下中弥三郎と湯川秀樹 - 世界平和アピール七人委員会

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Transcript 下中弥三郎と湯川秀樹 - 世界平和アピール七人委員会

立杭から世界に羽ばたいた下中弥三郎
下中弥三郎と湯川秀樹
小沼通二(こぬまみちじ)
世界平和アピール七人委員会委員
下中記念財団理事
2011年11月11日 篠山市さぎそうホール
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下中と湯川
• 立杭生まれの下中(1878-1961)
• 兵庫県西宮市でおこなった物理学の研究でノーベル
賞を贈られた 湯川(1907-1981)
• 社会科副読本『わたしたちの篠山市』 下中
• 道徳副読本『心かがやく』 下中 湯川
• 小学校6年上 社会 湯川
• 中学社会(歴史的分野) 湯川
• 小学校6年国語(三省堂) 湯川:「少数意見」1971年
『自己発見』(毎日新聞社、1972)、(講談社文庫、1979)
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下中弥三郎 没後50年
• 講演会「篠山で考える日本と世界」
篠山市民センター
• シンポジウム(参加者の話し合い)
「地域力を強める -これからの日本-」
篠山市立丹南健康福祉センター
11月12日
11月13日
• 世界平和アピール七人委員会 と
下中記念財団(財団とは、提供された財産を使って、社会
のためになることをする団体) と
下中弥三郎と七人委員会篠山講演実行委員会
が主催
• 篠山市
と
篠山市教育委員会
が共催
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話の内容
• 湯川秀樹とは
• 1955年に 下中(77歳)と湯川(48歳)をつないだ
のは 世界連邦の考え
• 下中が世界平和アピール七人委員会を作った
• 下中にちなむ活動をするために下中が亡くなっ
た翌年発足した下中記念財団
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下
中
世
界
連
邦
の
考
え
小沼
湯
川
下中記念
財団理事
世界平和
アピール
七人委員会
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七人委員会第1回アピールを発表する下中弥三郎
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湯川と小沼
• 京都大学基礎
物理学研究所
にて
• 1970年4月
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湯川秀樹
• 西宮市 苦楽園小学校校庭に「中間子論誕生記念碑」
• 「未知の世界を探求する人々は
地図を持たない旅人である」 (自叙伝『旅人』1958年)
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「未知の世界を探求する人々は地
図を持たない旅人である」
• 指導してくれる先生のいない 世界最先端の
分野の研究で、27歳の時に 生まれて初めて
書いた理論物理の論文が 13年後にイギリス
の実験で正しいことがわかり 42歳の時に日
本人として初めてのノーベル賞をもらった。
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電子の200倍の重さの中間子を予言
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下中
• 明治維新(と西南戦争)の後、日本の中で戦
争はなくなった。
• 世界の軍備をなくし、国連に入っていない国
も含めて世界の議会にして、世界連邦政府を
作ろう
• 1952年 世界連邦アジア会議(広島)
• 1954年 国連未加盟国会議
• 1954年 世界連邦第2回アジア会議
• 下中は準備委員長
• 1955ー1961年 世界連邦建設同盟理事長
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湯川
• 核兵器はなくさなければならない
• 戦争をしてはいけない
• 1955年7月 ラッセル・アインシュタイン宣言
• 湯川は下中の百科事典作成に協力したこと
があった
• 下中が湯川たちの宣言に賛同
• 核兵器も戦争もなくすことができる
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世界平和アピール七人委員会
• 下中がまず湯川に相談
• 自由な立場で世界の平和について発言する
7人のグループを作った
• 1955年11月11日 最初のアピール
• 日本の憲法を大事にしよう
• 核兵器に反対
• 一人一人の命と生活を大事にしよう
• もめごとは、武力でなく話し合いで解決しよう
• 毎年11月に講演会
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第1回アピール発表を報じ
た新聞(記事の一部)
• 1955年11月11日
• 国連発足10周年
• 国連第十回総会に対
する勧告書
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第1回アピールにつけた七人の署名
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下中弥三郎
前田多門
茅誠司
湯川秀樹
平塚らいてう
植村環
上代たの
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下中記念財団
• 下中「教育は大事」
→ 長年 中学・高校の先生
の研究の支援
• 下中「世界各国、とくにインドと中国、に多くの友人」
→
インドの学校の日本語教育の援助
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核兵器と戦争をなくすのは 理想か現実か
• もしも人が絶望から逃れようとするならば、未来
とは過去の単なる延長ではなく、まだ表に現れ
ていない全く新しい可能性が実現される可能性
があるという信念を、取り戻さねばならない。
•
湯川秀樹 1968
• 歴史上、“チェンジ”は次々に起こってきた。
• 君たちは機会の到来に備えておいてもらいたい。
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