紙漉き経験者の話へ - SCHOLA-SHISHI

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Transcript 紙漉き経験者の話へ - SCHOLA-SHISHI

Oさん(88歳)の話
(旧引佐郡引佐町、的場。1982年5月)
楮と三椏を材料にした混合紙が中心で、障子紙、唐傘紙、茶紙を主に漉いていた。
原料の楮と三椏は自分の家でも栽培していたが、不足分は近隣の村々から、時には県外の高知県からま
で購入した。
おじいさんは大正初め頃から昭和40年頃まで、この地域では最後まで和紙を漉き続けた人であった。
22~24歳の3年間は年200円の契約で、紙漉き工場で働いたこともあり、技術的にはかなり高く評価さ
れていた。
昭和初めの紙の値段は、24枚40帖(960枚(一〆)で、6~7円で、どんな紙でも10円 (当時、米1俵8~9
円)になることはなかった。
紙漉きは冬の仕事で、いわゆる農閑期に一家あげてあたった。紙を漉くには6人の下働きが必要だと
言われるくらい手間のかかる仕事で、特に、冷たい川での水洗いや川晒しは、女性(特におばあさん)
の仕事で、かなり厳しく、つらい仕事だった。
印象
88歳とは思えないほど元気で若々しく、漢字とお経の勉強を続けているそうだ。話の中で酸性とかア
ルカリ性とか6とか7とかの数字を持ち出し、PH(水素イオン濃度)のことを知っていたのには驚かされ
た。
Tさんの話
(旧引佐郡引佐町、1982年7月)
引佐町井伊谷地区は楮や三椏から作る上質の紙ではなく、いわゆる再生紙(故紙)を主に漉いていた。
宗良親王(むねながしんのう)に仕えた高井一族が、この地方に住みつくのに、生まれた故郷の産業である紙漉きを、高井
郡(長野県)から連れてきた職人に、漉かせたのが始まりとされている。
当時の紙漉き職人は、紙漉き技術だけを取り上げられ(利用)、地域ではよそ者として扱われ、村づきあいをさせてもら
えなかった。「横尾、白岩、牧花平、紙を漉かぬは寺ばかり」とこの四つの部落では、寺以外の家では毎日のように「すい
ちゃ、うっちゃ、かっちゃ、くっちゃ」と紙漉きの日銭を稼ぐのに忙しく、そのお金でお米を買い、生活をしていた歴史が
残っている。
再生紙はくず紙、ぼろきれなどを集めてきて、不純物を取り除き、大きな釜で煮て、晒し粉を入れ漂白し、後は一般の紙
漉きと同じ方法で行なった。
当時は、紙のことを「お金の耳」と言って、紙くずがお金になった。このように、紙は貴重だったので機械化(大正7~8
年)されるまでは便所に行っても、紙を使わず、藁(わら)を使用したとのことである。
紙を使うようになってからも「便所では絶対に鼻をかむな」と厳しく躾(しつけ)けられた。外で鼻をかむと必ず紙くず
箱に入れ、再び使うことができるからである。
昔は回収された紙くずやぼろは浜松(堀どめ運河・・現在の国鉄浜松工場)から船で宇布見、山崎を回って都田川を渡り、
金指で荷を降ろし、せりにかけられた。この地域の領主、近藤氏は直轄のせり市を開き、利益をあげた。しかし、機械化の
波によって全国にあった和紙の産地は急速にさびれていった。
印象
Tさんは、藁葺きの家(愛知県から職人をよんで葺いてもらう)に住んでいた。この地方に古くから受け継がれている
「横尾かぐら」保存会の会長を務め、地域文化の発展に尽力されていた。
また、木の切り株などを利用した造形作品によって国からも表彰されたことがあり、見識の高い人だと感じた。
TさんとO(上阿多古公民館館長補佐)さんの話
(1982年7月)
この地方の紙漉きは、天竜市史(西島中村家文書)によると寛永年間(1624
~1643年)、時の遠州代官、宮崎三左衛門道次(袋井に代官を置く)から大庄
屋、中村十茂にあてた書状に、「茶、椎茸、和紙紙(わしかみ)、鮎給わり」と
あり、また元禄5年(1692年)の芦窪明細帳にも、「農作の間、冬春男は紙漉き
申候う」とあるところから、この時代の紙漉きは農閑期の仕事として行われてい
たことが想像できる。
さらに、それ以前から紙の原料の楮は、栽培されていて、これを美濃(岐阜
県)や内山(長野県)に出荷し、現金収入にしていた。
しかし、途中から紙すき技術を導入してからは、地元の産業として漉き始めた
のではないかと思われる。
前述の中村十茂は、明和年中(1764~1771年)に「阿多古紙」の品質向上を
図るため美濃からわざわざ職人を雇い入れ、美濃紙を漉かせたが、期待していた
ような結果が出ず、安永元年にはあきらめて中止した。
続き
TさんとOさんは新聞でも報道されたように、
今では全然漉かれなくなった「阿多古紙」を地
域の子供たちに残そうと製造工程を復活させ、
漉いて見せている。どこの地方でも共通するこ
とだが、和紙の全盛期は明治半ば頃までで、大
正時代にドイツから機械紙の技術が導入されて
からは加速度的に衰退していった。
静岡新聞(1982.4.21)
下の表は、寛政2年(1790年)の紙漉き
戸数増減表である。
和紙の価格の変遷(大正13年~昭和27年)
阿多古上組、紙漉家数増減表(軒)
安永4年
寛政2年(1790)
和紙1〆
大正13年
大正15年
昭9年
昭和27年
13円20銭
11円21銭
11円21銭和
4400円
( 48 枚 20
帖)
西藤平村
11
18
東藤平村
6
11
(60kg)
長沢村
10
13
玄米1俵
芦窪村
5
11
阿寺村
5
8
傍山村
0
7
石神村
6
10
上野村
12
20
合計
55
98
白米1俵
17円60銭
16円50銭
(60kg)
大工日当
酒1升
簀 ( 編 み
1円50銭
3000円
1円30銭
500円
250円
賃)
新聞代
あら茶
(1貫)
250円
1600円
紙漉きによる収入は、年間総収入の46%もの割合を占め、地域経済の大き
な支えとなっていた「阿多古」紙は、唐傘紙(楮と三椏の混合紙)を中心
に漉いていたが、昭和20年代後半に洋傘が普及し始めてからはほとんど漉
かれなくなった。
紙を漉くことで、最も神経を使ったのは厚さを均等にすることと更に重
量の面でも1〆(960枚)の重さが、1貫820匁(1貫=3.75kg、1匁=
3.75g)から1貫840匁の間に厳しく限定され、紙屋は10匁から20匁の範
囲(現在でいうと約1000枚を100gの誤差内におさえる)で要求して
きたとのことである。それによって、価格も決定された。
漉く技術の高さが価格に反映された。この紙の厚さで、それぞれの厚さに
応じた唐傘を作った。
印象
子供らに伝統の和紙を残してやろうとする熱意が伝わってきた。また毎
年夏休みには、手漉き和紙の体験学習も上阿多古公民館で行われている。
Nさんたちの話(西黒田)
1982年8月)
農業経営記録簿の一部
Nさんたちの話によると紙漉き農家には紙屋(かんや)と屋ばれる部屋が
あり、その部屋には絶対子供たちを入れなかった。それは、子供がふざけて
遊んでいて、漉いた紙に手でもついてしまったら、すべての苦労が水泡と化
し、収入が消えていってしまうからである。
それだけに親は神経をつかって、子供たちにはとても厳しかったそうである。
Nさんのお宅で見せてもらった『製紙兼営普通農業経営簿』(引佐郡伊平村
西黒田、Y.N、大正4年)には、当時の経営状態が詳しく記載されていた。
Nさんは1日の報酬としてはかなり少ないが、暇を利用し、労働力には女性を、
そして夜にできることから、紙漉きは適当な副業になったと結論している。
印象
和紙の話を聞かせて欲しいと電話して伺ったところ、昔紙を
漉いたことのある近所の人たちにも声をかけてくれていて、
当時の様子を詳しく聞くことができた。さらに道具類も頂い
てきて、現在でも使わせてもらっている。
楽しい1日だった。
内訳
代金
手漉き和紙に要する資本
22円69銭
和紙原料代
204円43銭5厘
労働延べ人数(1月から10月
449人6分4厘
収入総額・
361円64銭
支出総額
282円94銭7厘
差し引き額
140円69銭3厘
一人当たりの報酬・
31銭
Tさんの話(久留米木)
1982年8月)
Tさんからは面白い話を聞いた。
この地域では、紙を干すのは女性の仕事で、かかとが地に付いて動く
ようでは駄目で、とにかく忙しく、身軽に行動するように言われてい
たらしい。
そして、 嫁にもらうなら紙漉き農家の女性に限ると言われたほどで、
紙漉き農家の女性はよく働くことで評判が良かった。
紙漉きが技術的に難しかったのは、障子紙より唐傘紙であった。
性格的には、そそっかしい人が障子紙を漉き、唐傘紙を漉く人は、根
気と忍耐が要求された。
Mさんの話(岡部町)
1982年6月
お茶摘みで忙しい中、時間を作ってもらい聞いてきた。
道具などのイメージがまだはっきりと理解できていないと
きに、当時使っていた道具類を見せてもらって、認識する
ことができた。
この地域は、『朝比奈紙』として有名で、200年の歴
史があり、興津などの『駿河紙』に混じって、お茶生産地
と大きな関係があった。
つまり、茶紙の需要をまかなうためには必要だった。
原料は楮を使用し、強靭だったので紙子(かみこ、和紙
をもんで柔らかくして作った保温用の上着)としても使用
した。
大正から昭和にかけては唐傘紙、茶紙、ちょうちん紙な
どの紙を漉いた。
叩解棒