初期の外交

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Transcript 初期の外交

江戸時代初期外交
カトリック
側の情報
プロテス
タント側
の情報
宗義智らの念願で
あった朝鮮貿易が復活
家康の対外関係
幕府は、海外との貿易を統制し、キリスト教を禁止する
という対外政策を推進
秀吉の朝鮮侵略
「4つの窓口」
明との国交再開
の戦後処理
を通じ海外交流
中国
長崎・松前
蝦夷地→松前藩が
薩摩藩の支配下
・薩摩・対馬
支配…商人に場所
→清への朝貢
請負制地域を指定
朝鮮通信使
し本土の商人がア
ポルトガルの他、スペイ
イヌと交易
ン、オランダ、イギリス両
国の商人が参加し、日
本貿易独占の時代は、
終わり→オランダが日本
貿易を独占
蠣崎氏とアイ
ヌとの交易の
協定が締結
NHK
場所請負制とは、江戸時代の松前藩政下における家臣
の知行形態= 地勢的に米の収穫が望めないため、藩主
が家臣に与える俸禄は石高に基づく地方知行ではなく、
いわゆる商場(場所)知行制をもって主従関係を結んで
いた。この制度は、蔵入地以外の蝦夷地及び和人地に
おいて給地に相当するものとして漁場およびアイヌとの
交易地域である商場(場所)を設け、そこでの交易権を知
行として家臣に分与する制度で、蝦夷地特有の流通制度。
朝鮮との貿易
己酉約条(きゆうやくじょう)…慶長14年(1609年)、対馬の
宗氏と朝鮮の間で結ばれた条約のこと。慶長条約とも。
己酉とは、
条約締結年の干支。全12条。
これにより、文禄・慶長の役以来断絶していた朝鮮との貿
易が再開された。
・釜山に倭館が置かれ宗氏の貿易船が交易を行う
・朝鮮通信使が将軍の代替わりに来日
明治初期まで効力を持った。
琉球王国
1609(慶長14)薩摩の島津氏が侵略
…薩摩藩の支配下→清への朝貢
琉球を通して中国のものを入手
○慶賀使(将軍の代替わりごと) 徳川幕府へ派遣さ
れた琉球国の朝貢使節
○5.謝恩使(国王の代替わりごと)徳川幕府へ派遣さ
れた琉球国の朝貢施設
江戸時代初期外交の概況
覇権を確立した徳川家康は海外交易に熱心で、
1600年豊後の海岸に漂着したオランダ船リー フデ号
の生き残りから航海士ウィリアム・アダムスらを外交顧
問として採用し、1601年以降、安南、スペイン領マニラ、
カンボジア、シャム、パタニ(マレー系王朝)などの東南
アジア諸国に使者を派遣して外交関係を樹立。 1604
年に朱印船制度を実施した。徳川家康は、アダムズと
ヨーステンを厚遇
しました。 1613(慶長18)年、アダムスの要請で来日したイギリスの
ジョン・セーリスは、徳川家康の許可で、平戸に商館を開設した。
アダムスは、三浦半島に250石の領地を与えられ、名前も「三浦
按針」と名乗った。按針は、パイロットのことである。ヤーン・ヨーステ
ンも、今の東京駅あたりに屋敷を与えられたことで、東京駅の「八重
洲」口は、「ヤーン・ヨーステン」の名前から由来している。
当時、世界屈指の産銀国であった日本の商人は、その財力で生
糸・絹織物などの中国商品の買い付けを行ったことで、ポルトガル、
イスパニア、オランダ、イギリスなどの商人たちにとっては脅威の的
になあった。
1635年まで350隻以上の日本船(大抵500~750tであり、
乗組員はおよそ200人)が朱印状を得て海外に渡航した。
朱印船は必ず長崎から出航し、帰港するのも長崎であっ
た。なお、明帝国は海禁政策により、日本船の来航を禁止
していたので、中国とは(ポルトガル居留地マカオを除け
ば)朱印船渡航先とはならず、寄港先での出合貿易が行
われた。台湾やルソン、コ-チなどへ出向いて貿易(出会
貿易)する。
朝鮮との交易も対馬藩に一任されていたので、朱印状は
発行されなかった。
朱印船貿易の内容
大名
商人
島津家久・松浦鎮信・有馬晴信
7.末次平蔵(長崎)・島井宗室(博多)・今井宗
薫(堺)・末吉孫左衛門(大坂) 8.角倉了以(京
都)・茶屋四郎次郎(京都)など
外国人 ウィリアム・アダムス(三浦按仁)・ヤーン・ヨー
ステン・林五官(日本で始めて銅活字を鋳造)
輸出品 銀(輸出額は世界全体の1/3)・銅・鉄・硫黄などの
鉱産物、刀剣・工芸品・各種道具類
輸入品 生糸・絹織物・綿織物・毛織物を中心とした中
国商品、鮫皮・象牙・胡椒・水牛の角・鉛、薬
などの東南アジア商品、砂糖・皮革・鉛・香
料・薬種
朝鮮から通信使(朝鮮の慶賀使節)が来日
糸割符制度
1604(慶長9)年、家康は、アダムスの助言を容れて、糸
割符制度を制定。御用商人茶屋四郎次郎を主導者として
京都・堺・長崎の特定商人に糸割符仲間をつくらせ、その
糸割符仲間に輸入生糸の価格決定と一括購入を許し、そ
れを個々の商人に分配させた。当初3ヶ所であったが、後
に1631年(寛永8年)に江戸・4.大阪を加え5ヵ所となった。
当初はポルトガル商人だけであったが、1633年(寛永10
年)に中国(明→清)商人、1635年(寛永12年)にはオラン
ダ商人にも適用された。1655年(明暦元年)中国商人の抵
抗(この背景には鄭成功がいたと言われている)を受け糸
割符仲間は解散。
◆糸割符制度◆出典:『糸割符由緒書』
黒船着岸の時、定め置年寄共、糸ノねいたさゝる以前、諸商人長崎へ入るべから
ず候。糸の直相定め候上は、万望み次第に商売致すべき者なり。
慶長九(1604)辰年五月三日 本多上野介(正純)(判) 板倉伊賀守(勝重)(判)
右の節、御定の題糸高、
京 百丸 堺 百弐拾丸 長崎 百丸
三ヶ所合三百弐拾丸 但壱丸五十斤入 壱斤掛目百六拾目
◆鎖国令(寛永十年令)◆出典:『武家厳制録』
一 異国え奉書船の外、舟遣すの儀、堅く停止の事。
一 奉書舟の外、日本人異国へ遣し申す間敷候。若し忍び候て乗参り候者之有る
に於てハ、其の者ハ死罪、其の舟并びに船主ともに留置、言上仕るべき事。
一 異国え渡り住宅仕りこれ有る日本人来り候はゞ、死罪申し付くべく候。但し、是
非に及ばさる仕合之有りて、異国に逗留いたし五年より内二罷帰り候者ハ、穿鑿を
遂け、日本にとまり申すべきに付きてハ御免、併し異国え亦立帰るべきにおゐては、
死罪申し付くべき事。
一 異国舟(ポルトガル船)につミ来り候白糸(中国産の生糸)、直段を立候て、残ら
ず五ヶ所(長崎・京都・堺・江戸・大阪の5都市)へ割符仕るべきの事。
一 薩摩、平戸、其外いづれの浦に着候船も、長崎の糸の直段のごとくたるべし。
長崎にて直段立候ハぬ以前、買売停止の事。
寛永十(1633)年二月廿八日
◆鎖国令(寛永十二年令)◆出典:『教令類纂』
一 異国江日本の船之を遣すの儀、堅く停止の事。
一 日本人異国江遣し申す間敷候。若し忍び候て乗渡る者これ有るに於ては、其
の者は死罪、其の舟并びに船主共二留め置、言上仕るべき事。
一 異国江渡り住宅仕り之有る日本人来り候ハヾ、死罪に申し付くべき事。
寛永十二(1635)年
◆鎖国令(寛永十三年令)◆出典:『憲教類典』
一 切支丹訴人褒美の事
伴天連の訴人は、其品により、或は三百枚、或は弐百枚たるべし。其外ハ此の
以前のごとく相計申し付くべき事。
一 a南蛮人子孫残し置かず、詳に堅く申し付くべき事。若し違背せしめ、残し置く
族之有におゐては、其者は死罪、一類の者は科の軽重によリ申し付くべき事。
一 南蛮人、長崎にて持候子并右の子共の内、養子に仕る族の父母等、悉死罪
為りと雖も、身命を助ケ南蛮人江遣され候間、自然彼の者共の内、重て日本江来
ル歟又は書通これ有るに於てハ、本人は勿論死罪、親類以下迄科の軽重に随ひ
申付くべき事。
b寛永十三年五月十九日
注釈: a:ポルトガル人との混血児をさす。 b:1636年。
◆鎖国令(寛永十六年令)◆出典:『御当家令条』
一 日本国御制禁成され候吉利支丹宗門の儀、其趣を存知乍ら、彼の法を弘む
る者、今に密々差渡るの事。
一 a宗門の族、徒党を結び邪儀を企つれば、則御誅罰の事。
一 伴天連同宗旨の者、隠れ居る所え、b彼の国よりつゝけの物送り与ふる事。
右茲に因り、自今以後、cかれうた渡海の儀、これを停止せられ訖んぬ。此の
上若差渡るニおゐてハ、其船を破却し、并びに乗来る者速に斬罪に処せらるべ
きの旨、仰せ出さるる者也。仍執達件の如し。
d寛永十六年卯七月五日
注釈: a:具体的には1637年の島原の乱をさす。 b:ポルトガル。 c:ポルトガル
の貿易船(=galeota)のこと。 d:1639年。
◆海舶互市新例◆出典:『教令類纂』
一 長崎表廻銅、凡一年の定数四百万斤より四百五拾万斤迄の間を以つて、其
の限とすべき事。……
一 唐人方商売の法、凡一年の船数、a口船、奥船合せて三拾艘、すべて銀高六
千貫目に限リ、其内銅三百万斤を相渡すべき事。……
一 阿蘭陀人商売の法、凡一年の船数弐艘、凡て銀高三千貫目限リ、其内銅百
五拾万斤を渡すべき事。……
b正徳五年正月十一日
注釈: a:口船は中国本土、奥船は南方からの船。 b:1715年。
慶長遣欧使節とは?
当時の国内の情勢や幕府の意向は複雑でした。 伊達政宗が
ローマ教皇へ送った親書の内容は、仙台領内でキリスト教の布
教を許可するのと引き替えにメキシコとの通商を希望するもの
だった。 キリスト教信仰擁護のもと貿易により大きな利益を得、将
来の南蛮国攻略のための国情偵察を図りながら徳川幕府に忠誠
を装い、実はイスパニアとの同盟、ローマ教皇の指示のもとで、
日本
皇帝への道を切り開く外交
を考えていた・・・・・・
などと推測される。
確かな史料がないので、解
釈は一定されていない。
キリスト教弾圧
1614年(慶長18)年12月、慶長の禁教令(「伴天連追放文」=金地院
崇伝起草)を発布。家康は当初キリシタンの信仰を黙認する態度を
示していた。そのためフランシスコ会の勢力が全国的に拡がりつつ
あり、その勢いを恐れ、弾圧の態度を明らかにした。禁教政策は年
を追ってきびしくなり、宣教師や信者たちは捕らえられて国外に追放
され、また処刑された。
1622年(元和8年)9月10日、元和の大殉教(げんなのだいじゅん
きょう)は江戸時代初期の長崎の西坂で、カトリックのキリスト教徒
55名が火刑と斬首によって処刑された事件。日本のキリシタン迫害
の歴史の中でももっとも多くの信徒が同時に処刑されたもので、こ
の事件の後、幕府による弾圧はさらに強化されてゆく。また、詳細
がオランダ商館員やイエズス会宣教師によって海外に伝えられ、日
本の歴史の中で26聖人の殉教とならんでもっともよく知られた殉教
事件となっている。 1643年には、遂に聖職者不在の状況に陥る。し
かし、迫害の嵐に耐えて潜伏するものも少なくなかった。これが隠れ
キリシタンである。
1631(寛永8)年 1.奉書船貿易開始
鎖国を進めるにあたり、貿易許可証である朱印状は邪魔な存
在になっていた。 朱印船制度は初代将軍徳川家康が制度化し
たものであり、家康自身が発行したものも多く、余人がそれを取
り消すことは事実上不可能だったからである。
そこで、幕府は貿易を制限するための手段として朱印状に加え
て、老中の書いた奉書という許可証をもった 「朱印状と奉書の
両方を携行すること」を貿易許可の新たな条件とした。つまり、
朱印状の効力を取り消すことなく、付帯条件を追加したわけで
ある。
1633年には奉書の携帯が完全義務化され、朱印船制度は消
滅する。
1635年 日本船の海外渡航及び帰国を全面禁止
日本の鎖国政策の経過
。
元和2年(1616年)明以外の船の入港を長崎・平戸に限定
する。
元和9年(1623年)イギリス、平戸商館を閉鎖。
寛永元年(1624年)スペインとの国交を断絶、来航を禁止。
寛永8年(1631年)1.奉書船制度の開始。朱印船に朱印状以外
に老中の奉書が必要
寛永10年(1633年)第1次鎖国令。奉書船以外の渡航を禁じる。
また、海外に5年以上居留する日本人の帰
国を禁じた。
寛永11年(1634年)第2次鎖国令。第1次鎖国令の再通達。
長崎に2.出島を築造
寛永12年(1635年)第3次鎖国令。中国・オランダなど外国船
の入港を長崎のみに限定。日本人の渡航
と帰国を禁じた。
寛永13年(1636年)第4次鎖国令。貿易に関係のないポルトガ
ル人とその妻子(日本人との混血児含む)
287人をマカオへ追放、残りのポルトガル
人を長崎出島に移す。
寛永14年~15年(1637年~1638年) 3.島原の乱。
寛永16年(1639年)第5次鎖国令。4.ポルトガル船の入港を禁
止。
寛永17年(1640年)マカオより通商再開依頼のためポルトガル
船来航。幕府、使者61名を処刑。
寛永18年(1641年)鎖国体制の完成。オランダ商館を出島に
移す。
正保4年(1647年)ポルトガル船2隻、国交回復依頼に来航。幕
府は再びこれを拒否。以後、ポルトガル船
の来航が絶える。
長崎港図に描かれた出島。
江戸時代の銅版画
川原慶賀筆「唐蘭館図 蘭船入港図」
ミニ出島
江戸幕府が日
本人の海外交通
を禁止し、外交・
貿易を制限した政
策のこと。また、
そこから生まれた
外交関係におけ
る孤立状態を指
す。しかし、実際
には孤立している
わけではなく、外
交だけでなく貿易
の権限を幕府が
制限・管理した体
制である。
三使に随行する
小童(道中で踊り
を披露することも
ある)に駆け寄り、
携えてきた紙に
揮毫を依頼する
町人。
将軍と朝鮮国王
との国書の交換
という厳格なイベ
ントの中にあって、
ほほえましい民
間交流の一場面
が描かれていま
す。
馬上揮毫図 英一蝶筆
大阪歴史博物館所蔵