の前で、永遠に私
たちを認めてくださるで
しょう。

人々の前で自分をわたしの仲
間であると言い表す者は、わ
たしも天の父の前で、その人
をわたしの仲間であると言い
表す。しかし、人々の前でわた
しを知らないと言う者は、 わ
たしも天の父の前で、その人
を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

フォコラーレの創立者キアラ・ルービックが、
2008年3月14日に帰天した後、彼女が過去に残した解説を「いのちの言葉」として取り上げます。
今月の言葉は、1984年7月に発表されたものです。
いのちの言葉は聖書の言葉を黙想し、生活の中で実践するための助けとして、書かれたものです。
Anna Lollo のグラフィックスPlacido d’Omina神父の共同制作 (シシリア –イタリア)
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03-5370-6424 [email protected]
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いのちの言葉

2012年8月

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

この言葉は、私たちすべてのキリスト者に、
大きな慰めと励ましを与えてくれます。

イエスは私たちに一貫し
た信仰をもって生きるよ
う勧めておられます。私
たちの永遠の行き先は、
この地上で私たちがイエ
スにどのような態度を取
るかにかかっているから
です。

もし私たちが人々の前で、自分はイエスの仲間であると言い表すなら、彼も
また父の前で、私たちを認めてくださり、逆に、私たちが人々の前で彼を知ら
ないと言うなら、彼もまた父の前で私たちを知らないと言う、とおっしゃってい
ます。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

イエスは私たちを愛しておられるので、地上の生活の後で待っている報いと罰
に、私たちの注意を向けさせようとされます。ある教父の言葉にもあるように、
罰への恐れは、時に、すばらしい約束よりも効果があることを、イエスは知っ
ておられるのです。

ですからイエスは、私たちの心に限りない幸せへの望みを育まれると同時に、
私たちを救うために、罰への恐れを抱かせるのです。

イエスは、私たちが永遠に、神と共に生きられるようになることに、心をかけ
ておられます。そして、これこそが、唯一大切なことなのです。この究極の目
的のために、私たちは地上で生きるよう招かれました。事実、神と共に生き
て こ そ 、 私 た ち は 完 全 な 自 己 実 現 に 至 り 、
すべての望みを満たすことができます。

そのためイエスは、この地上にいる内から、自分を彼の仲間だと言い表しな
さい、と勧めておられます。反対に、もしこの世で私たちがイエスとの関わり
を持とうとせず、今この時、彼を知らないと言うのであれば、私たちがこの世
を去る時、永遠に彼から断ち切られてしまうでしょう。

私たちが人生を終える時、イエスは、各々が地上で何を選んだか、その結果
どうなったかを、御父の前で明らかになさるでしょう。またイエスは、最後の審
判について話しながら、私たちがこの地上でする決心が、いかに重要で真剣
なものかを示しておられます。実際、それは私たちの永遠の命に関わること
なのです。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

このイエスの忠告を、どのように生かし、実行に移すことができるでしょうか。
「わたしの仲間であると言い表す者は…」とイエスご自身がおっしゃっている
のですから、単純に、人々の前で自分がイエスの仲間であると言い表しま
しょう。

世間体にこだわるのをやめ、また、キリスト者としての本物の生き方を私たち
から奪う、どっちつかずの妥協した生き方から、抜け出しましょう。

私たちは、キリストを証しするように召されていることを思い出しましょう。
キリストは、ご自分の平和、正義、愛のメッセージが、私たちを通してす
べての人に及ぶよう望んでおられます。ですから、家庭や職場、友人関
係や学校で、また生活の様々な状況の中で、キリストを証ししましょう。

そしてこの証しを、まず行動を通して示しましょう。つまり、実直な生活、
誠実な態度、また金銭に執着をもたず、他人の喜びや苦しみを分かち
合うことによって、などです。

何よりも、私たちの相互愛と一致によって、それを証ししましょう。イエス
と結ばれている人々に約束された、真の平和と喜びが、この地上にいる
うちから私たちの魂を満たし、ほかの人々の上にも注がれるためです。

そして「この苦しみの多い世の中で、どうしてあなたはそのような態度が取れ
るのですか」、「なぜそんなに穏やかなのですか」と、だれかが尋ねるなら、
謙虚に、聖霊が導くままに、率直に話しましょう。こうして私たちは、言葉に
よっても、また考え方においても、キリストを証しすることになります。

それにより、キリストを探し求めている多くの人々が、
彼を見いだすことができるでしょう。

時には、誤解されたり、反論や嘲りの的となったり、敵意をもたれたり、
迫害されたりするかもしれません。イエスは、このことも予告しておられ
ます。「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだ
ろう」と。

それならいっそう私たちは正しい道を歩んでいるのです。ですから、試練の中
にあっても、命を求められても、勇気をもってキリストを証しし続けましょう。

私たちの目的地である
天国は、それに値する
ものです。そこでは、私
たちの愛するイエスが、
御父の前で、永遠に私
たちを認めてくださるで
しょう。

人々の前で自分をわたしの仲
間であると言い表す者は、わ
たしも天の父の前で、その人
をわたしの仲間であると言い
表す。しかし、人々の前でわた
しを知らないと言う者は、 わ
たしも天の父の前で、その人
を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

フォコラーレの創立者キアラ・ルービックが、
2008年3月14日に帰天した後、彼女が過去に残した解説を「いのちの言葉」として取り上げます。
今月の言葉は、1984年7月に発表されたものです。
いのちの言葉は聖書の言葉を黙想し、生活の中で実践するための助けとして、書かれたものです。
Anna Lollo のグラフィックスPlacido d’Omina神父の共同制作 (シシリア –イタリア)
連絡先フォコラーレ:03-3707-4018 [email protected]
03-5370-6424 [email protected]
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いのちの言葉

2012年8月

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

この言葉は、私たちすべてのキリスト者に、
大きな慰めと励ましを与えてくれます。

イエスは私たちに一貫し
た信仰をもって生きるよ
う勧めておられます。私
たちの永遠の行き先は、
この地上で私たちがイエ
スにどのような態度を取
るかにかかっているから
です。

もし私たちが人々の前で、自分はイエスの仲間であると言い表すなら、彼も
また父の前で、私たちを認めてくださり、逆に、私たちが人々の前で彼を知ら
ないと言うなら、彼もまた父の前で私たちを知らないと言う、とおっしゃってい
ます。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

イエスは私たちを愛しておられるので、地上の生活の後で待っている報いと罰
に、私たちの注意を向けさせようとされます。ある教父の言葉にもあるように、
罰への恐れは、時に、すばらしい約束よりも効果があることを、イエスは知っ
ておられるのです。

ですからイエスは、私たちの心に限りない幸せへの望みを育まれると同時に、
私たちを救うために、罰への恐れを抱かせるのです。

イエスは、私たちが永遠に、神と共に生きられるようになることに、心をかけ
ておられます。そして、これこそが、唯一大切なことなのです。この究極の目
的のために、私たちは地上で生きるよう招かれました。事実、神と共に生き
て こ そ 、 私 た ち は 完 全 な 自 己 実 現 に 至 り 、
すべての望みを満たすことができます。

そのためイエスは、この地上にいる内から、自分を彼の仲間だと言い表しな
さい、と勧めておられます。反対に、もしこの世で私たちがイエスとの関わり
を持とうとせず、今この時、彼を知らないと言うのであれば、私たちがこの世
を去る時、永遠に彼から断ち切られてしまうでしょう。

私たちが人生を終える時、イエスは、各々が地上で何を選んだか、その結果
どうなったかを、御父の前で明らかになさるでしょう。またイエスは、最後の審
判について話しながら、私たちがこの地上でする決心が、いかに重要で真剣
なものかを示しておられます。実際、それは私たちの永遠の命に関わること
なのです。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

このイエスの忠告を、どのように生かし、実行に移すことができるでしょうか。
「わたしの仲間であると言い表す者は…」とイエスご自身がおっしゃっている
のですから、単純に、人々の前で自分がイエスの仲間であると言い表しま
しょう。

世間体にこだわるのをやめ、また、キリスト者としての本物の生き方を私たち
から奪う、どっちつかずの妥協した生き方から、抜け出しましょう。

私たちは、キリストを証しするように召されていることを思い出しましょう。
キリストは、ご自分の平和、正義、愛のメッセージが、私たちを通してす
べての人に及ぶよう望んでおられます。ですから、家庭や職場、友人関
係や学校で、また生活の様々な状況の中で、キリストを証ししましょう。

そしてこの証しを、まず行動を通して示しましょう。つまり、実直な生活、
誠実な態度、また金銭に執着をもたず、他人の喜びや苦しみを分かち
合うことによって、などです。

何よりも、私たちの相互愛と一致によって、それを証ししましょう。イエス
と結ばれている人々に約束された、真の平和と喜びが、この地上にいる
うちから私たちの魂を満たし、ほかの人々の上にも注がれるためです。

そして「この苦しみの多い世の中で、どうしてあなたはそのような態度が取れ
るのですか」、「なぜそんなに穏やかなのですか」と、だれかが尋ねるなら、
謙虚に、聖霊が導くままに、率直に話しましょう。こうして私たちは、言葉に
よっても、また考え方においても、キリストを証しすることになります。

それにより、キリストを探し求めている多くの人々が、
彼を見いだすことができるでしょう。

時には、誤解されたり、反論や嘲りの的となったり、敵意をもたれたり、
迫害されたりするかもしれません。イエスは、このことも予告しておられ
ます。「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだ
ろう」と。

それならいっそう私たちは正しい道を歩んでいるのです。ですから、試練の中
にあっても、命を求められても、勇気をもってキリストを証しし続けましょう。

私たちの目的地である
天国は、それに値する
ものです。そこでは、私
たちの愛するイエスが、
御父の前で、永遠に私
たちを認めてくださるで
しょう。

人々の前で自分をわたしの仲
間であると言い表す者は、わ
たしも天の父の前で、その人
をわたしの仲間であると言い
表す。しかし、人々の前でわた
しを知らないと言う者は、 わ
たしも天の父の前で、その人
を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

フォコラーレの創立者キアラ・ルービックが、
2008年3月14日に帰天した後、彼女が過去に残した解説を「いのちの言葉」として取り上げます。
今月の言葉は、1984年7月に発表されたものです。
いのちの言葉は聖書の言葉を黙想し、生活の中で実践するための助けとして、書かれたものです。
Anna Lollo のグラフィックスPlacido d’Omina神父の共同制作 (シシリア –イタリア)
連絡先フォコラーレ:03-3707-4018 [email protected]
03-5370-6424 [email protected]
http://focolare.world.coocan.jp/


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いのちの言葉

2012年8月

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

この言葉は、私たちすべてのキリスト者に、
大きな慰めと励ましを与えてくれます。

イエスは私たちに一貫し
た信仰をもって生きるよ
う勧めておられます。私
たちの永遠の行き先は、
この地上で私たちがイエ
スにどのような態度を取
るかにかかっているから
です。

もし私たちが人々の前で、自分はイエスの仲間であると言い表すなら、彼も
また父の前で、私たちを認めてくださり、逆に、私たちが人々の前で彼を知ら
ないと言うなら、彼もまた父の前で私たちを知らないと言う、とおっしゃってい
ます。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

イエスは私たちを愛しておられるので、地上の生活の後で待っている報いと罰
に、私たちの注意を向けさせようとされます。ある教父の言葉にもあるように、
罰への恐れは、時に、すばらしい約束よりも効果があることを、イエスは知っ
ておられるのです。

ですからイエスは、私たちの心に限りない幸せへの望みを育まれると同時に、
私たちを救うために、罰への恐れを抱かせるのです。

イエスは、私たちが永遠に、神と共に生きられるようになることに、心をかけ
ておられます。そして、これこそが、唯一大切なことなのです。この究極の目
的のために、私たちは地上で生きるよう招かれました。事実、神と共に生き
て こ そ 、 私 た ち は 完 全 な 自 己 実 現 に 至 り 、
すべての望みを満たすことができます。

そのためイエスは、この地上にいる内から、自分を彼の仲間だと言い表しな
さい、と勧めておられます。反対に、もしこの世で私たちがイエスとの関わり
を持とうとせず、今この時、彼を知らないと言うのであれば、私たちがこの世
を去る時、永遠に彼から断ち切られてしまうでしょう。

私たちが人生を終える時、イエスは、各々が地上で何を選んだか、その結果
どうなったかを、御父の前で明らかになさるでしょう。またイエスは、最後の審
判について話しながら、私たちがこの地上でする決心が、いかに重要で真剣
なものかを示しておられます。実際、それは私たちの永遠の命に関わること
なのです。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

このイエスの忠告を、どのように生かし、実行に移すことができるでしょうか。
「わたしの仲間であると言い表す者は…」とイエスご自身がおっしゃっている
のですから、単純に、人々の前で自分がイエスの仲間であると言い表しま
しょう。

世間体にこだわるのをやめ、また、キリスト者としての本物の生き方を私たち
から奪う、どっちつかずの妥協した生き方から、抜け出しましょう。

私たちは、キリストを証しするように召されていることを思い出しましょう。
キリストは、ご自分の平和、正義、愛のメッセージが、私たちを通してす
べての人に及ぶよう望んでおられます。ですから、家庭や職場、友人関
係や学校で、また生活の様々な状況の中で、キリストを証ししましょう。

そしてこの証しを、まず行動を通して示しましょう。つまり、実直な生活、
誠実な態度、また金銭に執着をもたず、他人の喜びや苦しみを分かち
合うことによって、などです。

何よりも、私たちの相互愛と一致によって、それを証ししましょう。イエス
と結ばれている人々に約束された、真の平和と喜びが、この地上にいる
うちから私たちの魂を満たし、ほかの人々の上にも注がれるためです。

そして「この苦しみの多い世の中で、どうしてあなたはそのような態度が取れ
るのですか」、「なぜそんなに穏やかなのですか」と、だれかが尋ねるなら、
謙虚に、聖霊が導くままに、率直に話しましょう。こうして私たちは、言葉に
よっても、また考え方においても、キリストを証しすることになります。

それにより、キリストを探し求めている多くの人々が、
彼を見いだすことができるでしょう。

時には、誤解されたり、反論や嘲りの的となったり、敵意をもたれたり、
迫害されたりするかもしれません。イエスは、このことも予告しておられ
ます。「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだ
ろう」と。

それならいっそう私たちは正しい道を歩んでいるのです。ですから、試練の中
にあっても、命を求められても、勇気をもってキリストを証しし続けましょう。

私たちの目的地である
天国は、それに値する
ものです。そこでは、私
たちの愛するイエスが、
御父の前で、永遠に私
たちを認めてくださるで
しょう。

人々の前で自分をわたしの仲
間であると言い表す者は、わ
たしも天の父の前で、その人
をわたしの仲間であると言い
表す。しかし、人々の前でわた
しを知らないと言う者は、 わ
たしも天の父の前で、その人
を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

フォコラーレの創立者キアラ・ルービックが、
2008年3月14日に帰天した後、彼女が過去に残した解説を「いのちの言葉」として取り上げます。
今月の言葉は、1984年7月に発表されたものです。
いのちの言葉は聖書の言葉を黙想し、生活の中で実践するための助けとして、書かれたものです。
Anna Lollo のグラフィックスPlacido d’Omina神父の共同制作 (シシリア –イタリア)
連絡先フォコラーレ:03-3707-4018 [email protected]
03-5370-6424 [email protected]
http://focolare.world.coocan.jp/


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いのちの言葉

2012年8月

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

この言葉は、私たちすべてのキリスト者に、
大きな慰めと励ましを与えてくれます。

イエスは私たちに一貫し
た信仰をもって生きるよ
う勧めておられます。私
たちの永遠の行き先は、
この地上で私たちがイエ
スにどのような態度を取
るかにかかっているから
です。

もし私たちが人々の前で、自分はイエスの仲間であると言い表すなら、彼も
また父の前で、私たちを認めてくださり、逆に、私たちが人々の前で彼を知ら
ないと言うなら、彼もまた父の前で私たちを知らないと言う、とおっしゃってい
ます。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

イエスは私たちを愛しておられるので、地上の生活の後で待っている報いと罰
に、私たちの注意を向けさせようとされます。ある教父の言葉にもあるように、
罰への恐れは、時に、すばらしい約束よりも効果があることを、イエスは知っ
ておられるのです。

ですからイエスは、私たちの心に限りない幸せへの望みを育まれると同時に、
私たちを救うために、罰への恐れを抱かせるのです。

イエスは、私たちが永遠に、神と共に生きられるようになることに、心をかけ
ておられます。そして、これこそが、唯一大切なことなのです。この究極の目
的のために、私たちは地上で生きるよう招かれました。事実、神と共に生き
て こ そ 、 私 た ち は 完 全 な 自 己 実 現 に 至 り 、
すべての望みを満たすことができます。

そのためイエスは、この地上にいる内から、自分を彼の仲間だと言い表しな
さい、と勧めておられます。反対に、もしこの世で私たちがイエスとの関わり
を持とうとせず、今この時、彼を知らないと言うのであれば、私たちがこの世
を去る時、永遠に彼から断ち切られてしまうでしょう。

私たちが人生を終える時、イエスは、各々が地上で何を選んだか、その結果
どうなったかを、御父の前で明らかになさるでしょう。またイエスは、最後の審
判について話しながら、私たちがこの地上でする決心が、いかに重要で真剣
なものかを示しておられます。実際、それは私たちの永遠の命に関わること
なのです。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

このイエスの忠告を、どのように生かし、実行に移すことができるでしょうか。
「わたしの仲間であると言い表す者は…」とイエスご自身がおっしゃっている
のですから、単純に、人々の前で自分がイエスの仲間であると言い表しま
しょう。

世間体にこだわるのをやめ、また、キリスト者としての本物の生き方を私たち
から奪う、どっちつかずの妥協した生き方から、抜け出しましょう。

私たちは、キリストを証しするように召されていることを思い出しましょう。
キリストは、ご自分の平和、正義、愛のメッセージが、私たちを通してす
べての人に及ぶよう望んでおられます。ですから、家庭や職場、友人関
係や学校で、また生活の様々な状況の中で、キリストを証ししましょう。

そしてこの証しを、まず行動を通して示しましょう。つまり、実直な生活、
誠実な態度、また金銭に執着をもたず、他人の喜びや苦しみを分かち
合うことによって、などです。

何よりも、私たちの相互愛と一致によって、それを証ししましょう。イエス
と結ばれている人々に約束された、真の平和と喜びが、この地上にいる
うちから私たちの魂を満たし、ほかの人々の上にも注がれるためです。

そして「この苦しみの多い世の中で、どうしてあなたはそのような態度が取れ
るのですか」、「なぜそんなに穏やかなのですか」と、だれかが尋ねるなら、
謙虚に、聖霊が導くままに、率直に話しましょう。こうして私たちは、言葉に
よっても、また考え方においても、キリストを証しすることになります。

それにより、キリストを探し求めている多くの人々が、
彼を見いだすことができるでしょう。

時には、誤解されたり、反論や嘲りの的となったり、敵意をもたれたり、
迫害されたりするかもしれません。イエスは、このことも予告しておられ
ます。「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだ
ろう」と。

それならいっそう私たちは正しい道を歩んでいるのです。ですから、試練の中
にあっても、命を求められても、勇気をもってキリストを証しし続けましょう。

私たちの目的地である
天国は、それに値する
ものです。そこでは、私
たちの愛するイエスが、
御父の前で、永遠に私
たちを認めてくださるで
しょう。

人々の前で自分をわたしの仲
間であると言い表す者は、わ
たしも天の父の前で、その人
をわたしの仲間であると言い
表す。しかし、人々の前でわた
しを知らないと言う者は、 わ
たしも天の父の前で、その人
を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

フォコラーレの創立者キアラ・ルービックが、
2008年3月14日に帰天した後、彼女が過去に残した解説を「いのちの言葉」として取り上げます。
今月の言葉は、1984年7月に発表されたものです。
いのちの言葉は聖書の言葉を黙想し、生活の中で実践するための助けとして、書かれたものです。
Anna Lollo のグラフィックスPlacido d’Omina神父の共同制作 (シシリア –イタリア)
連絡先フォコラーレ:03-3707-4018 [email protected]
03-5370-6424 [email protected]
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いのちの言葉

2012年8月

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

この言葉は、私たちすべてのキリスト者に、
大きな慰めと励ましを与えてくれます。

イエスは私たちに一貫し
た信仰をもって生きるよ
う勧めておられます。私
たちの永遠の行き先は、
この地上で私たちがイエ
スにどのような態度を取
るかにかかっているから
です。

もし私たちが人々の前で、自分はイエスの仲間であると言い表すなら、彼も
また父の前で、私たちを認めてくださり、逆に、私たちが人々の前で彼を知ら
ないと言うなら、彼もまた父の前で私たちを知らないと言う、とおっしゃってい
ます。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

イエスは私たちを愛しておられるので、地上の生活の後で待っている報いと罰
に、私たちの注意を向けさせようとされます。ある教父の言葉にもあるように、
罰への恐れは、時に、すばらしい約束よりも効果があることを、イエスは知っ
ておられるのです。

ですからイエスは、私たちの心に限りない幸せへの望みを育まれると同時に、
私たちを救うために、罰への恐れを抱かせるのです。

イエスは、私たちが永遠に、神と共に生きられるようになることに、心をかけ
ておられます。そして、これこそが、唯一大切なことなのです。この究極の目
的のために、私たちは地上で生きるよう招かれました。事実、神と共に生き
て こ そ 、 私 た ち は 完 全 な 自 己 実 現 に 至 り 、
すべての望みを満たすことができます。

そのためイエスは、この地上にいる内から、自分を彼の仲間だと言い表しな
さい、と勧めておられます。反対に、もしこの世で私たちがイエスとの関わり
を持とうとせず、今この時、彼を知らないと言うのであれば、私たちがこの世
を去る時、永遠に彼から断ち切られてしまうでしょう。

私たちが人生を終える時、イエスは、各々が地上で何を選んだか、その結果
どうなったかを、御父の前で明らかになさるでしょう。またイエスは、最後の審
判について話しながら、私たちがこの地上でする決心が、いかに重要で真剣
なものかを示しておられます。実際、それは私たちの永遠の命に関わること
なのです。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

このイエスの忠告を、どのように生かし、実行に移すことができるでしょうか。
「わたしの仲間であると言い表す者は…」とイエスご自身がおっしゃっている
のですから、単純に、人々の前で自分がイエスの仲間であると言い表しま
しょう。

世間体にこだわるのをやめ、また、キリスト者としての本物の生き方を私たち
から奪う、どっちつかずの妥協した生き方から、抜け出しましょう。

私たちは、キリストを証しするように召されていることを思い出しましょう。
キリストは、ご自分の平和、正義、愛のメッセージが、私たちを通してす
べての人に及ぶよう望んでおられます。ですから、家庭や職場、友人関
係や学校で、また生活の様々な状況の中で、キリストを証ししましょう。

そしてこの証しを、まず行動を通して示しましょう。つまり、実直な生活、
誠実な態度、また金銭に執着をもたず、他人の喜びや苦しみを分かち
合うことによって、などです。

何よりも、私たちの相互愛と一致によって、それを証ししましょう。イエス
と結ばれている人々に約束された、真の平和と喜びが、この地上にいる
うちから私たちの魂を満たし、ほかの人々の上にも注がれるためです。

そして「この苦しみの多い世の中で、どうしてあなたはそのような態度が取れ
るのですか」、「なぜそんなに穏やかなのですか」と、だれかが尋ねるなら、
謙虚に、聖霊が導くままに、率直に話しましょう。こうして私たちは、言葉に
よっても、また考え方においても、キリストを証しすることになります。

それにより、キリストを探し求めている多くの人々が、
彼を見いだすことができるでしょう。

時には、誤解されたり、反論や嘲りの的となったり、敵意をもたれたり、
迫害されたりするかもしれません。イエスは、このことも予告しておられ
ます。「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだ
ろう」と。

それならいっそう私たちは正しい道を歩んでいるのです。ですから、試練の中
にあっても、命を求められても、勇気をもってキリストを証しし続けましょう。

私たちの目的地である
天国は、それに値する
ものです。そこでは、私
たちの愛するイエスが、
御父の前で、永遠に私
たちを認めてくださるで
しょう。

人々の前で自分をわたしの仲
間であると言い表す者は、わ
たしも天の父の前で、その人
をわたしの仲間であると言い
表す。しかし、人々の前でわた
しを知らないと言う者は、 わ
たしも天の父の前で、その人
を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

フォコラーレの創立者キアラ・ルービックが、
2008年3月14日に帰天した後、彼女が過去に残した解説を「いのちの言葉」として取り上げます。
今月の言葉は、1984年7月に発表されたものです。
いのちの言葉は聖書の言葉を黙想し、生活の中で実践するための助けとして、書かれたものです。
Anna Lollo のグラフィックスPlacido d’Omina神父の共同制作 (シシリア –イタリア)
連絡先フォコラーレ:03-3707-4018 [email protected]
03-5370-6424 [email protected]
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いのちの言葉

2012年8月

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

この言葉は、私たちすべてのキリスト者に、
大きな慰めと励ましを与えてくれます。

イエスは私たちに一貫し
た信仰をもって生きるよ
う勧めておられます。私
たちの永遠の行き先は、
この地上で私たちがイエ
スにどのような態度を取
るかにかかっているから
です。

もし私たちが人々の前で、自分はイエスの仲間であると言い表すなら、彼も
また父の前で、私たちを認めてくださり、逆に、私たちが人々の前で彼を知ら
ないと言うなら、彼もまた父の前で私たちを知らないと言う、とおっしゃってい
ます。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

イエスは私たちを愛しておられるので、地上の生活の後で待っている報いと罰
に、私たちの注意を向けさせようとされます。ある教父の言葉にもあるように、
罰への恐れは、時に、すばらしい約束よりも効果があることを、イエスは知っ
ておられるのです。

ですからイエスは、私たちの心に限りない幸せへの望みを育まれると同時に、
私たちを救うために、罰への恐れを抱かせるのです。

イエスは、私たちが永遠に、神と共に生きられるようになることに、心をかけ
ておられます。そして、これこそが、唯一大切なことなのです。この究極の目
的のために、私たちは地上で生きるよう招かれました。事実、神と共に生き
て こ そ 、 私 た ち は 完 全 な 自 己 実 現 に 至 り 、
すべての望みを満たすことができます。

そのためイエスは、この地上にいる内から、自分を彼の仲間だと言い表しな
さい、と勧めておられます。反対に、もしこの世で私たちがイエスとの関わり
を持とうとせず、今この時、彼を知らないと言うのであれば、私たちがこの世
を去る時、永遠に彼から断ち切られてしまうでしょう。

私たちが人生を終える時、イエスは、各々が地上で何を選んだか、その結果
どうなったかを、御父の前で明らかになさるでしょう。またイエスは、最後の審
判について話しながら、私たちがこの地上でする決心が、いかに重要で真剣
なものかを示しておられます。実際、それは私たちの永遠の命に関わること
なのです。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

このイエスの忠告を、どのように生かし、実行に移すことができるでしょうか。
「わたしの仲間であると言い表す者は…」とイエスご自身がおっしゃっている
のですから、単純に、人々の前で自分がイエスの仲間であると言い表しま
しょう。

世間体にこだわるのをやめ、また、キリスト者としての本物の生き方を私たち
から奪う、どっちつかずの妥協した生き方から、抜け出しましょう。

私たちは、キリストを証しするように召されていることを思い出しましょう。
キリストは、ご自分の平和、正義、愛のメッセージが、私たちを通してす
べての人に及ぶよう望んでおられます。ですから、家庭や職場、友人関
係や学校で、また生活の様々な状況の中で、キリストを証ししましょう。

そしてこの証しを、まず行動を通して示しましょう。つまり、実直な生活、
誠実な態度、また金銭に執着をもたず、他人の喜びや苦しみを分かち
合うことによって、などです。

何よりも、私たちの相互愛と一致によって、それを証ししましょう。イエス
と結ばれている人々に約束された、真の平和と喜びが、この地上にいる
うちから私たちの魂を満たし、ほかの人々の上にも注がれるためです。

そして「この苦しみの多い世の中で、どうしてあなたはそのような態度が取れ
るのですか」、「なぜそんなに穏やかなのですか」と、だれかが尋ねるなら、
謙虚に、聖霊が導くままに、率直に話しましょう。こうして私たちは、言葉に
よっても、また考え方においても、キリストを証しすることになります。

それにより、キリストを探し求めている多くの人々が、
彼を見いだすことができるでしょう。

時には、誤解されたり、反論や嘲りの的となったり、敵意をもたれたり、
迫害されたりするかもしれません。イエスは、このことも予告しておられ
ます。「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだ
ろう」と。

それならいっそう私たちは正しい道を歩んでいるのです。ですから、試練の中
にあっても、命を求められても、勇気をもってキリストを証しし続けましょう。

私たちの目的地である
天国は、それに値する
ものです。そこでは、私
たちの愛するイエスが、
御父の前で、永遠に私
たちを認めてくださるで
しょう。

人々の前で自分をわたしの仲
間であると言い表す者は、わ
たしも天の父の前で、その人
をわたしの仲間であると言い
表す。しかし、人々の前でわた
しを知らないと言う者は、 わ
たしも天の父の前で、その人
を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

フォコラーレの創立者キアラ・ルービックが、
2008年3月14日に帰天した後、彼女が過去に残した解説を「いのちの言葉」として取り上げます。
今月の言葉は、1984年7月に発表されたものです。
いのちの言葉は聖書の言葉を黙想し、生活の中で実践するための助けとして、書かれたものです。
Anna Lollo のグラフィックスPlacido d’Omina神父の共同制作 (シシリア –イタリア)
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03-5370-6424 [email protected]
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いのちの言葉

2012年8月

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

この言葉は、私たちすべてのキリスト者に、
大きな慰めと励ましを与えてくれます。

イエスは私たちに一貫し
た信仰をもって生きるよ
う勧めておられます。私
たちの永遠の行き先は、
この地上で私たちがイエ
スにどのような態度を取
るかにかかっているから
です。

もし私たちが人々の前で、自分はイエスの仲間であると言い表すなら、彼も
また父の前で、私たちを認めてくださり、逆に、私たちが人々の前で彼を知ら
ないと言うなら、彼もまた父の前で私たちを知らないと言う、とおっしゃってい
ます。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

イエスは私たちを愛しておられるので、地上の生活の後で待っている報いと罰
に、私たちの注意を向けさせようとされます。ある教父の言葉にもあるように、
罰への恐れは、時に、すばらしい約束よりも効果があることを、イエスは知っ
ておられるのです。

ですからイエスは、私たちの心に限りない幸せへの望みを育まれると同時に、
私たちを救うために、罰への恐れを抱かせるのです。

イエスは、私たちが永遠に、神と共に生きられるようになることに、心をかけ
ておられます。そして、これこそが、唯一大切なことなのです。この究極の目
的のために、私たちは地上で生きるよう招かれました。事実、神と共に生き
て こ そ 、 私 た ち は 完 全 な 自 己 実 現 に 至 り 、
すべての望みを満たすことができます。

そのためイエスは、この地上にいる内から、自分を彼の仲間だと言い表しな
さい、と勧めておられます。反対に、もしこの世で私たちがイエスとの関わり
を持とうとせず、今この時、彼を知らないと言うのであれば、私たちがこの世
を去る時、永遠に彼から断ち切られてしまうでしょう。

私たちが人生を終える時、イエスは、各々が地上で何を選んだか、その結果
どうなったかを、御父の前で明らかになさるでしょう。またイエスは、最後の審
判について話しながら、私たちがこの地上でする決心が、いかに重要で真剣
なものかを示しておられます。実際、それは私たちの永遠の命に関わること
なのです。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

このイエスの忠告を、どのように生かし、実行に移すことができるでしょうか。
「わたしの仲間であると言い表す者は…」とイエスご自身がおっしゃっている
のですから、単純に、人々の前で自分がイエスの仲間であると言い表しま
しょう。

世間体にこだわるのをやめ、また、キリスト者としての本物の生き方を私たち
から奪う、どっちつかずの妥協した生き方から、抜け出しましょう。

私たちは、キリストを証しするように召されていることを思い出しましょう。
キリストは、ご自分の平和、正義、愛のメッセージが、私たちを通してす
べての人に及ぶよう望んでおられます。ですから、家庭や職場、友人関
係や学校で、また生活の様々な状況の中で、キリストを証ししましょう。

そしてこの証しを、まず行動を通して示しましょう。つまり、実直な生活、
誠実な態度、また金銭に執着をもたず、他人の喜びや苦しみを分かち
合うことによって、などです。

何よりも、私たちの相互愛と一致によって、それを証ししましょう。イエス
と結ばれている人々に約束された、真の平和と喜びが、この地上にいる
うちから私たちの魂を満たし、ほかの人々の上にも注がれるためです。

そして「この苦しみの多い世の中で、どうしてあなたはそのような態度が取れ
るのですか」、「なぜそんなに穏やかなのですか」と、だれかが尋ねるなら、
謙虚に、聖霊が導くままに、率直に話しましょう。こうして私たちは、言葉に
よっても、また考え方においても、キリストを証しすることになります。

それにより、キリストを探し求めている多くの人々が、
彼を見いだすことができるでしょう。

時には、誤解されたり、反論や嘲りの的となったり、敵意をもたれたり、
迫害されたりするかもしれません。イエスは、このことも予告しておられ
ます。「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだ
ろう」と。

それならいっそう私たちは正しい道を歩んでいるのです。ですから、試練の中
にあっても、命を求められても、勇気をもってキリストを証しし続けましょう。

私たちの目的地である
天国は、それに値する
ものです。そこでは、私
たちの愛するイエスが、
御父の前で、永遠に私
たちを認めてくださるで
しょう。

人々の前で自分をわたしの仲
間であると言い表す者は、わ
たしも天の父の前で、その人
をわたしの仲間であると言い
表す。しかし、人々の前でわた
しを知らないと言う者は、 わ
たしも天の父の前で、その人
を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

フォコラーレの創立者キアラ・ルービックが、
2008年3月14日に帰天した後、彼女が過去に残した解説を「いのちの言葉」として取り上げます。
今月の言葉は、1984年7月に発表されたものです。
いのちの言葉は聖書の言葉を黙想し、生活の中で実践するための助けとして、書かれたものです。
Anna Lollo のグラフィックスPlacido d’Omina神父の共同制作 (シシリア –イタリア)
連絡先フォコラーレ:03-3707-4018 [email protected]
03-5370-6424 [email protected]
http://focolare.world.coocan.jp/


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いのちの言葉

2012年8月

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

この言葉は、私たちすべてのキリスト者に、
大きな慰めと励ましを与えてくれます。

イエスは私たちに一貫し
た信仰をもって生きるよ
う勧めておられます。私
たちの永遠の行き先は、
この地上で私たちがイエ
スにどのような態度を取
るかにかかっているから
です。

もし私たちが人々の前で、自分はイエスの仲間であると言い表すなら、彼も
また父の前で、私たちを認めてくださり、逆に、私たちが人々の前で彼を知ら
ないと言うなら、彼もまた父の前で私たちを知らないと言う、とおっしゃってい
ます。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

イエスは私たちを愛しておられるので、地上の生活の後で待っている報いと罰
に、私たちの注意を向けさせようとされます。ある教父の言葉にもあるように、
罰への恐れは、時に、すばらしい約束よりも効果があることを、イエスは知っ
ておられるのです。

ですからイエスは、私たちの心に限りない幸せへの望みを育まれると同時に、
私たちを救うために、罰への恐れを抱かせるのです。

イエスは、私たちが永遠に、神と共に生きられるようになることに、心をかけ
ておられます。そして、これこそが、唯一大切なことなのです。この究極の目
的のために、私たちは地上で生きるよう招かれました。事実、神と共に生き
て こ そ 、 私 た ち は 完 全 な 自 己 実 現 に 至 り 、
すべての望みを満たすことができます。

そのためイエスは、この地上にいる内から、自分を彼の仲間だと言い表しな
さい、と勧めておられます。反対に、もしこの世で私たちがイエスとの関わり
を持とうとせず、今この時、彼を知らないと言うのであれば、私たちがこの世
を去る時、永遠に彼から断ち切られてしまうでしょう。

私たちが人生を終える時、イエスは、各々が地上で何を選んだか、その結果
どうなったかを、御父の前で明らかになさるでしょう。またイエスは、最後の審
判について話しながら、私たちがこの地上でする決心が、いかに重要で真剣
なものかを示しておられます。実際、それは私たちの永遠の命に関わること
なのです。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

このイエスの忠告を、どのように生かし、実行に移すことができるでしょうか。
「わたしの仲間であると言い表す者は…」とイエスご自身がおっしゃっている
のですから、単純に、人々の前で自分がイエスの仲間であると言い表しま
しょう。

世間体にこだわるのをやめ、また、キリスト者としての本物の生き方を私たち
から奪う、どっちつかずの妥協した生き方から、抜け出しましょう。

私たちは、キリストを証しするように召されていることを思い出しましょう。
キリストは、ご自分の平和、正義、愛のメッセージが、私たちを通してす
べての人に及ぶよう望んでおられます。ですから、家庭や職場、友人関
係や学校で、また生活の様々な状況の中で、キリストを証ししましょう。

そしてこの証しを、まず行動を通して示しましょう。つまり、実直な生活、
誠実な態度、また金銭に執着をもたず、他人の喜びや苦しみを分かち
合うことによって、などです。

何よりも、私たちの相互愛と一致によって、それを証ししましょう。イエス
と結ばれている人々に約束された、真の平和と喜びが、この地上にいる
うちから私たちの魂を満たし、ほかの人々の上にも注がれるためです。

そして「この苦しみの多い世の中で、どうしてあなたはそのような態度が取れ
るのですか」、「なぜそんなに穏やかなのですか」と、だれかが尋ねるなら、
謙虚に、聖霊が導くままに、率直に話しましょう。こうして私たちは、言葉に
よっても、また考え方においても、キリストを証しすることになります。

それにより、キリストを探し求めている多くの人々が、
彼を見いだすことができるでしょう。

時には、誤解されたり、反論や嘲りの的となったり、敵意をもたれたり、
迫害されたりするかもしれません。イエスは、このことも予告しておられ
ます。「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだ
ろう」と。

それならいっそう私たちは正しい道を歩んでいるのです。ですから、試練の中
にあっても、命を求められても、勇気をもってキリストを証しし続けましょう。

私たちの目的地である
天国は、それに値する
ものです。そこでは、私
たちの愛するイエスが、
御父の前で、永遠に私
たちを認めてくださるで
しょう。

人々の前で自分をわたしの仲
間であると言い表す者は、わ
たしも天の父の前で、その人
をわたしの仲間であると言い
表す。しかし、人々の前でわた
しを知らないと言う者は、 わ
たしも天の父の前で、その人
を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

フォコラーレの創立者キアラ・ルービックが、
2008年3月14日に帰天した後、彼女が過去に残した解説を「いのちの言葉」として取り上げます。
今月の言葉は、1984年7月に発表されたものです。
いのちの言葉は聖書の言葉を黙想し、生活の中で実践するための助けとして、書かれたものです。
Anna Lollo のグラフィックスPlacido d’Omina神父の共同制作 (シシリア –イタリア)
連絡先フォコラーレ:03-3707-4018 [email protected]
03-5370-6424 [email protected]
http://focolare.world.coocan.jp/


Slide 21

いのちの言葉

2012年8月

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

この言葉は、私たちすべてのキリスト者に、
大きな慰めと励ましを与えてくれます。

イエスは私たちに一貫し
た信仰をもって生きるよ
う勧めておられます。私
たちの永遠の行き先は、
この地上で私たちがイエ
スにどのような態度を取
るかにかかっているから
です。

もし私たちが人々の前で、自分はイエスの仲間であると言い表すなら、彼も
また父の前で、私たちを認めてくださり、逆に、私たちが人々の前で彼を知ら
ないと言うなら、彼もまた父の前で私たちを知らないと言う、とおっしゃってい
ます。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

イエスは私たちを愛しておられるので、地上の生活の後で待っている報いと罰
に、私たちの注意を向けさせようとされます。ある教父の言葉にもあるように、
罰への恐れは、時に、すばらしい約束よりも効果があることを、イエスは知っ
ておられるのです。

ですからイエスは、私たちの心に限りない幸せへの望みを育まれると同時に、
私たちを救うために、罰への恐れを抱かせるのです。

イエスは、私たちが永遠に、神と共に生きられるようになることに、心をかけ
ておられます。そして、これこそが、唯一大切なことなのです。この究極の目
的のために、私たちは地上で生きるよう招かれました。事実、神と共に生き
て こ そ 、 私 た ち は 完 全 な 自 己 実 現 に 至 り 、
すべての望みを満たすことができます。

そのためイエスは、この地上にいる内から、自分を彼の仲間だと言い表しな
さい、と勧めておられます。反対に、もしこの世で私たちがイエスとの関わり
を持とうとせず、今この時、彼を知らないと言うのであれば、私たちがこの世
を去る時、永遠に彼から断ち切られてしまうでしょう。

私たちが人生を終える時、イエスは、各々が地上で何を選んだか、その結果
どうなったかを、御父の前で明らかになさるでしょう。またイエスは、最後の審
判について話しながら、私たちがこの地上でする決心が、いかに重要で真剣
なものかを示しておられます。実際、それは私たちの永遠の命に関わること
なのです。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

このイエスの忠告を、どのように生かし、実行に移すことができるでしょうか。
「わたしの仲間であると言い表す者は…」とイエスご自身がおっしゃっている
のですから、単純に、人々の前で自分がイエスの仲間であると言い表しま
しょう。

世間体にこだわるのをやめ、また、キリスト者としての本物の生き方を私たち
から奪う、どっちつかずの妥協した生き方から、抜け出しましょう。

私たちは、キリストを証しするように召されていることを思い出しましょう。
キリストは、ご自分の平和、正義、愛のメッセージが、私たちを通してす
べての人に及ぶよう望んでおられます。ですから、家庭や職場、友人関
係や学校で、また生活の様々な状況の中で、キリストを証ししましょう。

そしてこの証しを、まず行動を通して示しましょう。つまり、実直な生活、
誠実な態度、また金銭に執着をもたず、他人の喜びや苦しみを分かち
合うことによって、などです。

何よりも、私たちの相互愛と一致によって、それを証ししましょう。イエス
と結ばれている人々に約束された、真の平和と喜びが、この地上にいる
うちから私たちの魂を満たし、ほかの人々の上にも注がれるためです。

そして「この苦しみの多い世の中で、どうしてあなたはそのような態度が取れ
るのですか」、「なぜそんなに穏やかなのですか」と、だれかが尋ねるなら、
謙虚に、聖霊が導くままに、率直に話しましょう。こうして私たちは、言葉に
よっても、また考え方においても、キリストを証しすることになります。

それにより、キリストを探し求めている多くの人々が、
彼を見いだすことができるでしょう。

時には、誤解されたり、反論や嘲りの的となったり、敵意をもたれたり、
迫害されたりするかもしれません。イエスは、このことも予告しておられ
ます。「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだ
ろう」と。

それならいっそう私たちは正しい道を歩んでいるのです。ですから、試練の中
にあっても、命を求められても、勇気をもってキリストを証しし続けましょう。

私たちの目的地である
天国は、それに値する
ものです。そこでは、私
たちの愛するイエスが、
御父の前で、永遠に私
たちを認めてくださるで
しょう。

人々の前で自分をわたしの仲
間であると言い表す者は、わ
たしも天の父の前で、その人
をわたしの仲間であると言い
表す。しかし、人々の前でわた
しを知らないと言う者は、 わ
たしも天の父の前で、その人
を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

フォコラーレの創立者キアラ・ルービックが、
2008年3月14日に帰天した後、彼女が過去に残した解説を「いのちの言葉」として取り上げます。
今月の言葉は、1984年7月に発表されたものです。
いのちの言葉は聖書の言葉を黙想し、生活の中で実践するための助けとして、書かれたものです。
Anna Lollo のグラフィックスPlacido d’Omina神父の共同制作 (シシリア –イタリア)
連絡先フォコラーレ:03-3707-4018 [email protected]
03-5370-6424 [email protected]
http://focolare.world.coocan.jp/


Slide 22

いのちの言葉

2012年8月

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

この言葉は、私たちすべてのキリスト者に、
大きな慰めと励ましを与えてくれます。

イエスは私たちに一貫し
た信仰をもって生きるよ
う勧めておられます。私
たちの永遠の行き先は、
この地上で私たちがイエ
スにどのような態度を取
るかにかかっているから
です。

もし私たちが人々の前で、自分はイエスの仲間であると言い表すなら、彼も
また父の前で、私たちを認めてくださり、逆に、私たちが人々の前で彼を知ら
ないと言うなら、彼もまた父の前で私たちを知らないと言う、とおっしゃってい
ます。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

イエスは私たちを愛しておられるので、地上の生活の後で待っている報いと罰
に、私たちの注意を向けさせようとされます。ある教父の言葉にもあるように、
罰への恐れは、時に、すばらしい約束よりも効果があることを、イエスは知っ
ておられるのです。

ですからイエスは、私たちの心に限りない幸せへの望みを育まれると同時に、
私たちを救うために、罰への恐れを抱かせるのです。

イエスは、私たちが永遠に、神と共に生きられるようになることに、心をかけ
ておられます。そして、これこそが、唯一大切なことなのです。この究極の目
的のために、私たちは地上で生きるよう招かれました。事実、神と共に生き
て こ そ 、 私 た ち は 完 全 な 自 己 実 現 に 至 り 、
すべての望みを満たすことができます。

そのためイエスは、この地上にいる内から、自分を彼の仲間だと言い表しな
さい、と勧めておられます。反対に、もしこの世で私たちがイエスとの関わり
を持とうとせず、今この時、彼を知らないと言うのであれば、私たちがこの世
を去る時、永遠に彼から断ち切られてしまうでしょう。

私たちが人生を終える時、イエスは、各々が地上で何を選んだか、その結果
どうなったかを、御父の前で明らかになさるでしょう。またイエスは、最後の審
判について話しながら、私たちがこの地上でする決心が、いかに重要で真剣
なものかを示しておられます。実際、それは私たちの永遠の命に関わること
なのです。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

このイエスの忠告を、どのように生かし、実行に移すことができるでしょうか。
「わたしの仲間であると言い表す者は…」とイエスご自身がおっしゃっている
のですから、単純に、人々の前で自分がイエスの仲間であると言い表しま
しょう。

世間体にこだわるのをやめ、また、キリスト者としての本物の生き方を私たち
から奪う、どっちつかずの妥協した生き方から、抜け出しましょう。

私たちは、キリストを証しするように召されていることを思い出しましょう。
キリストは、ご自分の平和、正義、愛のメッセージが、私たちを通してす
べての人に及ぶよう望んでおられます。ですから、家庭や職場、友人関
係や学校で、また生活の様々な状況の中で、キリストを証ししましょう。

そしてこの証しを、まず行動を通して示しましょう。つまり、実直な生活、
誠実な態度、また金銭に執着をもたず、他人の喜びや苦しみを分かち
合うことによって、などです。

何よりも、私たちの相互愛と一致によって、それを証ししましょう。イエス
と結ばれている人々に約束された、真の平和と喜びが、この地上にいる
うちから私たちの魂を満たし、ほかの人々の上にも注がれるためです。

そして「この苦しみの多い世の中で、どうしてあなたはそのような態度が取れ
るのですか」、「なぜそんなに穏やかなのですか」と、だれかが尋ねるなら、
謙虚に、聖霊が導くままに、率直に話しましょう。こうして私たちは、言葉に
よっても、また考え方においても、キリストを証しすることになります。

それにより、キリストを探し求めている多くの人々が、
彼を見いだすことができるでしょう。

時には、誤解されたり、反論や嘲りの的となったり、敵意をもたれたり、
迫害されたりするかもしれません。イエスは、このことも予告しておられ
ます。「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだ
ろう」と。

それならいっそう私たちは正しい道を歩んでいるのです。ですから、試練の中
にあっても、命を求められても、勇気をもってキリストを証しし続けましょう。

私たちの目的地である
天国は、それに値する
ものです。そこでは、私
たちの愛するイエスが、
御父の前で、永遠に私
たちを認めてくださるで
しょう。

人々の前で自分をわたしの仲
間であると言い表す者は、わ
たしも天の父の前で、その人
をわたしの仲間であると言い
表す。しかし、人々の前でわた
しを知らないと言う者は、 わ
たしも天の父の前で、その人
を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

フォコラーレの創立者キアラ・ルービックが、
2008年3月14日に帰天した後、彼女が過去に残した解説を「いのちの言葉」として取り上げます。
今月の言葉は、1984年7月に発表されたものです。
いのちの言葉は聖書の言葉を黙想し、生活の中で実践するための助けとして、書かれたものです。
Anna Lollo のグラフィックスPlacido d’Omina神父の共同制作 (シシリア –イタリア)
連絡先フォコラーレ:03-3707-4018 [email protected]
03-5370-6424 [email protected]
http://focolare.world.coocan.jp/


Slide 23

いのちの言葉

2012年8月

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

この言葉は、私たちすべてのキリスト者に、
大きな慰めと励ましを与えてくれます。

イエスは私たちに一貫し
た信仰をもって生きるよ
う勧めておられます。私
たちの永遠の行き先は、
この地上で私たちがイエ
スにどのような態度を取
るかにかかっているから
です。

もし私たちが人々の前で、自分はイエスの仲間であると言い表すなら、彼も
また父の前で、私たちを認めてくださり、逆に、私たちが人々の前で彼を知ら
ないと言うなら、彼もまた父の前で私たちを知らないと言う、とおっしゃってい
ます。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

イエスは私たちを愛しておられるので、地上の生活の後で待っている報いと罰
に、私たちの注意を向けさせようとされます。ある教父の言葉にもあるように、
罰への恐れは、時に、すばらしい約束よりも効果があることを、イエスは知っ
ておられるのです。

ですからイエスは、私たちの心に限りない幸せへの望みを育まれると同時に、
私たちを救うために、罰への恐れを抱かせるのです。

イエスは、私たちが永遠に、神と共に生きられるようになることに、心をかけ
ておられます。そして、これこそが、唯一大切なことなのです。この究極の目
的のために、私たちは地上で生きるよう招かれました。事実、神と共に生き
て こ そ 、 私 た ち は 完 全 な 自 己 実 現 に 至 り 、
すべての望みを満たすことができます。

そのためイエスは、この地上にいる内から、自分を彼の仲間だと言い表しな
さい、と勧めておられます。反対に、もしこの世で私たちがイエスとの関わり
を持とうとせず、今この時、彼を知らないと言うのであれば、私たちがこの世
を去る時、永遠に彼から断ち切られてしまうでしょう。

私たちが人生を終える時、イエスは、各々が地上で何を選んだか、その結果
どうなったかを、御父の前で明らかになさるでしょう。またイエスは、最後の審
判について話しながら、私たちがこの地上でする決心が、いかに重要で真剣
なものかを示しておられます。実際、それは私たちの永遠の命に関わること
なのです。

人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、そ
の人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う
者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

このイエスの忠告を、どのように生かし、実行に移すことができるでしょうか。
「わたしの仲間であると言い表す者は…」とイエスご自身がおっしゃっている
のですから、単純に、人々の前で自分がイエスの仲間であると言い表しま
しょう。

世間体にこだわるのをやめ、また、キリスト者としての本物の生き方を私たち
から奪う、どっちつかずの妥協した生き方から、抜け出しましょう。

私たちは、キリストを証しするように召されていることを思い出しましょう。
キリストは、ご自分の平和、正義、愛のメッセージが、私たちを通してす
べての人に及ぶよう望んでおられます。ですから、家庭や職場、友人関
係や学校で、また生活の様々な状況の中で、キリストを証ししましょう。

そしてこの証しを、まず行動を通して示しましょう。つまり、実直な生活、
誠実な態度、また金銭に執着をもたず、他人の喜びや苦しみを分かち
合うことによって、などです。

何よりも、私たちの相互愛と一致によって、それを証ししましょう。イエス
と結ばれている人々に約束された、真の平和と喜びが、この地上にいる
うちから私たちの魂を満たし、ほかの人々の上にも注がれるためです。

そして「この苦しみの多い世の中で、どうしてあなたはそのような態度が取れ
るのですか」、「なぜそんなに穏やかなのですか」と、だれかが尋ねるなら、
謙虚に、聖霊が導くままに、率直に話しましょう。こうして私たちは、言葉に
よっても、また考え方においても、キリストを証しすることになります。

それにより、キリストを探し求めている多くの人々が、
彼を見いだすことができるでしょう。

時には、誤解されたり、反論や嘲りの的となったり、敵意をもたれたり、
迫害されたりするかもしれません。イエスは、このことも予告しておられ
ます。「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだ
ろう」と。

それならいっそう私たちは正しい道を歩んでいるのです。ですから、試練の中
にあっても、命を求められても、勇気をもってキリストを証しし続けましょう。

私たちの目的地である
天国は、それに値する
ものです。そこでは、私
たちの愛するイエスが、
御父の前で、永遠に私
たちを認めてくださるで
しょう。

人々の前で自分をわたしの仲
間であると言い表す者は、わ
たしも天の父の前で、その人
をわたしの仲間であると言い
表す。しかし、人々の前でわた
しを知らないと言う者は、 わ
たしも天の父の前で、その人
を知らないと言う。
(マタイ 10.32-33)

フォコラーレの創立者キアラ・ルービックが、
2008年3月14日に帰天した後、彼女が過去に残した解説を「いのちの言葉」として取り上げます。
今月の言葉は、1984年7月に発表されたものです。
いのちの言葉は聖書の言葉を黙想し、生活の中で実践するための助けとして、書かれたものです。
Anna Lollo のグラフィックスPlacido d’Omina神父の共同制作 (シシリア –イタリア)
連絡先フォコラーレ:03-3707-4018 [email protected]
03-5370-6424 [email protected]
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