大和運輸の事例

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第12 回 大和運輸
ヤマト運輸(14万人以上の社員数)の事業内容:
宅急便・クロネコメール便を中心とした一般消費
者・企業向け小口貨物輸送サービス事業
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【小倉昌男の年表】
1919年
父・小倉康臣(中学中退)が大和運輸㈱を創立(トラック4台;国内に登録
されていたトラックは204台)
1924年 12月13日渋谷区代々木生まれ(大和運輸の創業者の康臣の次男)
1927年
康臣が万国自動車運輸会議に日本代表として出席(小口貨物の積み合
わせ運送の仕組みを知り、帰国後に 関東一円 に「ヤマト便」を展開)
1943年 東京大学経済学部商学科入学(大和運輸就職を意識・勤労動員)
福岡・久留米の第一予備士官学校(陸軍)に入学、砲兵中退に配属
1944年 (大和運輸は百貨店配送業務を禁じられ、日本通運との合併や軍に吸
収されかけていたが、終戦を迎える)
1947年
テニス部の部費や生活費捻出のために、人工甘味料サッカリン密造(東
工大生が製造を指揮、部員が工員として働き、昌男は調達と販売担当)
1948年
緑化成を設立後、大和運輸に入社(駐留米軍の引き上げ荷物担当)した
が、結核で入院(1953年に復職⇒キリスト教徒に)
1954年
静岡運輸への出向(裏側;荷主とドライバーが結託し、ドライバーが運賃
を横領⇒運行記録計を設置、「安全第一、能率第二」;非番返上禁止)
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小倉昌男の年表(続き)
1956年
結婚し、出向解除。百貨店配送業務でのスト決行( 三越 等の優良
顧客相手にスト決行。康臣「迷惑をかけるかもしれない。要求に屈した
ら配送料金が上がるので、そちらの方がご迷惑になる。」)
1957年
康臣がアイランド・ヴァン・ラインズ社と業務提携(親子猫のロゴ;「お客
様の荷物をていねいに運ぶ」)⇒康臣「クロネコマーク」採用。
昌男が百貨店部長時代に、有楽町そごうの配送業務独占に失敗(康
臣「一社で独占すると、労働組合が強気になる。」)
1959年
路線トラック部門の営業部長就任(積み残しが多く、管理者のサラリー
マン化;残業しない;文書での指示待ち⇒路線トラック部門の赤字脱却
を目指す;近距離小口貨物中心から長距離大口貨物偏重への転換)
1960年
大阪-東京の長距離便運航開始(「箱根の山にはお化けがいる。決し
て超えてはいない」と反対する康臣を説得してから、先行事業者の
反対にあって、大阪-小田原間の路線免許取得に数年かかった)
1961年
昌男取締役に就任(大口の新規顧客獲得に乗り出す。その時の合言
葉は「 煙突 を目指せ」であった。しかし、売り上げは増えたが、
収益率は低下した。その理由は大口は割引運賃が適用される一方
で、設備投資が必要であったからである。それなのに、手間のかか
る 小口 を切り、大口に集中しようとした。=戦略の間違い)
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1965年
トレーラーシステム の採用(牽引するトラックとトレーラーの切り離
しが可能になった。空いているトレーラーに荷物を積み込んで置き、トラッ
クが到着したら、牽引してきたトレーラーと交換;効率的になる)
1967年 乗り継ぎ制 を本格化(大阪-東京間を一人の運転手が往復すると3
日かかるが、浜松で乗り継げば一日で帰宅できる) ※コンテナ船就航
1971年 46歳の時に二代目社長に就任(康臣が車椅子生活になったのが切っ掛
け)。大口貨物に偏重していたので、経営状態は悪かった。
1973年 第一次石油ショック(大口貨物の荷動きが急速に鈍化)⇒リストラ
(視察先のマンハッタンで宅配を行っている UPS (ユナイテッド・パー
セル・サービス)の姿を見て、日本でも十分に需要が生まれると確信)
1975年
小口 重視の指令を出す(単価は大口より小口の方が高い)。小口の
切り捨てを長年行ってきたので、社内では猛反対。1975年度の売上高経
常利益率は0.07%にまで下がった。宅急便の構想を考え始める。
1976年 宅配便 開始(ハブ・アンド・サービスを参考に、ベースと呼ばれる運行
1月
基を設け、その周辺にセンターを設置し、さらにデポを配置;三段階の配
送網を構築、「集荷が第一、配達は第二」⇒酒屋を取次店に)
1979年 三越との決別( ライオン が猫にかまれた)⇒背水の陣で宅急便に集中
1982年 ヤマト運輸に社名を変更
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【長距離・大口顧客への転換が遅れた原因】
関西の
家電
メーカ
関東一円の
「大和便」
100KMの範囲内
(超えたら鉄道貨
物)
戦前
道路事情やトラックの性
能から当然の選択
関東一円の
「大和便」
100KMの範囲内
(超えたら鉄道貨
物)
戦後
道路事情やトラックの性能が向上し、
関西(松下、シャープ、三洋等)で
生産された家電が関東で販売とい
う流れがあった。しかし、東海や関
西への進出が遅れていた。
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【乗り継ぎ制】
1日目
東京-大阪
東京-浜松
(大阪)-浜松
夕方から積み込みを開
始し、夜に出発
夕方から積み込みを開
始し、夜に出発
朝方に到着し、仮眠をと 深夜に浜松でトレー
2日目 る。夕方から積み込みを ラーを交換し、早朝に
開始し、夜に出発
東京(大阪)に到着
3日目 朝方に到着し、帰宅
※乗り継ぎ制を導入することによって、仮眠がなくなるので、人件費削減と安
全面での強化につながる。運転手が自宅で睡眠中にトレーラーを活用で
きる。
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【宅配便構想のヒント】
① 吉野家 がメニューを絞り込んで利益が増えた(理想的な会
社を目指すのではなく、取り扱う荷物を絞り込む)
②当時の運輸会社の顧客は企業であり、家庭からの宅配荷物は
相手にされていなかった。国鉄小荷物と郵便小包(6キログラム
を境に重いと国鉄小荷物)が家庭用の宅配荷物を扱っていた
が、 親方 日の丸(時間もかかり、サービスの質が低かった)
③日本航空が売り出した「ジャルパック(必要なものをパッケージ
化し、だれでも海外に行けるようにした)」をヒントに、主婦が使
いやすいサービスを考えた(荒くれドライバーをどうしようか)。
※宅配貨物の需要は不安定ではないのか?行き先も滅茶苦茶
で対応できないのではないかと考えたが、日本全国レベルで
の宅配貨物の動きを鳥瞰して成功のイメージをつかんだ。
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【宅配便の基本ポリシー】
1976年1月20日に「 電話 1本で集荷・1個でも家庭へ集荷・翌日
配達・運賃は安くて明瞭・荷造りが簡単」という『 宅急便 』が
誕生した。
基本ポリシー
[1] 需要者 の立場になってものを考える。
[2]永続的・ 発展 的システムとして捉える。
[3]他より優れ、かつ 均一的 なサービスを保つ。
[4]不特定多数の荷主または貨物を対象とする。
[5]徹底した合理化を図る。
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【取扱い個数の推移】
初日の取扱個数はわずか 11 個(発送)であったが、最初の1ヶ
月の取扱個数は8,591個、最初の2ヶ月で3万個を超え、1976年
の実績は約170万個を記録した。
1979年に全国にネットワークを拡張した。 翌日配達 を基本に、
取扱個数は順調に伸び続け、1980年には3,340万個となった。
1981年には約5,000万個を取り扱い、会社全体の経常利益も前年
度比3.3倍、売上高に占める比率も5%を超え、宅配便を開始し
て5年後に採算ラインを超えた(『ヤマト運輸70年史』)。
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【商品開発と取扱個数(ヤマト運輸ホームページから抜粋)】
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【ヤマトホールディングスの業績推移】
1. バブル崩壊以降の低成長・マイナス成長下でも売上高は
伸び続けた。
2. 一兆円を超える売上高を稼いでいる(09年度の佐川急便
は8873億円)。
3. 売上高営業利益率が5~6%で安定している(09年度の佐川
急便は2.5%)。
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宅配システムのイメージ
支社
主管支店
センター
その他
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69
5984
254
(2013年4月1日現在)
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支社
主管支店
・ センター
幹線
支線
センター
・ からの
宅配範囲