西日本区10年の歩み

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Transcript 西日本区10年の歩み

本パワーポイントは、2006~2007年度を締めくくる西日本区大会で、発表されたものを、ホームページ用に
再編集したものです。このため、ナレーションに代えて下部にプロンプトを記載しています。
画面をクリックして頂く度に、次の画面に移ります。
1997年、第42代日本区理事 名古屋グランパス 吉田一誠 より、東西へ渡されたワイズのバトン、
西日本区へは初代理事 岡山 佐々木宣夫 にリレーされた。
西日本区事務所を土佐堀の大阪YMCAに構え、
区事務所を土佐堀の大阪YMCAに構え、
大阪河内 伊藤圭介 を事務所長に活動を開始した。
区事務所を土佐堀の大阪YMCAに構え、
大阪河内 伊藤圭介 を事務所長に活動を開始した。
理事活動主題を「ビジョンを掲げ、青年と共に働くワイズ」とした区のキックオフは
新クラブラッシュとなった。
大阪ベクセル7月1日、
京都トゥービー7月13日、
熊本むさし8月3日、
米子11月9日、
翌年4月11日芦屋である。
1998年1月の半年報による2,034名は10年後の現在まで西日本区最大の会員数である。
1997年11月第1回ワイズメンズクラブ・YMCAフォーラムが大阪YMCA六甲研修センターで
開催され、略称してYYフォーラムのスタートとなった。
YEEPリサが高校2年生を過ごしたのもこの年度である。大阪サウス 鈴木誠吉コンピューター
委員長のもと、IT化が進められ事務手続きの省力化が計られた。
1998年、西日本区2年目は「さあ!実行のとき」、大阪河内 伊藤圭介 が就任。
まず、区定款と細則を見直すべく京都ウエスト森田恵三を委員長として組織検討委員会が
組織され、「2000名のワイズメンの利益を最優先」とのコンセプトを掲げ、5年にわたる検討が
始まった。早速、99年より事業主任の呼称が現在のように改められた。
1995年の阪神淡路大震災にあたり 京都キャピタル 岡本尚男日本区理事が提唱した3年に
わたる神戸YMCA復興支援は終了し、日本の各クラブから2000万円にならんとする献金が寄せ
られた。
区のリーダーシップは 大阪土佐堀 灰谷隅夫となった。
「21世紀に向かった新しい創造を」と掲げた1999年度は、第18回アジア地域大会の開催された
年度である。
9月に北海道十勝に870名が集い、自然環境と地雷廃絶への「十勝宣言」が採択された。
STEPとして姫路グローバル 前田コメットがデンマーク トレホイエクラブを訪問した。
岩国クラブは、6月23日にチャーターナイトを開催、山口県にはじめてのクラブが誕生した。
この年度は、トルコ・台湾・有珠山と自然災害が連続して発生、480万円の支援金が寄せられ、
日本YMCA同盟をとおして献金され、一部は台湾区や東日本区へ直接支援された。
次期会長主査研修会では、3月26日、当日に米寿88歳を迎えられた鈴木謙介名誉理事から
「ワイズあれこれ-ワイズっぷりがいいワイズメンを願って-」とのテーマで講演が行われた。
2000年度、21世紀のスタートは、「イノベーション、革新」をテーマに、
熊本 吉本貞一郎 が理事に就任した。
数年ぶりにYEEPとして鹿児島 山下コメットがブラジル サンパウロへ、
また、STEPとして姫路グローバル 橋崎コメットがデンマークを訪問、
Y3-West、九州ヤングとコメットユースの活動が盛んな年度となった。
新クラブとして12月に大津のチャーターが行われた。
何より衝撃的な出来事は、4月末、引継ぎを目前に、京都グローバル 次期理事大槻隆彦が急逝
したことである。鹿児島での区大会は、追悼、涙の引継式となった。
2001年度は、京都グローバルを理事ホームクラブとして、故大槻隆彦次期理事の主題「No Dream
No Future クラブビジョンを語ろう」を引き継ぎ、吉本貞一郎 が2年目の理事に就任した。
数年にわたった組織検討委員会から西日本区定款・同施行細則改定案が提案され、
代議員会にて1回目の承認が行われた。
また、「ワイズ必携」が刊行されワイズ理解の手引書として、
ワイズメンの研修に活用された。
4月に新クラブとして熊本みなみがチャーターされた。
台湾でのアジア大会は中西部や大阪西クラブが行った台中大震災被災地への
「21世紀の杜」を訪れる機会となった。
2002年度、「ベクトルを合わせ、地域と共に活動を」とテーマを掲げ、
長浜 臼井征郎 が理事に就任した。
8月にオーストラリア・シドニーにて開催されたユースコンボケーションには10名の参加があった。
また、この第65回国際大会では、102歳のワイズメン、大阪 三井満寿雄 にワイズ最高の栄誉で
あるバランタイン賞が授与された。
8月には最初の地域奉仕研修会が大阪高槻で、YYフォーラムは3月9日、奈良生駒山麓公園
ふれあいセンターにて開催された。
YMCAのない県、宮崎へのエクステンションは、4月27日にチャーターを迎えた。
ワイズアカデミー委員会は、ワイズリーダーシップ開発委員会となったが、
ワイズ国際大学構想、生涯教育の場とする遠大なる将来構想のスピリットは残っている。
区定款などの変更は、この年度に第2回目の代議員会の承認を受け、国際協会に提出された。
2003年度は、京都パレス 大野嘉宏が理事を勤めた。
そのテーマはワイズによる豊かな人生を次の世代に伝えて行く「未来に架ける橋」であった。
日本YMCA同盟は100周年をむかえ10月25日には記念式典と
元国連高等難民弁務官 緒方貞子氏の講演が行われた。
そのテーマ「平和への道」は、メネット事業などこの年度を象徴する内容となったようである。
また、クリスチャニティー特別委員会が設置された。
加賀温泉「百万石」での区大会後の懇親会は850名が大広間の宴会場に座る壮大なものとなった。
YMCAサービス事業として販売したワイズ浴衣も好評であった。
新クラブは、2004年4月25日、熊本ひがし、
7月18日に京都東稜がチャーターされた。
2004年度、「”皆な仲間”働こう!!」とテーマを掲げ、京都さくら 柴田善朗が理事に就任。
また、アジア地域会長として大阪土佐堀 長尾ひろみ がその任に赴いた。
区では、その支援の意味もこめて目標としたエンダウメントファンド2万ドルを達成した。
阪神淡路大震災から10年、神戸で開催された区大会でのパネルディスカッションは、
あらためて私たちワイズ・YMCAの奉仕の心を再確認する機会となった。
家族で飢餓や惨事を思い食事代をささげるファミリーファスト/FFが、区の事業としてはじめて、
支援を必要とする子供たちへささげられた。
また、Stop HIV/AIDSレッドリボンピンの販売がメネット事業として始まった。
新クラブは、2005年6月25日に京都ウェルがチャーターされた。
2005年度は、四日市 佐野文彦 が理事を勤めた。「すすめ、愛と勇気をもって」をテーマとした
この年度、国際協会はワイズのイメージづくりを目的に世界統一事業UGPとして
「Stop
HIV AIDS」への5年の取り組みが始まった。
また、西日本区事務所は大阪YMCAの事情から新大阪から徒歩圏内の地に移った。
FF献金は、初めて国際的なプロジェクト
「カンボジアでのエイズ患者や地雷被害児の支援」に用いられた。
メネット事業は、YMCAで学ぶ留学生を支援しようと「全国YMCA日本語学校スピーチコンテス
ト」が行われ、ワイズYMCAらしい国際的な事業となった。
2006年度、大阪高槻 森本 榮三 が第10代理事として、
「一人はみんなのために、みんなは一人のために」とかかげて就任した。
国際のユース参画(YIA)事業として認められたユースクラブが東日本区横浜についで
姫路Y3としてチャーターを迎えた。
韓国プサンで開催された国際大会の席上、バランタイン賞が、大阪土佐堀
今村一之 に贈られた。
年々減少する会員に危機感を感じ、「2000推進チーム」がEMC事業の小委員会として設置された。
「ワイズ必携」の改定が、東日本区、日本YMCA同盟の協力のもとに始まった。
また、京都国
際大会から20年を迎え、国際大会の日本誘致の検討もはじまった。
もちろん、西日本区のメネット会も10年を迎えた。この10年のメネットの支援活動を追ってみよう。
1997年、西日本区最初のメネット事業主任、広島 山野みき子 は、
骨髄移植推進財団支援と1991年より継続事業の地球ウェルネス。
1998年は、和歌山紀の川 坂本智、ヒヤリングドッグを育てる会への支援。
1999年、土佐堀 北村京子は、聴導犬・ヒヤリングドッグを育てる会への支援を継続。
2000年、熊本 陳 貞惠は、障害者自立の店ひまわりとカフェひまわりの支援。
2001年、京都キャピタル 仁科節子は、介助犬を育てる会への支援。
2002年は、大阪長野 白井公子、スペシャルオリンピックス理解を進め、
長野冬季世界大会のための支援。
2003年、京都トゥービー 畑本久仁枝は、スペシャルオリンピックスと
アフガン難民の子供たちのための「絵本づくり大作戦」。
2004年度、大阪西 石合昭子は、Stop HIV/AIDSへの支援とスペシャルオリンピックス支援、
2005年に長野で開催される冬季世界大会に向けて2200枚のTシャツを販売し、
「500
万人トーチラン」を支援。
2005年度、熊本ひがし 菅 美代子は、身近なYMCA留学生に愛を注ぎましょうと支援を訴え、
大阪YMCAにて留学生による日本語スピーチコンテストを開催した。
2006年度、大阪豊中 松田洋子は、YMCAが行った「全国YMCAピース・リーダーシップ・プログラ
ム」の支援。特に、「エイズと共に生きる」・「YMCAにおけるキリスト教精神」をプロデュース。
以上、この10年に、多くの意義ある活動がメネットにより提案され、より良き社会・理想の実現と
いうワイズの目的への努力となった。
たかが10年、されど10年。私たちワイズメンズクラブ西日本区は、私たちのモットーとともに、
この10年を歩んできた。もちろん、次の10年も今までと変わらぬ活動が展開されるであろう。
ただ、日本経済の変動に伴う、社会の変化をYMCAと共に強く感じた。
決してバラ色でない10年であった。
この10年のメン、メネッ
トそしてユースの懸命な忍耐が、新しい私たちの練達となり、
希望へと続けば幸いであ
る。この10年の恵みに感謝しよう!