講演スライド(8.30に修正

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私の近代化研究と
社会メディアという視点
2012 08 25
2012 08 28 修正 (左と右を反対に書いていた箇所を修正)
2012 08 30修正 (Materie のわかりにくい使い方の修正など)
林晋
講演の概要
• 次の4点を話す:
1. 林の人文社会学的研究の経緯
2. その動機と目的
3. 研究の現状
4. 研究の未来と他研究との関連
• 今まで断片的あるいは一側面からだけ話し
てきたことを、初めて全体像として話す
林のいままでの研究
• 理系
1. 数理論理学、数学基礎論
2. Theoretical computer science
3. Software Engineering
4. IT産業振興策の研究@文科省NISTEP
5. 歴史研究用ソフトSMART-GS開発
• 文系
1. 数学基礎論史、特にヒルベルト日記研究
2. 淵一博研究
3. 田辺元研究
4. 歴史社会学研究(未発表、講義資料のみ)
そのうち本日の話に直接関連するもの
• 理系
1. 数理論理学、数学基礎論
2. Theoretical computer science
3. Software Engineering
4. IT産業振興策の研究@文科省NISTEP
• 文系
1. 数学基礎論史、特にヒルベルト日記研究
2. 田辺元研究
3. 情報歴史社会学研究(未発表、講義資料のみ)
•
実はSMART-GS開発以外のすべての研究が何らかの関連をもっている。
近代化研究
•
林の文系の研究のほとんどは、理系時代と数学基礎論史研究で遭遇
した問題を理解することを目的としている。
–
•
それらの問題は社会学でいう近代化、形式合理性の伸張と、それらの
反転、に関連している。反転:再魔術化など
この研究は未完。本体の研究は計画しかない。
•
•
ただし研究計画の概要、その意図を明確に説明できるほどには完成し
てきたので、みなさんに聞いてもらいたい。
–
–
•
これが情報系から文系に転職した理由のひとつ
本体は、今後2、30年の間に築く予定
その頃には死んでる?(^^;)
今日は、それをトップとボトムの両端から説明する。
–
–
「広い意味でのメディア(社会媒体)」が梃子の支点になりそう。
これに気づくきっかけをくれた溝口さんに一緒に講演をお願いした。
ボトムからの説明:研究を始めた動機 1
数学史・数学基礎論史研究
• 未だ書かれたことがない数学基礎論史
– 数学基礎論、ゲーデルの不完全性定理などは、アマチュアが喜ぶ話題であ
り、E.T.Bell, Men of Mathematics などの影響で通俗史観がはびこる
単純な悪玉説の主原
– この2-30年のアカデミックな研究により、通俗史観の決定的崩壊は明瞭
因はヒルベルトのクロ
–
• たとえば、H. Edwards の Kronecker 研究, e.g., Kronecker’s
Place in History
ネッカー憎悪。ただし、
Love (respect) & Hate
E.T.Bell は後に、今からみても優れた歴史書であるこういう本を書いている。
そこでは、たとえば彼がその流布を助けたクロネッカー悪玉説とは別のクロ
ネッカー像が描かれている。しかし、ベストセラーとなった読み易く面白おかし
い古い方の本と違い、こちらは殆ど読まれなかった。
– 今までの数学基礎論史観は歴史学から見れば「フィクション」
• これには詳しい説明が必要。後で詳述する。
– プロの歴史家の批判に耐える史観とそれに基づく歴史叙述が必要!
– その歴史観の素になりそうなゲーデルの歴史観の発見(10年位前?)
– それはウェーバー近代化論と深く関連するものだった
• 現在これを岩波新書で書いている:「ゲーデルと数学の近代」
ゲーデルの歴史観 1
•
•
ゲーデル全集3巻 pp.374-387, The modern development of the foundations of
mathematics in the light of philosophyというタイトルの講演草稿(ドイツ語速記)
ドイツ語翻刻の先頭: Ich moechte hier versuchen, die Entwicklung der
mathematischen Grundlagenforschung seit etwa der Jahrhundertwende in
philosophischen Begriffen zu beschreiben und in ein allgemeines Schema von
moeglichen philosophischen Weltanschauungen einzuordnen.
• 数学基礎論史を哲学的思想(世界観)の観点から理解しよとする試み。
• その基本的考え方は人類の文化がるルネサンス以後、右から左に流れ
たという歴史観。
•
•
•
•
左:唯物論、実証主義、経験論、懐疑主義、ニヒリズム
右:唯心論(Spiritualismus)、観念論、神学、形而上学
左の思想は現世的には成功した。
それは物事の「本質」を問うような方向からは遠ざかった。
ゲーデルの歴史観 2
•
•
その結果、われわれは物理学の意味として予測可能性(Beobachtungsresultate
vorauszusagen)のみに甘んじなくてはならない。それがすべての理論的学問(
theoresticshen Wissenschaft)の目的(Ende)なのである。(ただし、この予測可能性
は、プラクティカルな目的(praktische Zwecke)、たとえば、テレビジョンを作るとか、
原爆を作るとかには全く十分なのであるが)。
その様ななかで、唯一数学のみにおいて、そのような考え方(Auffassung der
Mathematik)が起きなかったならば、それは奇跡と言わねばならなかったろう(Es
muesste ein Wunder sein)。数学は本来アプリオリな学問であり、その故に、ルネ
サンス以後の支配的時代精神(Zeitgeist)に抗して、常に右方向への傾向を維持
したのである。それゆえにジョン・スチュアート・ミルの数学の経験論などは支持を
得ることができなかったのである。実際、数学はむしろ、物質(Materie)から離れ、
その基礎を追求する、より高い抽象化(zu immer hoeheren Abstraktionen weg)の
方向に進んだのである。
ゲーデルの歴史観 3
•
•
•
•
しかし、世紀の変わり目のころ、ついに時は到った(hatte auch ihre Stunde
geschlagen)。いわれるところの集合論のパラドックスが発見され、懐疑論者たち
が、それを大げさに騒ぎ立てた。私が「いわれるところの」(angeblich, そう思われ
ているという意味。英語の alleged)とか、「おおげさに」(uebertrieben)とかいうの
は、実際には、矛盾は数学の中ではなく、数学と哲学の境界で起きたのであり
(nicht in der Mathematik sondern an ihrer aeussersten Grenze zur Philosophie)、ま
た、それが完璧に誰もが納得する形で解決されたからである。
しかしながら、こういう議論は、時代精神(Zeitgeist)に抗するには役立たず、数学
者の多数が、数学が真理のシステム(ein System von Wahrheiten)という信念を放
棄し、数学を恣意的な仮定からの推論の体系と看做すようになったのである。
<中略>
この様なニヒリスティックな結論(nihilistischen Folgerungen)は時代精神にピッタリ
はまっていたのであるが、ここで数学の持つ特性のためにリアクションが起きた。
つまり、時代精神も、そして、数学本来の精神をも同時に満たそうという、奇妙な
配合種(merkewuerdige Zwitterding)としてのヒルベルト形式主義である。
ゲーデルの歴史観 4
•
<中略>ここで、ヒルベルト形式主義の技術的説明とそれを否定したゲーデルの
不完全性定理の説明が入り、特に、第一不完全性定理を、数学の精神(右)を時
代精神(左)で満たそうとした試みと説明し、それは不可能だと断じている。そして
、その後で第二不完全性定理について語り、そして、次のように結論する:
•
ヒルベルトの唯物論と古典的数学の諸相の組み合わせは、この様に不可能なの
である。
その後、様々な議論が続き、最後は
真理は左でも右でもなく、その間にあるだろう、と主張し、
その様な心理に至る方法としてフッサールの現象学の可能性を議論する。
•
•
•
本体の議論(始)
• ここだけ理論本体がほぼできているので、ボ
トムからの議論から脱して、本体の議論
• これを現在、岩波新書に書こうとしている
ゲーデルの歴史観をどう見るか1
• これを中心的に取り上げた思想家はいない。
• Hao Wang が少し取り上げているが、重要視しておらず、英
訳が間違えており、内容もちゃんと把握できているとは思え
ない。
• 様々な見方が可能だが、林は、これを社会学の近代化理論
に重ね合わせて読んだ。
• つまり、「左傾化」を「形式合理性の伸張」としてみた。
• そう読むと、数学における右傾化=無限集合論とは、再魔術
化のように読める。
• 実は、ここに「数学の形而上学化=リーマン的概念数学」と、
その形式化(形式系、公理的集合論、ブルバキ構造主義の
射と対象の数学)という右傾化と左傾化の混淆がみられる。
ゲーデルの歴史観をどう見るか2
•
この過程を林はゲーデルが無視した数学の思考の交換メディアとしての集合論
の側面、つまり、数学の社会学的側面を考慮にいれて、次のように解釈する。
•
無限集合を駆使する現代的な抽象的思念的概念的数学の発祥を、カントール以前のリー
マンの哲学的数学にみる見方は、数学史家の間ではすでに定着している。
•
このリーマンの哲学的な連続集合論(多様体論)を、カントール・デーデキントの離散集合論
と、ハウスドルフなどの離散集合論的位相幾何学などで置き換えていくのが現代的な数学
の基礎付の歴史であった。
それは、1910年代、ワイルがDie Idee der Riemannschen Fläche (リーマン面の概念, 1913)
を出版したころに実質完成する。
これと並行して、形式的理論による離散集合論の「標準化」が Zermelo, Fraenkel, Neumann,
Bernays などにより行われ、これも1920年代には最終的に完成する。
この時、史上初めて数学的アイデアの証明と交換のための普遍的メディアが生まれた。
リーマン概念数学は「ディズニー化、Giddensの日本型モデル、感情労働」などに代表される
社会学の再魔術化が、脱魔術化を通り越して先に起きたようなもの。それが、離散化され、
体系化され、最後は公理化される過程で、形式(合理)化が起きている。
•
•
•
•
本体の議論(終)
• ここから、またボトムからの議論
• ただし、今度は身も蓋もなく現実的な場面か
ら
ボトムからの説明:研究を始めた動機2
ソフトウェア工学研究で経験した社会学転回
•
林のもとの専門は Formal methods 形式的技法
–
•
•
•
この方法でソフトのバグが無くなると期待していたのだが、実際に自分のシステムを作って
やってみると、現代の複雑なソフトウェアで最もバグが入りやすいのは仕様そのものである
ことがわかり、この方法を放棄
形式的技法では verification はできても validation が難しい。
例えると、
–
–
•
立てた方程式が正しいかの検証: Validation
立てた方程式に対して解が正しいかの検証:Verification
自然科学・工学では、正しい微分方程式を立てることには、それほどの困難が経験されてこ
なかった。しかし、それと異なり論理式で世界を記述することは何故か難しかった。
–
•
Formal methods: 形式言語・形式論理を使いソフトウェアの仕様(ソフトウェアの目的・機能を記述し
た文書)を記述すること、それをもとにその仕様を満たすソフトをコンピュータでチェックしながら開発
すること
理由は幾つか考えられる。また、この経験が林の分析系哲学批判の基本になっている。
その結果、証明アニメーションなどの技法を開発したりしたが、最終的には、 UML&アジャ
イル法研究に転向。SMART システムを開発。
–
SMART-GSは、これの設計思想を継承したために、同じ名前になっている。
ボトムからの説明:研究を始めた動機3
ソフトウェア工学研究で経験した社会学転回
• G.リッツァー「マクドナルド化する社会」の衝撃
– この様なソフトウェア工学における転向を経験していたころに、
偶然社会学の G.Rizter “The McDonalization of Society”(の和訳)を
読み、そこに記述されている問題が自分が直面している問題と大幅
に重なっていることに気がつく。
– その結果、社会学の勉強を始め、Validation がウェーバー社会学の
実質合理性の、Verification が形式合理性の問題であることに気づく
– 社会学的視点のもとに、日本のソフトウェア産業の振興策の研究を、
文部科学省科学技術政策研究所の客員研究員として行う:1 2 3
ボトムからの説明:研究を始めた動機4
ソフトウェア工学研究で経験した社会学転回
• なぜ社会学か?
– 数学や自然科学の対象とは異なり、ソフトウェアは目的をもって作成される。
– ソフトの良し悪しとは、その目的にどれだけかなうかどうかできまる(validation)。
– つまり、ソフトウェアではアリストテレス論理学・存在論の目的因が重要。
• だから、それを捨てた Frege 以後の数理論理学ではソフトウェア仕様は記述しが
たい。
– つまり、ソフトウェアは社会的コンテキストに埋め込まれており(被投性)、それを抜きに
しては考えることができない。(Terry Winogradの思想)
– その故に社会学的視点が重要となる。
– また、社会におけるITの役割が大きくなり、IT=社会、IT=企業、IT=組織、の側面が
増大し、社会的要素を考えずにITを考えることできなくなっている。
– 銀行は情報産業とも呼ばれる。それほどITが重要。医療、教育、その他でも同じこと。
– IBMは、ハードウェアメーカから、ソフトウェア重視を経由して、現在はコンサルティン
グ、ソリューションビジネスが中心。この変化がITの社会的意味の変化を示している。
ボトムからの説明:研究を始めた動機 5
• この数学史・数学基礎論史とソフトウェア工学の二つの研究から、ある奇
妙な類似に気付く (多分十数年前?)
– ゲーデルの歴史観はウェーバー近代化史観に類似
– 社会学の合理性理論と情報の形式的方法についての思想の関連
– 社会学の形式合理性と数学の形式主義の類似
• ウェーバー(1864生)とヒルベルト(1862生)に思想的関連性をみて、
それを学問的に解明するという計画。その関連性とは近代性・近
代化。
• これを考えたのが、神戸大時代、大体10年くらい前のこと。
• これが、林の文系研究の大きな動機で、京大文学部の現在の職
の公募を見つけた際に、それがやりたくて文系転向を決意。
– 幸いにも採用されて、現在にいたっている。
– そして、その研究の形がかなり見えてきたというのが今日の報告
「近代化・近代性研究」の危険性を避ける
• しかし、アカデミズム系の史学を志しながら、「数学におけるヒルベルト形
式主義とウェーバー社会学を近代化・近代性に関連づけて理解する」と
いう cultural studies ・ニューアカを連想させる問題への直接アタックは
どう考えても危険!
• ちょっと間違うと ε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ… というようなものに転落してしまう。
• そこで「通常業務」としては、最終目標に関連する各専門分
野の研究を専門分野のパラダイムと整合的な方法で複数行
い、同時に、それらを通して最終目標を狙うという戦略をとる
ことにした。
• そのため一見バラバラの研究を行うこととなっている。
– ただし、淵研究は頼まれ仕事でやったら偶々関係していたもの
田辺元研究という必然的「偶然」
•
そのような研究の一つに、さまざまな偶然が重なって始めた田辺元研究がある。
これがブレークスルーとなった。
•
田辺への興味は神戸大で数学基礎論史を調べているころ、「公理主義」という日
本語に違和感をもって調べたとき、田辺に行き着いたのが契機
– これが数学史研究といえる最初のものになった。
– 八杉に聞いた野上弥生子さんの話や京大文転職で段々と興味が増す。
•
小林道央君(小林道夫先生とは別人)に教えられた船山信一の明治論理学導入
史の研究を「日本の(政治思想の)近代化の一過程」と捉え、船山の研究が終わ
る明治20年代以後の日本論理学史を京都学派の「論理」にみるという構想で京
都学派研究を始め、 SMART-GSがらみの理由もあり、田辺文庫に注目。それを利
用した田辺思想史研究を決意。
•
始めてみると数理哲学関連の予想もしなかった重要史料が次々とみつかり、「田
辺数理哲学の思想史的研究」になった。(政治思想史のはずだった。)
しかも、それがヒルベルトとウェーバーをつなぐミッシングリンクを示してくれた。
•
•
それが「数理哲学」の研究になり、それが意外であり、それがミッシングリンクを提
示してくれたことには、実は必然的理由があった….
新カント派というミッシングリンク 1
•
ヒルベルト、ウェーバー、少し遅れて、田辺が活躍した時代と「場所」は、19世紀
終盤から20世紀初頭、第1次世界大戦を通して、第2次世界大戦にいたる時代
のドイツ語圏の思想世界とそれに強く影響された日本の思想世界。
•
この時代と場所を最初ドミネートし、やがて新思想を生み、それに乗り越えられる
という意味で、その時空間を決定づけたものに「新カント派」と呼ばれる巨大な思
想家集団がある。
•
この新カント派とそれを乗り越えたシェーラー、ハイデガー、ヴィトゲンシュタイン、
カルナップたちの論理実証主義者が、ある意味で「現代を用意した者たち」。
アメリカではプラグマティストたちがその役割を果たしており、政治思想史家 J.
Kloppenbergは、彼らと表裏一体のアメリカ漸進主義と、新カント派と表裏一体の
ドイツ社会民主主義の呼応を指摘している。
•
•
そして、そのドイツ側の思想家の一人が新カント派の代表者であるリッケルトに強
い影響を受けたマックス・ウェーバーであることは、ウェーバーを知る人ならばお
そらく誰でも知っていること。
新カント派というミッシングリンク 2
•
そして、新カント派西南学派の創始者リッケルトとともに新カント派を代表し現在
は忘れ去られているのがマールブルグ学派の創始者ヘルマン・コーエン。
•
このコーエンに強く影響されたのが青年田辺元。弁証法研究により、その影響を
脱したというのが通説だが、田辺のテキストを仔細に読めば、その影響が晩年ま
で続いていることがわかる。
•
そして、ラッセルに罵倒されたコーエンの微分哲学に奇妙なアフィニティを持つの
がヒルベルトの理想元の思想。つまり、公理主義・形式主義。
•
林のヒルベルト数学日記の解析(未発表の60ページほどの英文論文あり。希望
者には渡します)により、ヒルベルトは通説と異なり集合論のパラドックス以前に
カント哲学に関連付けて数学の無矛盾性、完全性、形式性について考察をめぐら
し、カント哲学の数学的証明さえ構想している(心理学、生理学が哲学に代わりえ
ると広く信じられていた、この時代のドイツでは必ずしも異様ではない)。
•
もし、ヒルベルトの初期思想のカントへの言及が新カント派の思想にもとづくもの
であれば、当時のドイツで大きな影響力をもった新カント派の異なるバージョンに
ウェーバーとヒルベルトは影響をうけたことになる。それ故に類似性がある、と結
論できることになる。この可能性は高いが、まだ史料的証拠はない。研究中。
M. Friedman: A parting of the ways
• この「ミッシングリンクとしての新カント派」という思想は林の
オリジナルではない。
• これはアメリカのカント学者、M. Friedman が著書 A Parting
of the Ways などで提示した「言葉も通じないほどになってし
まった英米哲学と大陸哲学を結ぶミッシングリンクとしての新
カント派」という思想に触発されて考えたもの。
• つまり、Friedmanの哲学史を、数学思想史、社会学思想史に
敷衍したものになっている。
– 当時のドイツ(現在も?)の基準からすれば、哲学史、数学史、社会
学史などという分類をする必要はなく、どれも Wissenschaftslehre な
のかもしれない。
Friedman の歴史観とは?
• 言葉も通じないほどになっている現代の英米系哲学と大陸
哲学は、そのルーツをともに新カント派の哲学にもち、この二
つの道が分かれていく直前では、新カント派をはさんで、これ
ら二つの道の哲学者たちは意見を交換する術をもっていた。
• それはカッシーラーとハイデガーの著名なダボス討論と、そ
の現場にいた、当時無名の若手哲学者カルナップと、この二
人、特にハイデガーとの人的交流を通して知ることができる。
– 実は、カルナップ、ハイデガーは互の道を理解できていた。
• 林は、これにゲーデルの歴史観を重ね、次のように読む
– ハイデガーを右
– カッナップを左
(本当は右の左傾化ではないか?)
トップからの説明:何をやっているかの解釈 1
•
•
このFriedman の歴史観により様々なものが結びつき、林のバラバラに見える研究が一枚
の岩の上にある理由がわかるようになった。
なぜ田辺が必然だったか
–
新カント派、田辺哲学は、二つの世界大戦とその戦間期のナチズムや日本国家主義の影響で、
現代の我々には見えなくなっている。
–
ドイツ思想史でいえば、ヘーゲルとハイデガーの間にはなにもないというような見方が蔓延してい
る。しかし、ドイツの著名な思想史研究者シュネーデルバッハが言うように、その間には、両者を
凌駕しかねない豊かな哲学・思想が存在した。
特にハイデガー哲学がそれから生まれ出る時代には、それと競合する Max Scheler, Nicolai
Hartmann などがあった。しかし、政治的状況もあり、ハイデガーの影に、これらの思想は消え去
ることとなった。
–
–
そして、同時期に、ハイデガーと直接的人間的コンタクトも保ちながら、同じように新カント派から
抜け出そうしていたのが田辺。
•
•
–
田辺留学時の私的チューターがハイデガー。「存在と時間」で一躍時代の寵児になる前のハイデガーを日本に最初に
紹介したのも田辺。九鬼がハイデガー哲学を知る契機を作ったのもやはり田辺)
田辺の種の論理の初期には、Max Scheler の思想がハイデガー哲学とともに重要だったことが、最近の話などの研究
により明らかになっている。また、この時代のより広い観点からの歴史的過程も、藤田、竹花などにより明らかにされ
つつある。
つまり、政治状況などの影響で忘れ去られているが、田辺、ヒルベルト、ウェーバーは同時代の思
想的ヒーローたちでその間に関係があるのは自然。特に田辺はヒルベルトの日本への紹介者で
もあり、また、批判者でもあった。
トップからの説明:何をやっているかの解釈 2
• 林に似た数学史の研究として、H. Mehrtens, J. Gray のモダニ
ズムと現代数学があった
– これらは、現代数学を、芸術のモダニズムと対比する議論
– 特に最近出版された Gray の Plato’s Ghost 2008 が賛否両論の議論
を巻き起こしている。
– 林の近代性・近代化を視点にした数学史研究は、これとは全く独立
に行われていたもので、芸術のモダニズムではなく、産業・組織など
の modernization への視点を使うものだったが、同じ傾向を持つ。
– そして、Gray は Friedman 関連の新カント派研究の集会のプロシーデ
ィングにも寄稿している。その後に Plato’s Ghost が出版されている。
• Friedman, Michael & Nordmann, Alfred eds. The Kantian Legacy in NineteenthCentury Science. The MIT Press, 2006.
トップからの説明:何をやっているかの解釈 3
• 新カント派の思想史研究の増加
– 最近、新カント派と、それから脱する時代への視線が熱くなってきており、特
に米国やドイツで論文が増えている。(Stanford のエンサイクロペディアでも、
関連項目が充実中。)
– たとえば、先に Friedman 編集の冊子。他に
• Makkreel, Rudolf &Luft, Sebastian. Neo-Kantianism in Contemporary Philosophy.
Indiana University Press, 2010
• Pulkkinen, Jarmo. Thought and Logic -The Debates Between German-speaking
Philosophers And Symbolic Logicians at the Turn of the 20th Century. Peter Lang
Publishing, 2005. (分析哲学系の研究者によるもの)
• 十分な時間の隔たりを得て、この時代の研究が漸く始まろうとしている。
– 林の文系研究は、数学基礎論史に始まり、ソフトウェア工学研究も記号論理
学を利用して始まった。つまり、ルーツが、まさに今研究が始まろうとする時
代にある学問をやっていた。だから、そこに戻っていくことは当然。ただし、そ
れが時のカーテンに阻まれ、それが人々の視界から隠されていた時代が終
わり、カーテンが開こうとしているときに、偶々、これらの研究を始めた。この
偶然が、次々と「意外」な発見が続く理由。しかし、分かってみるとこれは必然
超トップからの説明:当座の結論1
•
•
数学における形式主義(ヒルベルト)は、数学の形式合理化計画であり、公理的集合論は、
そのメディアである。
この数学史を当時の広い文化史・思想史の文脈で理解しようといのが林の研究。
•
それには当然のように田辺やその周辺の京都学派の思想家たちが、日本におけるその受
容と反発という文脈で関連する。
•
ソフトウェア工学的観点からは、ソフトウェアが形式合理性の局地であることから、ウェーバ
ーの合理性理論が関連することは当然。
•
しかし、その生産の過程では、いかに形式合理性をチームの中で媒介するかという問題が
あり、同じようなメディアの問題がおきる。
さらにはWEBの時代となり、すべての人がネットを前提とするようになり、ITは合理性だけで
その時、WEBは知
なく感情のメディアと化しつつある。それがゲーミフィケーションや感情労働にみられるよう
に感情を資本として扱う時代の中心に位置するようになることは必然と思われる。
識、感情、など、す
•
•
その時、今まで説明してきた思想史的観点を利用すれば、これにヒントを与えてくれるもの
べての人間関係、
は、おそらく、ウェーバーの合理性中心の社会学に強く意義を唱え、感情(シンパシー、ル
社会活動のメディア
サンチマン)中心の、連続体的な知識社会学を唱えた、Max
Scheler の思想が重要な意味
として理解される
を持つだろう。実際、Scheler の思想の中心には Teilhabe, participation という概念があり、こ
れは Web2.0 の participation に極めて類似している。(Stanford エンサイクロペディアのシェ
ーラーの和訳 by 久木田をみてみる)
今日言及できなかったこと
• 政治史での類似の研究
– J. Kloppenbergの「via media の哲学者たち」 in “Uncertain Victory”: 政治思想
史 (米・独の政治思想史。Dewey, James, Dilthey, Weber, T. Green, …)
– via media は、この文脈では「中道」という意味。
– 中道とは idealism v.s. materialism、subjective v.s. objective の間。つまり、ゲ
ーデルの左と右とその間の正しい点、という結論に似ている
– Dewey のメディア論のように、これらの哲学者は媒介 Mittelung 的なものを
考えているケースがおおい。
– ウェーバーの形式 v.s. 実質も実は媒介(メディア)がないと意味がない議論
• Giddens の Structuration theory を思い描くとわかる。
• A.N. Whitehead哲学
• ローティなどのポスト分析系(Friedman もそう呼ばれる)の思想