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松山ロシア人墓地のうつりかわり
070781153
小津翔平
(A)忘れられたロシア人墓地
(1)クルト・マイスナー(70歳)
(ドイツ会社の機械輸入商を経営)
(1914年11月から2年半捕虜生活)
1955年4月 友人の霊を慰めるため妙見山訪問
a)松山市にあり通称弁天山
b)墓の墓標が存在
郷土史家が案内→ドイツ人の墓と紹介
理由:ロシア将兵の名前入り銅板盗難
(3)1959年12月24日
露人墓地の改装についての文書を発行
大蔵省管財局長
(墓標の一部が傾き早晩崩壊の危機)
a) 来迎寺境内200坪が移転先
b) 松山市が移転工事開始
(B)捕虜の最初の墓
(1) 松山ロシア人墓地の歴史
a(日露戦争で捕虜が約79000人
b(国内29ヵ所に輸送(最も早いのが松山)
(1904年3月18日開設)
c( 6019人の捕虜(将校や傷病兵が主)
最初の死者ゲルシク・シトープスキー
(妙見山の露人墓地に埋葬、
丸山墓地に埋葬の説があり真偽不明)
その後、さまざまな宗教の木製の墓が建立
(2) 1905年9月21日早朝
a) 海軍大佐ワシリー・ボイスマン死亡
(心臓病と胃がん)(松山唯一の将校)
死亡処置→ 日本人司祭などの4人で祭式
ロシア人捕虜が感謝
海南新聞に会葬御礼を出し謝意
(3) 1906年2月16日
イワン・メヤール、最後の捕虜
(C)大佐の墓になった合葬碑
(1) 1906年2月16日
墓標をすべて撤去
高さ1メートルほどの四角い石柱に統一
(兵士の階級、死亡年月日、名前を記入)
(2) 1960年11月
松山市がロシア人墓地を移転
(御幸1丁目の来迎寺)
墓の配列はほぼ同一
用地の制約により死亡、階級順でない並び方
元の墓の遺骨を全部、合葬碑に埋葬
この移転により秩序や尊厳回復
(3) 1965年4月25日
戦後二回目の慰霊祭を開催
そこで合葬碑をボイスマン大佐の墓と発表
(病没捕虜の合同石碑が将校の墓に変化)
(D)才神時雄とロシア人墓地
(1)1962年3月
才神時雄が岳父の病気見舞いに訪問
(2) 才神時雄
「1917年 青森生まれ
早稲田大学中退
兵役に就き、北満国境警備のため移転
1942年 兵役解除
新京特別市で雑誌編集員の時終戦
そこから4年間シベリアのブカチャーチャで捕虜」
(3) ロシア人墓地を訪問(墓地の存在を確認)
死まで28年間、墓地を訪問
(4) 才神は捕虜の取り扱いなどを検証
(「海南新聞」、関わった人から事情聴取)
同じ捕虜の違いを発見
報道記事の誤りを発見
(E)名著
(1) 伊予史談会の蔵書に事実に近い本の存在
→(松山収容露國俘慮)1906年2月発行
これを借り一字一句もらさず筆写
→鵜呑みにせず実証
例
捕虜の食事を作り実食
逃亡兵の逃避行のルート調査
(2) 1968年7月
6年かけ「松山収容所ー捕虜と日本人」を発行
(3) 深谷憲一の評価(元日本経済新聞文化部長)
旧敵国捕虜に人道的
明治時代の武士道がまだ残りと供述
事実に近く、才神の労作と評価
(F)終わりに
(1)ニュージーランドのウェリントンから車で1時間
フェザーストン・日本人収容所(約800人)
自決や作業を拒否が大半
→日本人捕虜はジェネーブ条約を無知
そのため墓や記名碑さえ建立できない現実
共通な事は国民の文化と歴史認識
(2) 捕虜は国家に翻弄された民
→今までの歴史の教訓を参考すべきと供述