Transcript 日本文学概論 第1編
2010/?/? 日本文学概論第1回 『奥の細道』鳥瞰 芭蕉の生涯と作品の成立過程 山梨県立大学 学長 伊 藤 洋 6.15 奥の細道ルート 5.13 村上 武隈の松 笠島 7.15 直江津 雲厳寺 8.15 8.21? 3.27 奥の細道のトポロジー 奥州平泉 5月13日 2 5 その後 6 夏草や兵どもが夢の跡 死まで •路程長:1,118km •路程長:575km •経過日数:111日 •経過日数:45日 4 •記事数:20箇所 •記事数:25箇所 『奥の細道』の成立 蛤のふたみにわかれ行秋ぞ 3 岐阜大垣 8月21?日 行春や鳥啼魚の目は泪 410km 「野ざらし紀行」・「笈の小文」 1 江戸千住 3月27日 月日は百代の過客にして・・・ •1644(寛永21)1伊賀上野に誕生 面 風かに破あ 心関年破海に予するうふ ゝ灸をひをこも屋浜さも。物か年月 •62(寛文2)19 藤堂主計良忠に出仕 八草が りすつてくえ暮ににそい古はべも日 句の別 •66(寛文6)23 良忠(蝉吟)死去 人、馬又は 取 ヾ て づ は ん ゆ 蜘 さ 墅 る 戸 を 、 •72(寛文12)29 「貝おほひ」、江戸へ 、るりもはと春のすれれも日の旅百 に も 庵 住 、の 、立古 ての多々口 •77(延宝5)34 立机・神田上水請負 移 ら 人代 の住 るよ笠 せそ •80(延宝8)37る 佛頂と交流 手、 る巣へ、年く旅と也の り 柱 替 深川に隠棲 の ヾ霞を、漂よ旅にら 方 道 に •83(天和3)40 甲州谷村へ疎開 、 に 過 にる は 緒 。 ろ 去 泊りにしえ舟 松 祖 つ の 、 懸 は •84(貞亨1)41 代 「野ざらし紀行」の旅 人島付か神神空ら年のか死てての客 置 ぞ 古池や・・・の句 •85(貞亨3)42 にのかずののにひの思、せ、老上に 。 ひ 「鹿島詣」の旅 譲月え、ま物、て秋ひ片る旅をにし •87(貞亨4)44 て な り ても に白 江や雲 を •87(貞亨4)44 「笈の小文」の旅 あ栖む生、 の 、先、ゝねつ川、 上まのり か涯行 や き 心 •88(貞亨5)45 「更科紀行」の旅 三 家 杉 引 きのゝのず風 とふ か に里のにて を 。 •89(元禄2)46「奥の細道」へ 、 千住旅立ち~3月27日(5/16) げま のず是 み。を ゆ人矢 鮎 る々立 の 迄はの 子 は途初 の と中と 白 、にし 魚 見立て 送 送な、 る なら行 別 るび道 れ べてな 哉 し、を 。後す かゝ 与謝蕪村筆「奥の細道画巻(逸翁美術館所蔵) 行 春 や 鳥 啼 魚 の 目 は 泪 幻前送きの不て の途るか梢二、彌 ち三。ぎ、の月生 ま千千り又峰はも た里じはい幽在末 明 にのゆ宵つ か の か に 離おとよはに 七 別も云りとみて日 のひ所つ心え光、 泪胸にどぼてお明 をにてひそ、さぼ そふ船てし上まの 野れ空 ゝさを、 。・る 舟 あ ぐが む谷 朧 に 。りが乗つ中物々 てれてまのかと 、ば し花らし 、 、 曾良旅日記書き出し 一 一 ( 「 曾 良 旅 日 記 」 天 理 図 書 館 蔵 ) 廿 八 、 マ ゝ ダ ニ 泊 ル 。 カ ス カ ベ ヨ リ 九 里 。 廿 七 日 夜 、 カ ス カ ベ ニ 泊 ル 。 ・ ・ 尅巳 、三 千月 住廿 ニ日 揚、 ル同 ( 日 ) 出 、 深 川 出 船 。 巳 ノ 下 門人落梧宛書簡~3月23日 ( 三 国 路 与 謝 野 晶 子 紀 行 文 学 館 所 蔵 三 月 廿 三 日 ば せ を 草 の 戸 も 住 み か は る 世 や 雛 の 家 ) れし草に 風上松へ手奉預 る む 庵 障 は 流 を 島 ば 柄レ り 御 やすをらる佳立一又感存、同 うめ人んけ人ち見々心候殊境 ををにもきも出のた不。に又 か 持 ゆ の 旅 あ で お びレ 愈 小 三 したづい寝れ候もご斜其紙郎 くりるかのか。ひこ候元一殿 てけ。が空しみやち。俳束御 れ此とをとちまそ野諧堅下 ば人、おののずぞ生も慮り 、なまもみく、ろ、隆にの 草んづふに・此にと盛被砌 庵 、 衣 に 候 三 廿 な し のレ 、 の妻更も。越六り明由懸芳 かを着、 路日てけ、、翰 は具末心 の江、候御忝に 蝦夷が千島= 義経が消えた地 (袖 某 き ゑ 猶 『 幻ひ と り ぞ 、 住か い に が 善 庵ゆ ふ お 千 知 の 記る も も し 鳥 ( 』に の ひ ま う 初心 、 立 を と う 稿 )よ 多 侍 見 ) は病るや啼 り心をらく ても、ん外 ・と同まの ・な行で濱 ・し曾と邊 ・な良、よ ど何しり 、 平泉~5月13日 夏 草 や 兵 ど も が 夢 の 跡 落り破城ふが下也のに跡 せ関に。ぼ成は三 し」 れ に こぐをて衣れて一代 侍と て 、 り笠山もと隔大川ば、 里の 金 ぬ打河りみて河は、 こ栄 。敷あ、え、に和北鶏な耀 功た南落泉上山た り 一 て 名 部 の 、、一り 入が川みに睡 時城 。口。城南 有の の春時偖を泰を部形。中 うにのもさ衡めよを秀に つし叢義し等ぐり残衡し るてと臣堅がり流すがて ま草なすめ旧てる。跡、 で青るぐ、跡、ゝ先は大 泪み。つ夷は高大高田門 を、館河館野の をた「 国て 此 衣の に 判官びいき 白 石 鐙 摺 塩 竈 神 社 = 和 泉 三 郎 の 宝 塔 寺 無 小 1190年頃 平宗清、伊賀柘植を領有か? 名 松 松尾家はその末流??? 庵 多 = 太 1581年9月 織田信雄,伊賀攻め⇒ホロコースト 膳 神 1585年8月 筒井定次,大和郡山から伊賀上野へ移封 所 社 1600年9月 関ケ原の戦い 義 = 仲 斉 1608年9月 徳川家康、藤堂高虎を伊予から伊賀上野に 寺 藤 転封 別 当 實 異民族統治⇒敗者へのまなざし 盛 1160年3月 頼朝、池禅尼・宗清の嘆願で流罪に 1160年1月 源頼朝、弥兵衛宗清に逮捕さる 福 島 飯 塚 佐 藤 庄 司 が 旧 跡 ・ 医 王 那 須 八 幡 神 社 = 那 須 与 一 終着大垣~8月21日?=陽暦10月4日 ( 『 曾 良 旅 日 記 』 よ り ) 江人馳六 ヘ、走日 着三。 。リ越同 (送人( 以ル、天 下。船気 略餞場吉 )別迄) 有送。 。ル辰 申。尅 の如出 上行船 尅、。 、今木 杉一因 、 蛤 の ふ た み に わ か れ 行 秋 ぞ 伊いく夜前人のの 勢ま、と川も庄ゝ 露 のだ且ぶ子馬に国 通 遷や悦ら・を入へ も 宮まびひ荊とばと て口ば、伴此 おざ、 且、父 曾ふみ る が い蘇 せ 。な まにた生子て良駒 と 、、もに ん、 長はの其如伊 ま と月るも外 たで 行 勢 、 。のし す 又六旅 がよけ出 舟日のにた家りら む にに物あしに来れ か のなうふき入り ひ て りれさが人集合て てばもご々る、大 、 、 、 と日。越垣み 八 月 十 八 日 ? 敦 賀 出 発 大垣藩次席家老戸田如水の評価 で様 子 申 一 五 ざも 数 帯 の に れ 人 由 招 自 付 に 一 四 申に 二 す 日 る、 珠 に 本 お 有 に 。 き 分 き 泊 日 し、 表 に 芭 有浮 を 布 綿 も る 誘 尾 対 病 、 り 桃 遣旅 、 付 蕉 様世 手 の 小 む 故 引 張 顔 中 種 、 青 をに編袖く、せの。と々所事 は宿 両 き ・ 也 安掛服(と拝ら俳そい申労( しの 人 、 路 。 くく。帷いみれ諧のへし昨門 畢亭 の 風 通 見る路子へに、者歳ど、日弟 ぬ主 頭 防 明 な。通ヲり伊近越四も他よハ 。竹 巾 の 日 者り、 忍 島等た伊 勢 日 拾 人 し心は綿。 芭 今 故 入 び 白 六のめ勢 本 の 大・六 、底 日 へ計きト 方神伊、に、復蕉 郎用南の 芭 つ 室 ト 勢 生 ス て へ 木 兵意蛮地 らり 。蕉一宮路 初下の呼 衛に酒へ 難綿墨体 御 国 屋旨) わ はめ 承、 と仕一越 けの染は両遷の ず 日宮曾伊てにる如 小 こり樽ゆ れ 奢 ) 布の 良賀之て 行 る 、 ろ候・ 袖 に ど 細裏 こ ら 、 紙 方 内 を 両 由 の ま 。 此 ふ す ま と ら れ け む こ そ 本 意 な け れ た た み め は 我 が 手 の あ と ぞ 紙 衾 首 出 し て は つ 雪 見 ば や 此 衾 竹戸への紙衾贈呈 をぎ 国 難 昼 に 千 越所 の あ こ の く 翼 の へ 慕て 大 を は は 里 路に い ら の 逸 、 に 上 て 古 ふ、 垣 わ た 、 の のて ぶ ず 紙 物 そ の に 、 き 恋 霜 貧 の せ。のと ちは 枕 者 の た た 外 浦、 と あ に に 者 さ 蜑 衾 、 せ の い、 に 府 り み 狭 の 々る 世鴛ひ古 うの に 、 て 月 、 を の は ん ほ 鴦、き を 、ひ ち情 至 つ 背 筵 を 山人 思 苫 、 恋む残かを哀衾 の ひ の を 屋 ひ 中 く る に き や 館作 にべりこぬ傷は 破 て の に ど れ 。頭 ・ もなとつひと、 り 野 り 、 る な 蚤 負 し ぬ もす貴 こ ほ を ひ ぎ 、 亭得 出 を あ り ど 。 。と も 白 り 蓬 のさ 羽 い ら け ま か の 。 妃 、 な 心 く 三 す ・ 枕せ の と ず ら れ れ に 錦 が か の し 百 を 葎 のた 国 ひ 、 し ら は し 床 形 んそての見 れ 侘 て 余 聞 の 上る 最 、 無 。 敷に 上駅常いをの、夜 越 曾 竹 里 とび、 よ き寝 な で 二 美 膚 人 良 戸 、 を の て はり と の に や や つ の り こ 継 濃 険 、 の 、。 い 埴 も 、 に の 褥 伝 下二 ふ生 、恋近 れ の 「奥の細道」の成立 蘆野の遊行柳~4月20日 栃木県那須郡那須町芦野 田 一 枚 植 て 立 去 る 柳 か な 芦野民部資俊 のこと そにり戸に 立やに部あ又 よとの某り、 り思給のて清 侍ひひ、、水 田な つし聞「 此の を れ え柳 が 。、給み畔る 今ふ にゝ 日をせ残の 此、ばる柳 柳いや。は のづ」 な此、 かくど所蘆 げの、の野 にほ折郡の こどを守里 森川許六著『旅懐狂譜』 (元禄6年5月15日) 『細道』成立期 • • • • • けを 三 見 け も 奥 て感 十 つ て が 羽 我 、じ 余 け 夕 夢 象 が 風て 程 、 涼 を 潟 翁 流、 を 蛤 み 驚 を 、 をは 吟 の 、 か 廻 白 尽つ ず 二 佐 し り 河 くか 。 見 渡 、 、 の さな 曾 に に あ 高 田 るる 良 わ 横 つ 館 植 。一 が た た み の 唄 鉢落りふ山夏を の髪て天ふ草聞 飯の、のくにき を力七川原兵て 分量百をかど、 野坡本 蛤荒あ夏風 の海つ草流 ふやみやの た佐山兵初 み渡やどめ にに吹もや わよ浦が奥 かこか夢の れたけの田 行ふて跡植 秋天夕 歌 ぞ河す ヾ み 桃戸 酔部 某 元= 禄旗 五本 年・ 六芦 月野 二( 六3 日千 死石 去) 民 部 資 俊 、 俳 号 此いな郡里 柳づど守に又 のく、故あ、 かの折戸り清 げほを部て水 にどり某、な こににの田が そやの、のる 立と給「畔ゝ よ思ひ此にの りひ聞柳残柳 侍しえみるは つを給せ。、 れ、ふば此蘆 。今をや所野 日、」のの 『細道』諸本 芭蕉自筆本=野坡本(中尾堅一郎氏所蔵平成8年11月25日) これをもとに 利牛浄書の第二次原稿 これにも 芭蕉が加筆=第三次原稿=決定稿=曾良本⇒天理図書館蔵 なお、さらに • 素龍清書=・・・・⇒柿衛本(昭和35年10月) • 素龍清書=芭蕉持参して兄に贈(元禄7年5月28日)⇒去来⇒西村本 (昭和9年7月13日発見)・井筒屋庄兵衛板行(元禄15年) • 明和版 • 寛政版 常にベストセラー 旅の後、江戸帰着まで 元禄2年9月末:伊賀上野帰省 元禄3年4月6日:国分山幻住庵に入庵。7月 23日まで滞在。この後『幻住庵の記』執筆開 始 元禄4年4月18日:5月4日まで西嵯峨落柿舎 滞在。『嵯峨日記』執筆開始 元禄4年7月4日:京都井筒屋 庄兵衛より去 来・凡兆共撰『猿蓑』出版 俳諧の古今集=『猿蓑』 晋其角序 俳諧の集つくる事、古今にわたりて此道のおもて起べき時*なれ や。幻術の第一として、その句に魂の入ざれば、ゆめにゆめみるに 似たるべし。久しく世にとゞまり、長く人にうつりて、不變の變*をしらし む。五徳*はいふに及ばず、心をこらすべきたしなみなり。彼西行上 人の、骨にて人を作りたてゝ、聲はわれたる笛を吹やうになん侍ると 申されける*。人に成て侍れども、五の聲のわかれざるは、反魂の法 のをろそかに侍にや*。さればたましゐの入たらば、アイウエヲよく ひゞきて、いかならん吟聲も出ぬべし。只俳諧に魂の入たらむにこそ とて、我翁行脚のころ*、伊賀越しける山中にて、猿に小蓑を着せて、 俳諧の神を入たまひければ、たちまち断腸のおもひを叫びけむ*、あ たに懼るべき幻術なり*。これを元として此集をつくりたて、猿みのと は名付申されける。是が序もその心をとり魂を合せて、去来凡兆の ほしげなるにまかせて書。 元禄辛未歳五月下弦 雲竹書 江戸帰着~元禄4年10月29日 世の中さだめがたくて、この六年七年がほどは旅寝が ちにはべれども、多病くるしむにたへ、年ごろちなみ置 ける旧友・門人の情忘れがたきままに、重ねて武蔵野に 帰りしころ、ひとびと日々草扉を訪れはべるに、答へた る一句 ばせを ともかくもならでや雪の枯尾花 その後・・・「かるみ」の完成期 元禄5年5月 第三次芭蕉庵 元禄5年6月26日 芦野の民部資俊死去 元禄5年8月9日 森川許六入門 元禄6年2月2日 呂丸、京都で客死 元禄6年3月 甥の桃印芭蕉庵で死去 元禄6年7月 「閉関の説」、引きこもり 元禄7年4月 『奥の細道』完成 (遊五撰『雪の尾花』) 「談林⇒かなくぎ⇒蕉風⇒ 不易流行⇒かるみ」 もはや世に理解者が無く。 俳聖の最期 元禄7年 1694年 5月11日 素竜清書「奥の細道」持参して最後の西上 5月28日 伊賀上野着。その後、膳所や嵯峨野へ 6月2日 寿貞死去。6/8:落柿舎で受信 7月15日 上野で最後の墓参「数ならぬ身とな思ひそ玉祭」 9月8日 終焉の地・大坂へ出立「菊に出でて奈良と難波は宵月夜 」 9月12日 之道・洒堂の手打ちの会。体調至って不調 9月21日 病状急変、悪化 9月27日 園女邸にて会「白菊の目に立ててみる塵もなし」 9月29日 芝柏邸俳会を欠席「秋深き隣は何をする人ぞ」。以後病臥 10月5日 南御堂前花屋仁右衛門貸座敷 に移動、危篤の報発信 10月8日深更 呑舟に「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」を筆記させる 芭蕉の病室(義仲寺蔵) 10月10日 遺書3通を口述筆記 俳聖の最期 ~兄への遺書(10/10) • 市兵へ=貝増卓袋 • 治右衛門=苔蘇 • 意専=窪田意専=猿雖 • 十左衛門=山岸半残 • 半左=服部土芳 • ばばさま=兄嫁 • およし=末妹 • 又右衛門=およし息? • 新蔵=井筒屋片野新蔵 新 蔵松 は尾 殊 に半 骨左 被衛 レ 折門 、様 忝 候 。 上ば殿得治至被 如御 ゞ、奉右レ レ 何先 レ 十 さ右頼 衛爰寄 様に 共立 月 ま之候門申、 御 通 殿上 ・ お。。 る心 又候 段 右 静 よ 中・ 意事 し に專無に 衛、 残 門 も 御 力 老二 念 便 十 臨 御 落 を 可 左初座終 にレ シ 可 衛 一 可 被被 、候 レ レ 二 レ 門 不 成思 申 。 被 桃 レ 殿 市レ 、 候 召 残 青 ・ 御 一 兵成 。 半 ( 御 書 以 左 へ候 年候 心・ 判 。 。 ) 俳聖の最期~元禄5年10月12日 10月12日 小春日和の午後4時頃、死去。享年51歳 10月12日夜 遺骸を宇治川経由伏見へ運ぶ 10月13日早朝 義仲寺に到着 10月14日 午前零時、義仲寺境内に埋葬。導士・直愚上人。門人80人を含む 300余人が会葬 10月18日:追悼百韻俳諧 なきがらを笠に隠すや枯尾花 其角 「芭蕉翁絵詞伝」(義仲寺 蔵) ぐ る 旅 に 病 夢 ん は で 枯 野 か を け め 膳所義仲寺 http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/ypu/index.htm 日本文学概論 第1回 第2・3回