ポール・ブリューナ 日本で最初の“富岡製糸場”建設の立役者 185024
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ポール・ブリューナ
日本で最初の“富岡製糸場”建設の立役者
185024 河合柊弥
ブリューナ氏の今まで
・1840年6月30日、フランスのブール・ド・ペアージュで生まれる。
・蚕糸業が盛んな町であったため、その経験から生糸問屋に勤めるよ
うになる。
・後、同地のエシュト・リリアンタール商会に移り、横浜支店に派遣
→このころの日本では生糸生産が盛んで、製糸工場建設が検討され
ていた。
ブリューナ氏、群馬を訪ねる
・明治3年7月、イギリス公使館の書記らとともに武蔵国、上野国、信濃
国を見て回る。
その結果・・・
富岡の陣屋予定地を建設地に選定!!
なぜ、富岡なの?
富岡でなくてもよかったのでは?との意見が多く寄せられるが、
①交通の便が良い
②動力源の石炭及び水か豊富
③建材の石材が入手しやすい
などの理由から選定されたとされている
東京に帰ったブリューナ氏
・1870年11月29日、契約成立を果たし、日本政府に五年間雇用される
こととなる。
・富岡製糸場建設のための機材購入や技師雇用のために一時フラン
スへ・・・。
・香港経由で帰仏し、製糸工2名、工女4名と契約。さらに当時18歳の
エミリー・アレクサンドリーヌと結婚!
富岡製糸場、着工!
・松井清蔭、尾高惇忠(初代工場長)とともに工事に当たり、地元の大
工・左官・鳶・瓦職人とともに建設を進める。
・明治時代初期には珍しい木造レンガ造りを採用!当時レンガを作る
技術はなかったが、粘土を木枠に入れ天日で乾かす日干しレンガをブ
リューナ氏が教えたとされている。
富岡製糸場完成後・・・
・雇用期間を終え、アメリカのラッセル商会に招致される。支配人として
上海の製糸場兼室に携わる。
・1906年、上海から帰仏する際に横浜、そして富岡製糸場を訪れ、箱
根に一か月ほど滞在。
・同年9月23日、パリの自宅で逝去
ブリューナ氏の逸話
若い女子の生き血を啜っていた!?
工女たちの間で、ブリューナ氏が夜な夜な若い娘の生き血を啜って楽
しんでるとの噂が流れたという逸話が残されている!
・・・実は生き血を啜っていたわけではなく、赤ワインをたしなんでいた
んです。
当時日本にはあまり赤ワインが出回っておらず、工女さんの勘違いか
ら広まった噂なのだそう。