学問 ホツマツタヱ 上級編

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Transcript 学問 ホツマツタヱ 上級編

学問
ホツマツタヱ
上級編
最終版_改4 更新
年表の変更点
(1)2倍化暦→1倍化暦(普通暦)に変換。(3/13)
(2)太陰太陽暦→太陽暦に変換。
(3/13)
(3)欠陥の「1鈴20年説」
(233頁) (2/20)
サブタイトル :
ホツマツタヱ(秀真伝)に
古代ロマンを求めて
2015年2月25日現在
全238頁
ホツマツタヱ研究家 吉田六雄
ホツマツタヱは、神代~上代の歴史書
ホツマツタヱは、漢字の影響を受けない唯一の日本古来の
歴史書である。文字は神代文字の「ヲシテ」である。
【根拠】
ホツマツタヱは漢字が伝来する以前に、完成し奉納されていた。
(1)ホツマツタヱの完成は、アスス暦の843年(西暦262年頃)
になり、琵琶湖近くの淡宮(現在の多賀大社)に奉納された。
(2)一方、漢字の伝来は『日本書紀』応神天皇十六年三月条に、
王仁が渡来して太子菟道稚郎子の師となり諸典籍を教えた
ことが記され、『古事記』には、百済国から和遁吉師が『論語』
十巻と『千字文』一巻を持ち来たったことが記載されている。
応神天皇十六年は、日本書紀暦では385年、吉田説では、
349年(長暦普通暦)になる。
訂正 2014_12_12
261年→262年 (38-3 若宮の 初暦なる)より
最新研究 目 次
1.文献・古代日本史 年代の現状
2014_11_27 追加
2.ホツマツタヱに記述される、ホツマ暦の現状
3.スス暦・アスス暦 解析結果の最前線
4.ホツマ暦論文
①長暦(暦)(注)の原因が解明される
②普通「スス暦・アスス暦」が、BC6世紀~AC3世紀を照らす
5.アスス暦の解読秘話
①過去に苦心して解読した「アスス暦」は、長暦(暦)だった
②アスス暦、日本書紀暦での不知火の発生は、5月と記述さ
ているが、2→1倍化暦の換算暦では月再現(9月)、(11頁)
6.ホツマ文章の研究報告
(注)長暦(暦)の定義 ⇒ 長暦(暦)_ウィキペディアを参照
ご参考になれば、幸甚と存じます。
2013年10月16日
ホツマツタヱ研究家 吉田六雄
1.文献・古代日本史 年代の現状
ホツマツタヱの古代の記述には、
①「天地の開けし時に」
②「天地人も 分ざるに 初生の一息」
③「一息が 陰陽と分かれて」など、
宇宙的な発想の記述を多く目にする。また、年齢が百万歳や
数十万年の年齢の記述されている。このため、古代の人は、
「長生であった」と、思わせる記述が多くある。
また、日本古代史には、ホツマツタヱ以外に、日本最古の歴
史書と云われる、記・紀があり、紀元前660年を起源するが、
神武天皇以下、百歳以上の天皇が多く、その暦は日本長暦と
云う、他国と比較できない暦(紀年)のままである。その記・紀は
、実証主義の教育現場には登場しない歴史書である。
2.ホツマツタヱに記述される、ホツマ暦の現状
(1)ホツマ・古代の御世
ホツマツタヱの古代を大きく分類すると、
①アメノミオヤ~始まる古代の御代
②ウヒジニ~始まる「スス暦」の御世
③タケヒトの「スメラギ」に天日嗣前~始まる「アスス暦」の御代
の三つの御世に分かれるようだ。
(2)ホツマ暦 (スス暦、アスス暦)
ホツマツタヱの暦を分類すると、
①明確な暦の記述されてない古代(スス暦以前)
②ウビジニ・スビヂ~始まる古代太陽暦を導入したスス暦
③タケヒトのスベラギ(天皇)になる前から始まる「太陰太陽暦
(含むウリフ月)」を採用したアスス暦
3.スス暦・アスス暦 解析結果の最前線
ホツマ暦のスス暦、アスス暦を解読し始めて、約20年になる。
その間、スス暦は太陽暦である。またアスス暦は、長暦(暦)の
太陰太陽暦であることを解析できていた。だが、アスス暦の長
暦(暦)の壁が障害(注)になっていた。そんな中に、2013年4
月過去の発表資料を整理中に、新たな史実を発見した。この発
見により長暦(暦)の障害を解消し、長暦(暦)を是正した「スス
暦・アスス暦」の年表を作成した。新ためて作成した年表と、考
古学上の出土物より、鉄の伝来、銅鐸、埴輪などの年代を対比
した結果、ほぼ1世紀以内の範囲で年代が一致していた。
<詳細は、158~159頁をご参照>
(注)障害とは、
スベラギ(天皇)の年齢が百歳以上が多すぎる。また、近
隣の諸国の年代と合わない。
今回、鉄の伝来、銅鐸、埴輪など僅かな資料を対比したが、
このことからも文献・ホツマツタヱと考古学(日本史)の年代が、
学述上において、相互補完することができるとの「新たな発見」
がなされたと云える。詳細内容は、次頁より掲載。
(1)スス暦の最前線
紀元前270年頃また(仮)27鈴頃に、スス暦の「1日の数え
穂」が「16穂→8穂」に改暦されており、この紀元前270年
頃以降において、オオヤマスミ系、モノヌシ系の在位年数が、
長大化(二倍化)していた。
(2)アスス暦の最前線
スス暦の長大化の影響は、6代ワニヒコまで続いており、
スス暦時代にモノヌシに就任し、アスス暦の時代にモノヌシ
の在位年数が142年(192歳)になり、長大化がアスス暦
まで続いていたことが確認された。長暦(暦)の常態化。
4.ホツマ暦論文
論文の趣旨
赤字追加 2014_11_26付
①長暦(暦)の原因が解明される
②普通暦「スス暦・アスス暦」が、BC6世紀~AC3世紀を照らす
目次
4.(1)ホツマ暦と日本史の対比図(概要)
4.(2)ホツマ暦の解読論文
4.(2). ①ホツマの記述年と考古学出土物の年代対比
4.(2). ②ホツマの記述月、計算月、自然現象発生月の対比
4.(2).③-1 ホツマ・スス暦の年表
4.(2).③-2 ホツマ・アスス暦の年表
4.(2).④-1 スス暦・アスス暦、長大化原因の発見
4.(2).④-2 スス暦・アスス暦、 「一日の数え穂」
4.(2).④-3 スス暦・アスス暦、在位年数の長大化
4.(2).④-4 スス暦・アスス暦、月名の一致率
4.(2).④-5 長大化の修了年代の特定
4.(1)ホツマ暦と日本史の対比図(概要)
日本史の古代は、余りにも古い時代である上に記録も多くは
残っていないと云われる。その中で、歴史的史実を多く記述する
ホツマツタヱのホツマ暦が解明された。そのホツマの年代は、
紀元前6世紀~紀元3世紀になり、紀元前546年~紀元262
年までになる。日本史の範囲で説明すると、縄文・後期~弥生
~古墳時代・前期に相当するようだ。
縄文時代
弥
縄文晩期
前700
前600
スス暦以前
早期
前500
前400
前期
前300
ス ス 暦 の御 世
生
時
代
中期
前200
前100
0
古墳時代
後期
終末
前期
100
200
300
ア ス ス 暦 の 御 世
400
4.(2)ホツマ暦の解読論文
①ホツマの記述年と考古学出土物の年代対比
結論 <詳細は157~162頁をご参照>
鉄、銅鐸、埴輪等ホツマの記述年と考古学年代が合うようだ。
【ホツマツタヱの記述】 〇印:一致、 △印:研究の余地あり。
NO,
名称
1
ゾロ、イネの記述
2
ホツマの記述された年
判定
紀元前316年~紀元前299年より古い
△
イヅクリの記述
紀元前331年~紀元前330年頃
〇
3
ミソコタカラの記述
紀元 179年~紀元 180年頃
〇
4
ハシモノの記述
紀元 200年
〇
【考古学の出土物】
NO,
名称
1
稲の痕跡
事象として確認された年
判定
6000年前、5500年前
△
陸稲作り
4000年前~2300年前
△
水稲作り
約3200年前
△
紀元前4世紀~紀元前3世紀頃
〇
2
鉄の伝来
3
銅鐸の製造
紀元前2世紀~紀元2世紀
〇
4
埴輪の製造
紀元 3世紀~紀元6世紀
〇
4.(2)ホツマ暦の解読論文
2014_12_5 訂正
②ホツマの記述月、計算月、自然現象発生月の対比
全ホツマツタヱの内 3ヶ所に自然現象の記述あり、その発生月
は、ホツマの記述月より計算月の方が ほぼ一致し 再現する。
計算月は、2倍化暦→1倍化暦に変更し 計算で求めた月を示す。
ホツマ
計算
大阪府
(1)河内狭山は 水足らず
記述月
月
雨少い月
(大阪狭山市)
682年7月 < 10月 ≒ 11月~3月
狭山は溜め池が多い
ホツマ
計算
八代海
(2)知らぬ火の 国と
記述月
月
不知火発生
(熊本県八代海)
806年5月1日 < 9月1日 〓 8月25日
景行天皇の巡幸記より
ホツマ
計算
島原半島
(3)マエ山 アワ岬見て
記述月
月
良く見る季節
(福岡県八女市より) 7月4日~8月 < 10月 〓 秋~冬朝
八女~有明海~島原半島の間は、約50~60kmあり。
4.(2).③-1 ホツマ・スス暦の年表
【スス暦】
紀元前6世紀~始まる「スス暦」の御世は、カミ代と云われる
名前が並ぶ。また今に伝わる風習が、この頃を起源にしている。
①紀元前6世紀:雛祭りの原形とされる「ウビジニ・スビチ」の
フタカミ(神)の「アマキミ(天君)」の御世。
②紀元前4世紀:国土の荒廃を立て直された「タカヒト」「ワカヒ
ト」の御世になる。
③紀元前3世紀:「シワヒコ」を伴ってホツマ国を豊かにされた
「オシヒト」。葦原国を治められた「テルヒコ」。稲作を持って
関東平野の新治宮を治められた「キヨヒト」。「ウツキネ」の
御世と続く。
④そして「アマキミ(天君)」の終焉は、紀元前2世紀の中期で
あった。
4.(2).③-2 ホツマ・アスス暦の年表
【アスス暦】
この「アスス暦」の御世は、現在の天皇の御世につながる御
世であり、2月11日の「建国記念日」につながる御世である。
①紀元前2世紀
奈良の橿原宮に都を開いた「タケヒト」の御世。
②紀元前1世紀~紀元2世紀
現在では「欠史八代」と云われているニ代目「ヤスキネ」~
九代目「フトヒヒ」の御世になる。
③紀元2世紀~紀元3世紀
(国際交流が頻繁になる)
国土の民が疾病に苦しんだ、またこの頃「カラクニ」より王子
が来た「ヰソニヱ」の御世。更に「ミマナ」との往来が盛んに
なった「ヰソサチ」の御世。それに、西の熊襲、東のホツマ国
を平定した「タリヒコ」の御世になる。この「アスス暦」の「スメ
ラギ」の平均在位年数は、約32.9年になるようだ。
是正「アスス暦」のスメラギの年表
アスス年代・御世
この御代は、BC2世紀~AD3世紀、弥生~古墳時代になる。
①アスス暦21年(初年) : 紀元前2世紀(紀元前151年頃)
②タケヒト (神武)初年:紀元前2世紀(紀元前133年頃)
③ヤスキネ(綏靖)初年:紀元前1世紀(紀元前 95年頃)
④シギヒト (安寧)初年:紀元前1世紀(紀元前 75年頃)
⑤ヨシヒト (懿徳)初年:紀元前1世紀(紀元前 58年頃)
⑥ミルヒト (孝昭)初年:紀元前1世紀(紀元前 40年頃)
⑦オシヒト (孝安) 初年:紀元 1世紀(紀元
3年頃)
⑧ネコヒコ (孝霊) 初年:紀元 1世紀(紀元
54年頃)
⑨モトギネ (孝元) 初年:紀元 2世紀(紀元
92年頃)
⑩フトヒヒ (開化) 初年:紀元 2世紀(紀元 120年頃)
⑪ヰソニヱ(崇神) 初年:紀元 2世紀(紀元 151年頃)
⑫ヰソサチ(垂仁) 初年:紀元 2世紀(紀元 185年頃)
⑬タリヒコ (景行) 初年:紀元 3世紀(紀元 234年頃)
4.(2).④-1 スス暦・アスス暦、長大化原因の発見
【ホツマ暦の研究経緯(長大化原因の発見経緯)】
(1)スス暦
①ホツマツタヱを手にした時は、現在の暦の概念からは外れ
ており、解読の方向性が見えなかった。
②唯一の救いは、ホツマツタヱに、古代暦の記述「スス(鈴)」
「ヱダ(枝)」「ホ(穂)」「大きい暦数字」が記述されていた。
③スス暦の最小単位は 「ホ(穂)」であるが、理数系のため、
「年」の概念を外し、 「ホ(穂)」を説明する文章をホツマツタ
ヱより捜した。
④スス暦の初めに、ホツマ暦の基本となる「穂」と 「1日」の関
係を示すヲシテ文の1つ目を発見した。 <次頁(1)参照>
⑤27鈴の直前に、「穂」と「1日」に大きく関係した2つ目の
ヲシテ文を発見した。
<次頁(2)参照>
4.(2).④-2 ホツマ暦 「一日の数え穂」
ホツマ暦の基本である「1日の数え穂」、2種類を発見
二つの「一日の数え穂」が、後に「スス暦」「アスス暦」の年代
に大きく影響していることが判明、特に(1) に対する(2) 「アヱ
よりヤヱの中5日」は、長大化(長暦)を誘発していた。
(1)「天の原 16穂居ますも 1と日とぞ」 2011_4_16 発表
【解釈】
スス暦が始まった当初より、「1日は16穂」で数えていた
と判明。
(2)「アヱよりヤヱの 中5日」
2003_6_14 発表
【解釈】(仮)27鈴以降は、「1日は8穂」に改訂。このため、
上(1)に比較し、1日を2日に計算した年数になっていた。
4.(2). ④-3 スス暦・アスス暦、在位年数の長大化
長暦の原因:1日8穂の前後で在位年数が、長大化していた。
スス暦の年代で見ると、27鈴以降に、長大化の影響があった。
代目
イミナ
スス暦の年代
(新)
(旧)
天の原 十六穂居ますも 一と日とぞ (1日16穂)
先代
ハナキネ
21~25鈴
?
?
初代
クシキネ
21~25鈴
34
34
ニ代目
クシヒコ
25鈴~
27
32
アヱよりヤヱの 中五日 (1日8穂)
27鈴
ニ代目
クシヒコ
~29鈴
三代目
ミホヒコ
26~36鈴
57
115
四代目
カンタチ
36~49鈴
54
114
五代目
フキネ
50鈴
0
0
六代目
ワニヒコ
50鈴~天鈴170鋪
70
131
合 計
244
426
平均
48
71
4.(2). ③-4 スス暦・アスス暦、月名の一致率
長暦の原因:27鈴前後で、月名の一致率が違う
大きい暦
一年の日数
数字
一日のスス穂
スス暦(穂)
1
1,207,531
四文、三九
月
日
季節
ホツマツタヱの記載
365日
365日
365日
365日
16穂
8穂
16穂
8穂
改_鈴
改_鈴
月
月
ホツマ、スス暦の初め
ワカヒト の生まれ(21鈴125枝31穂)
天の原
十六穂居ますも
一と日とぞ
1
初日
206
412
1
1
(一日十六穂)
1,207,618
天御子は 日高見よりぞ 移ります(21鈴126枝58穂)
弥生
朔日
206
412
1
1
1,290,317
アマノミチネと 門出なす(22鈴505枝17穂)
弥生
望
220
440
3
5
1,445,617
ヲホナムチ 内宮を九重と比べる(25鈴93枝37穂)
246
493
9
6
1,447,858
オシヒトに 天日嗣する(25鈴130枝58穂)
247
494
2
4
1,501,001
テルヒコへ 葦原国の治める(26鈴16枝41穂)
3
256
512
3
6
1,501,043
キヨヒト 新治宮の宮造り法定る(26鈴17枝23穂)
3
初日
256
512
3
6
ニ十一文、六四
アヱよりヤヱの
中五日
夏
春1
初日
(一日八穂)
1,710,098
アカガタ (シナ) より越に来る (29鈴501枝38穂)
2
一日
292
584
1
1
1,860,023
ワケイカヅチ 瑞穂の宮を造る (32鈴23穂)
4
初
317
635
8
4
2,102,078
ウツギネに 天日嗣する (36鈴34枝38穂)
3
望
359
718
1
2
2,511,069
ウツギネ、ケヰの神となる (42鈴851枝9穂)
8
4
429
858
1
2
2,934,661
カモタケスミとイソヨリの子種祈り (49鈴911枝1穂)
初
三日
501
1,003
7
2
2,940,020
スス暦の終焉 (50鈴20穂)
4.(2).④-5 長大化の修了年代の特定
(3)長大化(長暦)を是正するため、長暦の修了年を調査する。
【解釈】
(仮)27鈴以降のスス暦、アスス暦は、長大化しているため、
スス暦、アスス暦からは、長大化の最終年が掴めない。そのた
め、日本書紀に降り調べて見ると、17代仁徳天皇までは在位
年数が長大していた。次の18代履中、 19代反正、 20代允恭
天皇は、長大化が終了していた。このことより、長暦(暦)可否
の判断(私見)基準を、17代履中天皇以降の天皇からは、長
暦(暦)でないとした。そこで、日本書記の年表を見ると、履中天
皇の初年は西暦399年であった。このため、この西暦399年を
起点に、日本書紀暦の太陽暦(筆者計算)→アスス暦の太陽暦
→スス暦の太陽暦の順に、西暦年の遡り年を計算した。
5. アスス暦の解読秘話
【アスス暦】
過去に苦心して解読した「アスス暦」は、長暦だった 。その
原因は、「初めに干支ありき」の諺が、呪文となっていた。
そこで、長暦(暦)を不確かなデータとする品質管理の目に
改めて、確率などの統計分析により長暦の壁を脱した。
【ヱトを基準にしたアスス暦の解読暦法】
①ホツマツタヱを読むと、タケヒト(神武) ~タリヒコ(景行)まで、
アスス暦で記述されている。またこのアスス暦の「年」「日」 は
、「ホツマ・ヱト」にて記述されている。そこでアスス暦を解読
すれば、日本史の古代が原点まで遡れると思い、解読式を
作成し計算して見たが、結果的には、アスス暦は、長暦(暦)
であった。アスス暦を一見すると、季節・年・月・日などの記述
を見ると、通常の暦と大差ないが、スベラギ(天皇)の年齢を
見と百歳以上が多くなっていた。
②また年代を他国の暦や考古学の出土物の年代と対比すると、
アスス暦の年代が古く、対比不可であった。この原因も、長暦
(暦)の故であり、この現象は日本書紀暦と同じであった。
この長暦(暦)と判明したまま、約15年続いた。
詳細は、153~154頁に、ヱトで求めた「アスス暦」を掲示
した。ご参照方。
③なお、上の【ヱトを基準にしたアスス暦の解読暦法】で求めた
アスス暦であり、「暦法は正しい」と思うが、計算された暦は、
長暦(暦)のため、今後は使用を謹むことになる。
④アスス暦の年、日、ヱトは、原書「ホツマツタヱ」の編集当時
に既存の「暦」に準えて、「記述」の年、日、ヱトを割り振りさ
せた暦と推測される。その根拠は、御世の後半の年が、28年
目、40年目、76年目と粗く振られる年、ヱトで埋めてあった。
ホツマ暦の研究結果を公開しいてるHP
<ビジアルで解説いるホツマツタヱ>
3画面の差替 2014_12_15
学問 ホツマツタヱ 上級編 初学者から専門家までの必読書
パワーポイント版 アドレス
http://home.k07.itscom.net/hotsuma/hotsuma-roman.ppt
<簡易版 ホツマツタヱ暦の解明を簡単に説明した論文>
改訂_アスス暦の解明にて、自然現象の不知火の発生月を計算で再現。
ホツマの五月初日に対し、実際は旧暦八朔。計算値は9月1日の近似日。
PDF アドレス
http://space.geocities.jp/hotsuma_tsutae_0629/susu_asusu_kisetsu_no_kijy
utsu_kai_3.pdf
<ホツマツタヱ暦を専門的に解明した論文>
古代暦法「スス暦」、長暦(暦)「アスス暦」解読秘伝の書
~紀元前後の御世に「ホツマの世界」が存在した~
~鉄の伝来、銅鐸、埴輪の作られた年代をホツマ暦で証明した論文~
PDF アドレス
http://home.k07.itscom.net/hotsuma/hotsuma-koyomi.pdf
ホツマ文章の研究報告
本頁以降は、これまでの研究報告を掲載しております。
皆様の今後の「ホツマツタヱ」ご研究の資料となることをお祈り
できれば、幸甚と存じます。
なお、一部に旧資料の年のままの資料もありますが、準じ更新
して行く予定です。ご了承をお願いします。
2013年10月17日
ホツマツタヱ研究家
吉田六雄
松本善之助より戴いた色紙の短歌
吾と同じ年より ホツマ志す
君のゆくえに 実り満つらん
平成六年三月十九日
松本善之助
松本善之助 Wikipedia辞書
ホツマツタヱ 再発見 五十周年
2016年8月この年は松本善之助が、
神田の古本屋でホツマツタヱを、再発見
してから 五十周年に当たります。この
再発見を記念して、ホツマ研究者の協力
を得て松本善之助氏をWeb辞書に掲載
するはこびになりました。2012_5_20 編集者・吉田
スス暦が解読される_変遷履歴
スス暦
スス暦(太陽暦)が解読されて行くにつれて、1日の長さが、
ホツマ・ヱト穂で組み立てられていたことが、解明されるに
至った。この解明の過程は、③⇒②⇒①に到達できた経緯に
よります。
1~26鈴
27鈴~ 鈴の御世
①最新 1日16穂 1日8穂 384年(普通暦) 2014_3_13
②ひと昔 1日16穂
←
500年 (長暦)
③ふた昔 1日 8穂
←
1000年
④み 昔 1鈴20年説 ←
1000年
(注記) 1鈴20年説については、次頁をご参照方。
(注記)
1鈴20年(故・水上説_1994年)
ホツマの記述
28-1 五十鈴の 千枝の二十年 天替わる 暦まだとて
本来の記述
・ホツマのルールでは、「五十一鈴の 二十年」と書くべきであ
るが、わざわざ「五十鈴の 千枝の二十年」と記述するには、
意味があった。マサカキは植物であり、早枯れを示すように、
「拆鈴20年 伸び如何に 枯れに失せたり」の記述もある。
その時、たまたま20年を持って「千枝」としていた。
だが、このことが後に、欠陥の1鈴20年説(233頁参照)の
元になっていた。また誤って、51鈴の20年との解釈も発生
していた。
・ 51鈴がなかつたことを裏付けるように、29-8~9文の「御
祖に仕ふ 道開きて 光重ぬる 年の数 百七十九万 二千四百
七十穂経るまで」の記述は、大きい暦数字では、三百一穂、
51鈴の1穂に換算されるが、ホツマツタヱのスス暦の御世
には、51鈴の記述がなく、 50鈴の世で終わっていた。
アスス暦が解読される_内容説明
アスス暦
(1)アスス暦は、ほぼ日本書紀の紀年と同じ長暦(暦)であった。
そして、ホツマ・ヱト穂で、日を表示していた。
①年 21穂~843年 (アスス御世)
②年
約285日、約385日
③月 ム月~シハス
(1月~12月)
④月 解読時の月 9、また13ヶ月で暦日計算が成り立つ
④日 キアヱ~ネウト 60穂
⑤日 朔、中張、望
この資料は、時に上記①~⑤で表示がある
(2)長暦(暦)は、(仮)27鈴~スス暦より発生していた。
(3)普通暦アスス暦の年表を作成した。 2014_3_13
ホツマツタヱ写本 安聰本と長弘本
安聰本 (親本:ホツマツタヱ最古の写本)
平成4年5月、滋賀県高島市安曇川町の日吉神社
で発見された「秀真政伝紀」(全24冊)を云う。
写本献上は天永四歳キシト天明日である。
長弘本
四国宇和島市で、江戸時代~大正時代にホツマツタ
ヱを伝えた故小笠原通当翁の子供の故長弘翁が
写本した「ホツマツタヱ」(全6冊)を云う。写本は明治
33年である。その後「復刻本ホツマツタヱ」製本
松本善之助 ホツマツタヱ再発見記
(1)歌人・信綱 ホツマツタヱを持て余す
信綱の短歌の知識からは、ヲシテ文字で綴られた 「ホツマツ
タヱ」を一端手にするが、持て余して、手放していた。
皆さんもご存知の明治~昭和の歌人、佐佐木信綱は「ホツマツ
タヱ」に接して、その時のことを竹柏園蔵書誌(厳松堂刊昭和四
十四年刊)に残していた。
「秀真傳なり。・・(中略)・・きつのなとほむしさるあやの如く、
晦渋(かいじゅう)察し難きも尠(すくな)からず。故らに古傅(こで
ん)を枉曲(おふきょく)し難解の語を以て述べたるものにて、す
べて長歌体にて叙し、概ね反歌三首を添へ、文字に片仮字もて
左傍に訓を附したり。」
この信綱が残した文について、
故松本善之介は『信綱の目には、奇代の真書ホツマツタヱも
「故らに古傅を枉曲し難解の語を以て述べたるもの」としか映ら
なかったものとみえる。万葉集と古事記・日本書紀歌謡などか
ら構築された在来の考えに対し百尺竿頭一歩を踏み出すこと
がいかに難しかったか。この一文はそのことを如実に語ってい
る。』と月刊ほつま(昭和56年3月号)で述べている。
信綱の「ホツマツタヱ考」は、松本先生も指摘しているが、「万
葉集や記紀の在来の考え」を基準にして、「ホツマツタヱ考」を
残したため、「古傅を枉曲し難解の語を以て」と表現する以外に、
言葉がなかったようだ。
松本先生が述べたように、百尺竿頭一歩「百尺 竿頭に一歩
を進め、絶後に再び蘇る」を踏み出しておれば、短歌の世界も、
もっと奥深いものに到達しただろうか。
(2)
信綱
より手放されたホツマツタヱの行方
信綱より手放されたホツマツタエは、その幾つかの手を経て、
昭和41年8月神田の古本屋で、松本善之助により再発見さ
れた。そのホツマツタヱは、古事記や日本書紀より、更に古
の昔に、編纂されたものであった。
参考
hp_http://woshite.mond.jp/labo/modules/pukiwiki/
佐佐木信綱
の手元より
離れ、その
後 神田
で発見本→
(3) ホツマツタヱ 近代研究の始まり
歴史的 ホツマツタヱの近代研究への進化
「現代用語の基礎知識」の初代編集長をしていた松本善之助
は、日頃より、「本当の日本とは何なのだろうか?」との疑問を
持っていた。長年通っていた東京・神田の古本屋に、昭和41年
(1966)8月の週末も通っていた。ふと手にした二冊の本の内
の一冊に、今まで見たことのない文字の本があった。高額では
あったが、購入して自宅でじっくり見た所、その本は「小笠原長
武、奉呈本」であることがわかった。
今にして思えば、この本の「小笠原長武、奉呈本(三冊)」との
出会いが「ホツマツタヱの大衆化の始まり」であった。この日は、
その後、逸話となりホツマツタヱ研究者の間で、今でも、語り継
がれている。そして、この日を境に、ホツマ研究の歴史が急激
に動き始めることになった。
ホツマ研究者 吉田 六雄
(4) 「安岡正篤」先生とホツマツタヱ
☆あの漢学者の「安岡正篤」先生が、ホツマツタヱを習っていた。
その記録は、1966~9年のことになる。
「・・それから同家で、既に安岡正篤先生らのために開いてい
た例会に倣い、「ホツマ」を 勉強しはじめる。・・・」
出展:
松本善之助・月刊ほつま・193、194号(平成2年2月、3月)
【コメント】
このことを裏付けるように、平成20年9月20日赤坂例会の勉
強の場で、故・松本善之助先生と故・安岡正篤先生の関係が話
題になった。松本先生は、「ホツマツタヱに出会ってから3年間
は、安岡先生から物心両面の激励を受けていた。このことで
ホツマツタヱ研究の基礎が築けたと先生より聞いてた」とのこと
であった。 (先生の単行本「ホツマツタヘ」の14頁に、「3年間の
蟄居生活」との記載があります。)
(5)ホツマツタヱ 例会、研究会の始まり
東京・六本木で支援者にホツマ報告会を開く
大阪・自然社にて研究会、約10年続く。
日本橋・浜町にて研究会、約4年続く。
埼玉県和光市にて研究会、約2年続く。
京都にて研究会
都内にて東京研究会、約2年転々と移動。
六本木報告会より赤坂研究会が独立
東京研究会が合流する。約10年続く。
2000年1月 ホツマツタヱ講座をHPで公開始まる。
2015年8月 ホツマツタヱ、再発見の50年目を迎える。
2016年8月 ホツマツタヱ、再発見より満50年となる。
1966~69年
1972年
1978年5月
1980年7月
1982年頃
1982年1月
1984年 1月
ホツマツタヱ
目次
☆和仁估安聡本(やすとし本) ホツマツタヱの目録
「ヲシテをカナに直したもの(と漢訳文)」
☆アのヒマキ(天の巻)
コトノベのアヤ
キツのナとホムシさるアヤ
アメナナヨトコミキのアヤ
ヒヒメミオうむトノのアヤ
ヒノカミのミズミナのアヤ
ワカのマクラコトハのアヤ
ヒノカミソフキサキのアヤ
ノコシフミサガをたつアヤ
タマがえしハタレうつアヤ
ヤクモウチコトつくるアヤ
(序)
(1.東西の名と穂虫去る文)
(2.天七代、床御酒の文)
(3.一姫三男生む殿の文)
(4.日の神の瑞御名の文)
(5.和歌の枕言葉の文)
(6.日の神十二后の文)
(7.遺し文サガお絶つ文)
(8.魂返しハタレ撃つ文)
(9.ヤクモ撃ち琴つくる文)
カシマたちツリタイのアヤ
ミクサゆつりみうけのアヤ
アキツヒメアマカツのアヤ
ワカヒコイセススカのアヤ
ヨツギのるノトコトのアヤ
ミケヨロツなりそめのアヤ
(10.鹿島断ちツリタイの文)
(11.三種神器譲り、御受けの文)
(12.アキツ姫、天が児の文)
(13.ワカ彦、伊勢、鈴鹿の文)
(14.世継ぎ告る祝詞の文)
(15.御食、万、生成の文)
はらみつつしむヲビのアヤ (16.胎み慎しむ帯の文)
☆ワのヒマキ(地の巻)
カンカガミヤタのナのアヤ (17.神鏡八咫の名の文)
ヲノコロとまじなふのアヤ (18.オノコロとまじなふの文)
ノリノリヒトヌキマのアヤ
(19.ノリノリヒトヌキマの文)
スメミマゴトクサゑるアヤ (20.皇御孫十種神宝得る文)
ニハリミヤノリさたむアヤ (21.宮造り法の制定)
ヲキツヒコヒミツのハラヒ (22.オキツヒコ火水の祓)
ミハさためツルキナのアヤ (23.御衣定め剱名の文)
コヱクニハラミヤマのアヤ (24.コヱ国ハラミ山の文)
ヒコミコトチをゑるのアヤ (25.ヒコ命鉤を得るの文)
ウカヤアヲイカツラのアヤ (26.ウガヤ葵桂の文)
ミオヤカミフナタマのアヤ (27.御祖神船魂の文)
キミトミノコシノリのアヤ
(28.君臣遺し法の文)
☆ヤのヒマキ(人の巻)
タケヒトヤマトうちのアヤ
(29.神武大和討ちの文)
アマキミミヤコトリのアヤ
(30.天君、都鳥の文)
ナヲリカミミワカミのアヤ
(31.ナオリ神ミワ神の文)
フジとアワウミミズのアヤ
(32.富士と淡海瑞の文)
カミあがめヱヤミたすアヤ (33.神崇め疫病治す文)
ミマキのミヨミマナのアヤ
(34.ミマキの御世任那の文)
ヒボコきたるスマイのアヤ (35.ヒボコ来る角力の文)
ヤマトヒメカミしつむアヤ
(36.ヤマト姫、神鎮む文)
トリあわせタチバナのアヤ (37.鶏合せ、橘の文)
ヒシロノヨクマソうつアヤ
(38.ヒシロの世、クマソ撃つ文)
ホツマうちツズウタのアヤ (39.ホツマ撃ち、つず歌の文)
アツタカミヨをいなむアヤ
(40.アツタ神、世をいなむ文)
ホツマツタヱとは、
・ホツマツタヱとは、古代の歴史書のことです。
この書は、神武天皇の父(フキアワセズ)に仕えていた大物主の
クシヒコ・クシミカタマと崇神天皇の御世、三輪の臣のスエトシ・
オオタタネコが残した神代~景行天皇までの歴史書になります。
また奉呈文を書いた オオカシマは、伊勢神宮の神臣になります。
またホツマツタヱの意味には、4つの意味合いが有ります。
○ホツマクニ等の国名や地名の意味(28例)
○真実、マコトとかを意味するもの (22例)
○この二つの中間的な意味合い
( 2例)
○文献名ホツマツタヱ・フミの意味 ( 9例)
(注)
ホツマ国・・現在の静岡~南関東~茨城に当たる地域。
シワカミのホツマ国
ホツマ・クニの国名や地名
・ホツマ国より近い所で、浦安国があります。そしてこの当時の
国を北より表示しますと、
日隅国(青森)、日高見国(東北)、越国(新潟)、秀真国(関東)、
浦安国、コヱ国(静岡・愛知)、ネの国(福井・石川)、紀志伊国(紀
伊半島)、細矛・千足国(山陰・丹波・丹後)、中国(山陽道)、ソア
サ国(四国)、月隅国(九州)があります。
・また地名は、多賀、勿来、鹿島、酒折、熱田、伊勢、出雲、阿
波、宮崎、鹿児島があります。
ホツマツタヱの世界、BC6世紀~AC3世紀
☆ホツマツタヱ
この「ホツマツタヱ」の構成は、1章~40章からなり、全文が
ヲシデ文字で、 「五七調」により綴られた「詩」や「歴史書」と云え
ます。
また歴史書としての真価は、このホツマに記載の「古代暦」が
示すように、この国の歴史が、紀元前約536年~景行天皇の
御世55年の紀元262年までに渡って、記載されていることです。
このホツマツタヱは、日本固有の文字「ヲシテ」で記載されて
おり、純国産の古代史と云えます。
(古事記、日本書紀は、漢字交じりで渡来人が関与か)
ホツマツタヱの歴史性
「古代・スス暦」
紀元前約536年~紀元262年、このように日本の創世記の年
代が、掴めることは、このホツマツタヱに現在の暦と等しい、ホツ
マ暦が実在していたためにできることです。
そしてその古代暦・ホツマ暦には、スス暦、アスス暦の二つが
あり、そのスス暦は、独特な古代の暦になります。
独特(オリジナル)な暦の表現
道開きて
光重ぬる
年の数
百七十九万
二千四百
七十穂経るまで
ホツマツタヱが教える古代の秘密
☆記紀のワカヒト(神武)天皇も神話の時代の人と思っていまし
たが、ホツマツタヱに接して見て、神話と呼ばれたできごとが、
古代の史実の「できごと」であった。
①富士山の周辺に、天の原があった。ハラ(原)宮、酒折宮
②紀元前約330年、イザナギ、イサナミに子供が生まれる。
ウヒルギ、ワカヒト(若仁)、後、アマテル神。
③大御神が天の真名井に御幸されている頃、稲虫の大量
発生を若姫、ムカツ(向津)姫、他三十人の女性で歌う
「和歌の呪い」で西の海に追い払うできごと。
④若姫がアチヒコ(阿智彦)(暦を作る)に、恋文の回り歌を
送る。
富士山の周辺に、天の原があった
ワカヒト、のちのアマテル神は、富士山の周辺の「天の原」の
「ハラミサカオリ」宮で誕生されたと云う。
その地名は 「トシタミヤ→ハラノミヤ→ハラミサカオリノミヤ」と
宮名が変遷したことも記述されています。その「天の原」は、今
で云うところの「皇居」や「政府」などの「都」が在ったところになり
ます。なお、論文には古代の政庁と訳しております。
「天の原」は、アマテル神の命を受けて、伊勢・伊雑宮に移転
しますが、その計画を実施したのが、ホツマツタヱの「暦(スス
暦)を作ったオモイカネ(思兼命)」であった。
ハラの宮 所在地(新説)
【結論】
ハラミ山は富士山のことで、ホツマツタヱの記述の通りである。
そしてハラの場所は、「愛鷹山麓」にあたる。
【地形論】
結論を証明するため、東名高速道路下り由比PAに出かけて
下さい。ここより富士山、愛鷹山方向を視ると、富士山が頭にな
り、「愛鷹山」がハラに視えて来る。
(詳細なハラミ山、愛鷹山の風景写真を次頁に掲載)
天の原(古代の政庁)が、存在した記録
この文章はアマテル神が、天の原で生まれたと云う記録です。
ミー100
ヲヲヒヤマサノ
大日山南の
トシタミヤ
トシタ宮
↓
ミー121
コレイマハラノ
これ今原の
ミヤノナモ トシタトイイテ
宮の名も トシタと云いて
↓
28ー11
イミナワカヒト
諱、若仁
12 ウブミヤハ ハラミサカオリ 産宮は
原見、酒折
↓
40ー3 サカオリノ ミヤハムカシノ 酒折の
宮は昔の
ハラノミヤ
原の宮
東名高速道路 由比PAより視たハラ
由比PAより視たハラ
東名高速道路
ハラミ山 (富士山)
↓
愛鷹山系 (ハラ、サカオリ )
↓
東名高速道路下り由比PA からの風景です。写真左手が高速道路、右は駿
河湾、右奥が愛鷹山系です。2008年2月13日
http://mohsho.image.coocan.jp/satsutapass2.html
【言語論】
一音節では、「ハラ」と「ミ」は、別意味であり、「腹」を「視」える
場所が、ハラミの意味である。 (類似) 富士見
「ハラミ山」とは、「ハラ」が見える山と訳すると無理がない。
【地名論】
ハラの愛鷹山の南東山麓には、現在、ハラより地名が変更
された後の「坂下(サカシタ)」、読み方では、サカオリとも読める
地名がある。
またホツマツタヱ原文には、サカオリ宮の「東に桜植え 大内
宮」との記述により、桜の地名を捜すと、「坂下」の直ぐ西に、
「桜畑」の地名が存在している。近くに「桜畑上遺跡」がある。
残念ながら、遺跡の場所は、現在では、第二東名のインターチ
エンジ内になるようです。(再確認情報:NEXCO 中日本)
【地名の変遷】
富士山は太古より噴火の歴史と云われている。だが、ホツマ
ツタヱの記述には、「トシタ宮」「ハラ宮」「サカオリ宮」と地名は
変遷しているが、宮の位置が移転したとの記述が存在しない。
想定すると、富士山の噴火でも避難する必要のない場所に、
ハラ宮があったことが想像される。このことを証明するように、
裾野市の歴史年表を見ても、「原始(時代)3万年前頃、愛鷹・
箱根山麓に人々が居住。」、1707年富士山噴火 (富士山の
一番新しい噴火。宝永火口はこのときの噴火火口。当時の風
向きが西風だったため、裾野市域の被害は小山・御殿場に比
べると軽かったらしい)。このことからも、「愛鷹山麓」は富士山
噴火でも比較的に安全な地であった。ワカヒトが生まれたハラ
は、比較的に安全な地である愛鷹山麓であったと想定される。
http://www.city.susono.shizuoka.jp/life/ed/nenpyou.php
裾野の歴史年表
原始から現代までの裾野市の歴史年表です。
原始
赤文字は、ホツマの記述より再現年代 (吉田記)
3万年前頃 愛鷹・箱根山麓に人々が居住
1万5千年前頃 公文名・富沢・桃園・金沢に旧石器時代遺跡
7千年前頃 公文名・深良・金沢・千福・大畑に縄文遺跡
5千年前頃 千福・金沢に縄文遺跡
4千年前頃 茶畑・公文名・深良・金沢・葛山・桃園に縄文遺跡
3500年前頃 葛山に縄文遺跡
2750年前頃 富士山噴火
2580年前頃 富士山噴火
2430年前頃 ハラミの山の 良き草も 五百年前に 焼け失せし
2330年前頃 ワカヒト(アマテル神)が、生まれる
2300年前頃 富士山最後の活発期の噴火(本栖湖半分埋る)
2200年前頃 公文名に弥生遺跡
ホツマツタヱに日本語の起源があった
ホツマツタヱ
この聞き慣れない言葉に、何と沢山の言葉の語源があった。
【語源】
・お月様の「月」の語源
⇒「ツ」「キ」
・新築時の「先に建てる」の「先」の語源 ⇒ 「サ」「キ」
・寝る時の「寝」の語源
⇒「ネ」「ル」
・君の「君」の語源
⇒ 「キ」「ミ」
・結婚式の「三三九」の語源
・「天女のお池」は、古くは「キヨミ(湖)」だったetc
が数多く記述されています。この「言葉の語源」を知らないで、
貴方(女)は日本人と云えますか?
方角の言葉が、語源となった
(ヲシテ) キ、ツ、サ、ネ
(訳)
東、西、南、北
(日本古来の言葉)
この方角の言葉を組み合わせると次の語源となる
・お月様の「月」の語源
← ツ + キ
西から東に回るものを「月」と云う。
・「お先に」の「先」の語源 ← サ + キ
太陽が登る方向を南東(サキ)と云う。
・寝る時の「寝」の語源
← ネ
家で安定した気温の部屋は北(ネ)になる。
一年を通して寝るには、最適な部屋。
日本家屋の立ち柱
建て始め
日本家屋
オモイカネは家を立てる方向を、自然の摂理に倣い、太陽が
昇る方向~太陽が沈む方向に柱を立てて行くことを考えました。
このことより「先」の語源が生まれた。
・太陽の昇る方向・・・・南東(古代語)・・・サキ(漢字)・・・・先
サキ(南東)に建てられた柱 (検証)
オモイカネが発明した柱の建て初め、この21世紀現在でも、
新築現場において、「サキ」の方向に「最初の柱」が立った。
それは2009年8月21日の朝7時半頃、横浜の郊外の日吉町
で確認された。⇒基礎に据え付けられた横根太の上に、南東方
向に1本の柱が建ててあった。その期間は 2日間も、1本の柱
が立ったままであった。
サ(南)キ(東)方向に、立柱
8月21日 朝7時30分頃
柱のある方向が、サキ(南東)方向になる。(影方向に注目)
ホツマツタヱの歴史的、価値
古事記、日本書紀
日本の正史と呼ばれている古事記や日本書紀でも、神武天
皇以前の歴史は「神話化」されてよくわからないことが多い様で
す。また津田左右吉氏は、二つの文献を「物語である」などと
し、歴史性を否定している。これが日本の正史の現実の様です。
ホツマツタヱ
一方、神武天皇以前の歴史までも如実に記録した文献があり
ます。その文献は、漢字到来以前の文字で記録され、江戸時
代や明治時代に少し顔を出し、昭和の時代に「神田の古本屋」
で松本善之助先生により発見されました。後にホツマ暦が長暦
であったことが判明ししため、長暦(暦)を見直し、是正した暦で
歴史である証拠が検証されるに至った。
秘められた日本古代史 ホツマツタへ
松本善之助(故)先生のホツマツタヱ本が、遂に発売。
出版記念会
昭和55年6月12日、昭和55年6月23日、24日
場所
神奈川県箱根町ホテル
(月刊ほつま、78号による)
(注) 池田満氏は、自身のHPで、恩師松本先生を下のように大批判する。
HP: http://wosi.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-7b8e.html
2010年1月 6日 (水)
松本善之助先生、毎日版への道筋。 もはや、今では問題点も多く
あり…。
『秘められた日本史ホツマツタヘ』は、のちの「秀真伝(しゅうしんで
ん)族」(偽書製造家)の跳梁を助長するものでしかなかった。
ホツマツタヱ、テレビ放映される
テレビ取材
昭和55年6月24日、25日の両日、毎日新聞社から、
UHFTV放映のため取材に来る。
放映
昭和55年7月4日午後5時50分「記者の目」として放映
ホツマ遂に、TVに乗る。
(月刊ほつま、78号による)
ホツマツタヱ、拓殖大学で公開講義
拓殖大学の客員教授に松本善之助(故)先生が招かれ、
公開講座(90分)が無事終了した。学生350人、一般人250人
の大聴衆は、 予想外の入りだった。(32年前)
公開講座の開講・日時
昭和56年7月1日 午後2時40分~
場所
八王子市、拓殖大学八王子校舎
(月刊ほつま、88号、91号による)
なぜ、ホツマツタヱの暦を研究するのですか?
読者の質問に答えて
良く皆さんより、ご質問される。一方、読者から見ると「暦」は退屈
だと思う。だがアマテル神やニニキネやタケヒトは、いつ頃の人で
すか、と尋ねられると、自信持って答え・れ・な・い・人が、「ほとん
ど」だと思う。 私の暦研究は、これに答えるための研究である。
それは「ホツマツタヱ」が、「古事記」「日本書紀」の原典であると、
先達のホツマ研究者は述べて来たが、今一歩と思う。 その今イチ
の「理由」の一つに「年代の証明」が欠けていることが一因と思う。
私は、そのために「年代の証明」として、「ホツマツタヱの暦」を研究
してきた。ホツマツタヱの暦の研究は、世間に認めて貰うための
「作業」と思う。 以上の様に述べたがこのことが、真実か否か「貴方
の目」で、研究成果について、ご一読下さい。
(ホツマツタヱに古代 ロマンを求めて)より抜粋
古代史との出会い
読者の質問に答えて
私は小学生の頃から社会科が好きな方でした。
だが以後の私は雑誌、新聞などで歴史に関する記事を目にする
程度でした。
それが再び歴史に興味を持つ様になったのは当時43才でした。
西暦1991年2月10~11日にかけて横浜から延岡~宮崎に所
用で出かけた時のことです。2月10日の夜、ホテルのテレビは、
高千穂町の「建国の日」のできごとを放送していました。
それは 神話の話、「昔、この町の高千穂の峰に高天原より神々
が降りた。」所謂、天孫降臨に関するできごとでした。
私は、かって幼い頃に耳にした話を思いだしことは、云うに及び
ません。
それから帰りの飛行機の窓より何気なく見た景色が、奈良と
大阪を分けている生駒山の山並でした。
古代日本は明日香・奈良からと聞いていたが、なぜに高千穂町
で祝っているのだろうかと疑問を持ちました。過去に自分が知り
得た歴史認識は「間違だったのでは」の疑問が、だんだんと
膨らんで行くことが痛いほどわかってきました。
高千穂と明日香、自分の歴史知識の両天秤。「この国には、
太古よりの歴史がありカンタケ(神武)天皇を経て現代まで、
続いている筈だ。」と思いながら自分の中で「わからない部分の
歴史」、「無知な歴史を埋める作業」へと、突っ走って見たくなって
きました。
この様な動機の人は私一人ばかりではないと思いますが、私
の「幼い頃に社会科への興味心」がひとりでに動きだしてしまい
ました。
古代の歴史に疑問を抱いてから早や5年近くになってきました。
それまでに読破した約30冊強の歴史に関する本は、全て漢字
文字でした。
だが1993年3月6日(土曜)に出合った本は違っていました。
それは日本の「古代文字」でした。これは私にとって運命的な
出合でした。その古代文字の表現は、日常語に近いものでした。
それで、私には感じるものがありました。
これはきっと私たちの真実の祖先が書いたもので、写本、写
本の繰り返しで伝えられた真の「写本」でした。この本の名前は、
「ホツマツタヱ」という古代からの古文献でした。
私は団塊の世代です。離職時を目標に古代史の研究を始め
ましたが、離職時のその日には、約21年目の研究生活に入って
おります。
今回の「学問 ホツマツタヱ 上級編」は、「中級編」「入門編」の
名称を改訂したもので、「ホツマツタヱ」文献を紹介すると共に、
ホツマツタヱに記載されている、この「二つの暦」の紐解きを紹介
したものです。また「二つの暦」の解読が終了しましたので、今回
の更新で最終版になります。
☆暦の紐解き(解読)結果
そこで 最初の疑問の「日本の歴史を何千年前 まで 遡れます
か?」について答えますと、古代への遡り年は、「スス暦」のみでは、
今から約2,536年前になります。
この年こそが、現在でも神として祭られ「雛祭りの原形」となった
「ウビジニ、スビチニ」の結婚の年で、「スス暦」の起点になった年
でした。
但し、ホツマツタヱには、「スス暦」以前の内容も記述されており、
今後の研究により、年代が浮かび上がってくると思います。
目 次
☆日本の歴史を何千年前まで遡れますか? 72頁
☆第1章 東西の名と穂虫去る文
73頁
☆ホツマツタヱの勉強の仕方(写真添付)
80頁
☆ホツマツタヱの魅力
82頁
☆古事記、日本書紀との関係
83頁
☆神武天皇東征部分の三書の比較と三書を比較した結果 83頁
☆ホツマツタヱの世界へご案内
86頁
☆偉大な古代人の歴史
87頁
☆神功皇后紀より、新たに女神のアマテル神
が創造されて、二人のアマテル神がいた 91頁
☆ホツマツタヱの暦
98頁
☆本居宣長の真暦考とは?
99頁
☆ホツマツタヱの二つの暦とは?
100頁
☆スス暦とは?
101頁
☆光重ぬる 年の数 百七十九万 二千四百 七十穂経るまで
-改訂
103頁
☆ニニキネの天孫降臨とは、
104頁
☆スス暦の解読 その1
106頁
☆スス暦の解読 その2
108頁
☆中五日の意味とは
110頁
☆スス暦の時代の「一日 8穂」 2011_1_1 112頁
☆スス暦の時代の「一日16穂」 2011_6_20 113頁
☆最終版スス暦に隠された真実 ④ 1日16穂、8穂 114 頁
☆旧・スス暦に隠された真実 ③ 1日16穂 115頁
☆旧・スス暦に隠された真実 ③1日8穂+アスス暦の解読式
☆旧・スス暦に隠された真実 ③ 1日8穂
117頁
☆サルタヒコの出身地 (ホツマの記述)
119頁
☆サルタヒコの出身地は、茨城県だった?
120頁
☆古代の神名 その名付け方法
122頁
☆サルタヒコとは、猿田地区の男を意味した 122頁
☆サルタヒコ 終焉の地
123頁
☆アスス暦の二つの暦の概要
124頁
☆アスス暦とは?
125頁
☆アスス暦の扉を開ける
126頁
☆古天文学の斉藤国治とホツマ暦
127頁
☆暦とは? 暦が難しいと云われる理由
128頁
☆アスス暦の解読式の基本構想
129頁
☆できあがったアスス暦の式
130頁
☆訂正 ヱト・月暦の1ヶ年の表示変更
131頁
☆アスス暦に隠れていた二つの暦
133頁
☆解読式でのアスス暦の検証結果±1日で100%の精度
☆アスス暦より見た世界の暦
135頁
☆アスス暦の太陰太陽暦
136頁
☆二つの暦の性質
137頁
☆二つのヱト・月暦を使用した太陰太陽暦
138頁
☆できあがったアスス暦の太陰太陽暦
139頁
☆アスス暦・太陰太陽暦の一年の日数
140頁
☆アスス暦・太陰太陽暦の一年の平均日数計算結果 141頁
☆アスス暦の二つの月暦の秘密
142頁
☆アスス暦と日本書紀暦の暦日比較
143頁
☆日本書紀暦日の作為の秘密
144頁
☆アスス暦を麟徳暦(儀鳳暦)で計算する
145頁
☆現「アスス暦」の「一年の日数」を各種の暦でトライした結果146頁
☆日本史とホツマツタヱの古代年代の比較
148頁
☆シナ国・周の王墓群か
149頁
☆ホツマツタヱ古代のはじまり
150頁
☆【比較に当たっての条件】
153頁
☆ホツマツタヱとシナと日本との古代年代の比較図
154頁
★ 【新説】 スス暦(二十七鈴~)、アスス暦、
155頁
日本書紀暦の長暦の原因 2013_4_20頁
★スス暦・アスス暦 改訂履歴、長暦是正と遡り起点
157頁
★スス暦・アスス暦 長暦になった天君の世代
158頁
★長暦を是正した スス暦・アスス暦と考古学の対比結果159頁
① ゾロ、イネ と 稲
160頁
② イヅクリ
と 鉄
161頁
③ ミソコタカラ と 銅鐸
162頁
④ ハシモノ
と 埴輪
163頁
☆(注五)
日本書紀の野見宿禰が作った「埴輪の起源」 164頁
★ハラミ 八湖 【ホツマの記述】2014_5_29
165頁
★富士五湖と山中湖の形成 【山中湖・案内版より引用】
166頁
★ハラミ 八湖 年代の変遷頁
167頁
☆ワカヒトの生涯年齢の推定
168頁
☆ワカヒトの弟 「ハナキネの生まれ年(西暦)の推定」 169頁
☆紀元前325年6月3日の日蝕、紀元前321年3月22日の日蝕
☆姉ヶ崎の由来
172頁
☆ヲコヌシ(大国主)の御魂
174頁
☆天の羽衣のお池は、富士八湖の一つのキヨミ(湖)だった181頁
☆西南経て 酒折の宮に ヤマトタケが訪ねた酒折の宮
☆スズカ姫の静まります聖地を求めて
☆高千穂峰と天の逆矛
☆天の逆矛の行方
☆熊襲の地を捜して
☆フトマニと云う占い言葉の語源が判明する
☆フトマニの語源を考える
☆三種神宝と三種神器
☆三種神器の剣
☆寸(キ)の100倍が、高尺(タカバカリ)
☆八咫鏡の直径は、38~46cmもあった
☆助詞の「は」「わ」の変遷について
☆安聰本と長弘本の「は」「わ」比較
☆「は」と「わ」の考察
☆ホツマツタヱを読み解く ・・ホツマ研究者の過ち・
183頁
185頁
188頁
189頁
190頁
191頁
192頁
194頁
198頁
199頁
200頁
201頁
202頁
204頁
205頁
☆香取神・フツヌシの家系
206頁
☆阿智神社・奥宮に参拝して
207頁
☆阿智神社・由緒 (尺貫法の単位)
208頁
☆大和の道とヲヲコの御魂神を訪ねて
211頁
☆上古代の「文字」や「暦」について
212頁
☆高千穂 神楽の語源を訪ねて (1)
214頁
☆青島 海幸彦と山幸彦
(2)
216頁
☆鵜戸の浜と鵜戸神宮
(3)
218頁
☆宮崎宮とは、吾平山上陵の鵜戸六社権現 (4) 220頁
☆久米邦武と箱根・碓氷峠
222頁
☆ホツマツタヱとウスヰの坂
223頁
☆六代目~十代目 オオヤマスミの在位期間 225頁
☆ホツマの世界 三島大社の祭神、ご由緒
226頁
☆ホツマの世界 ツミハが訪ねた「ハラ」
227頁
☆オシヒトは、何故に伊豆雄走り(箱根)で神上りされたか。229頁
☆欠陥の「1鈴20年説」 、太陽暦に不整合な計算の証明 233頁
研究論文
日本の歴史を何千年前まで遡れますか?
まえがき
こんな疑問を持ったのは、私だけではないでしょうか?最近
の史学界では考古学中心であるため、縄文時代や弥生時代
の日々に「暦法」が使用できず、具体的な遡り年代が掴めな
いようです。
この問題や疑問を救ってくれたのが、日本書紀、古事記の
原本となった「ホツマツタヱ」文献でした。そのホツマツタヱに
は、二つの暦がありました。それは「スス暦」と「アスス暦」と云
う暦でした。
第1章 東西の名と穂虫去る文
ホツマツタヱを最初にめくると「奉納文」の後に、次の
古代文字で書かれた「五七調の文章」を目にします。
1文ー1
それわかは
すてられて
わかひめのかみ (五七調)
ひろたとそだつ
1文ー2
かなさきの
あわうわや
うまれひは
たちまひや
つまのちおゑて
てふちしほのめ
かしみけそなえ
みふゆかみおき
解説
ホツマツタヱは、文頭から庶民感覚で記載されている。
その最初は、幼子の「ワカ姫(アマテル神の姉)」が、誕生して
まもなく、昔の風習に習い、「子供が丈夫に育つようにと」、
一度は捨てられて「カナサキ翁」に拾われます。そのワカ姫の
成長を通じて「子育ての祝い」を、「ホツマツタヱ」は、優しく教え
てます。
捨拾 炊御飯供え 起ち舞ひ 三冬髪置き 初日餅
桃に雛 菖蒲に粽 七夕や 菊栗祝ひ 五歳冬
男は袴着る 女は被衣 言葉を直す
このような行事は、現在の行われており、この庶民感覚が
「ホツマツタヱ」の感覚になっているようです。
前頁に「ホツマツタヱ」の魅力の一旦を紹介しましたが、このよう
な「文章」の書き方は、他に「ホツマ」三書と云われている、
「ミカサフミ」、「フトマニ」にその姿を残しています。それでは古の
歴史を「ホツマツタヱ」文献を通じて 解説して行きましょう。
ホツマツタヱとは、
①日本の始まり、いわゆる古代の起源~景行天皇55年(西暦
262年)までの「Something great」の記録を古代暦(ホツマ暦)
を基に、詳細に記録した古代の歴史書にあたります。
②ホツマツタヱの編集者は、二人です。
一人は、クシミカタマと云う人です。この人は神武天皇の
左臣であった人です。もう一人は、オオタタネコと云う人です。
この人は、第12代景行天皇の三輪の臣であった人です。
ヤストシ(ヲヲタタネコ)の年齢
奉納文の六アヤ(文)に、234歳と記述されていた。
三輪の臣
ヲヲタタネコが
捧げんと
ニ百三十四歳謹みて押す
このヲヲタタネコの長暦(暦)の歳を元に戻した「アスス暦」で、
再計算して見た。生まれが西暦144年。ホツマを奉納した年が、
西暦262年となり、その時の年齢は、116歳であった。
但し、少し高齢に計算されるため、再検討が必要と考える。
天鈴
御世
開化初年
560
1
スエトシ生
609
50
崇神初年
621
スエトシ初見
626
景行初年
788
景行55年
843
6
スエトシ年齢
吉田説
スエトシ年齢
120
0
144
0
12
151
6
17
153
9
234
43
234
262
116
③一方、ホツマツタヱの研究の歴史を遡って 見ますと、古くは
江戸時代に遡ります。その時の研究者は、和仁估安聰と云う
人です。この人は、ホツマツタヱの最初の編集者である ク
シミカタマの第78代の穎孫です。現在ホツマツタヱの写本で
最古のものは、このワニコヤストシの手によるものが、最古
になります。
④明治時代~昭和初期になりますと、四国・宇和島の小笠原家
において、親子三代に渡り、ホツマツタヱの研究がなされま
した。その時の研究本が当時の明治政府に寄贈され、のち
にこの本が現在国会図書館に蔵書されていた様です。
⑤ではこのホツマツタヱが、どの様にして普及したかと申し上げ
ますと、それは、故松本善之助先生が昭和41年8月に、神
田の古本屋に おいて「ホツマツタヱ1文~16文」の写本を
発見されたことに始まります。
⑥その後松本善之助氏は、東京、名古屋、大阪、福岡と
研究会を主催され、また長年に渡り、「月刊ほつま」を
発行されホツマツタヱの普及にご尽力されました。
この様にして、研究成果が一部の出版物として世に
出回ることになり、私たちは「ホツマツタヱ」を知るところ
になって来ました。
⑦その間松本先生は「多くの研究本」と「月刊ホツマ」を残さ
れて、平成6年8月に後進に道を譲られました。(各地の
研究会も修了した。)そして、平成15年4月7日に神上
がりされました。
⑧故松本先生の功績に対し、高畠氏、中川氏、山田氏、
宮永氏、皿井氏のご協力を得て、「松本善之助_ウィキペ
ディア」を、2012年5月20日に上程した。
⑧松本善之助を知るホツマツタヱ研究者たち
現在、故松本先生の研究会に参加していた人たちが、全国
にいます。
この研究会に参加していた人たち(弟子)が、中心になり
東京、名古屋、岩手、大阪にて、ホツマツタヱの研究の火を
灯っております。
また、レベルの低下も甚だしく ホツマツタヱが難しいため、
ホツマツタヱと云いながら密教や山岳宗教などを混同させ
悦に入っているホツマファンが目立て来た。
(注)三重は、本人のHPにて、ヲシテ研究としているため、
「ホツマツタヱ研究」より除外しております。今後、HPの
説明が変更になれば、訂正します。
ホツマツタヱの初級の勉強の仕方
1、ホツマツタヱの原文・直訳文の対比本の発売元
「ほつまつたえ 上・下」 鏑邦男編書
2、原文・直訳本
原文はオシデと呼ぶ古代文字の全巻四十章。また全文が
五七調で記載され、行数は九千百七十余、文字数は 約十
一万百字の膨大な「本」である。
3、勉強の仕方
頁ごとの文を眺め、文節ごとに「区切り文」にすることで、
ホツマ文が理解しやすい。本・1文(アヤ)に赤線で区切った、
サンプル文を次頁に添付あり。
ホツマツタヱの魅力
ホツマツタヱの文章は、
古代ヤマト言葉の五七調の口語体で書かれています。
そのために文章を読んで見ますと、古代のワカヒト(アマテ
ル神)やオオタタネコ等が、私たちと同じ様な「日常会話」で
話しており、この会話の妙味がおもしろく、日本人である
私たちは、我がことの様にホツマツタヱを読んでしまいます。
だが最初は、古代ヤマト言葉のために「難しい言い回し」
に少し戸惑いましたが、繰り返し読むことで 早く慣れた様
です。
古事記、日本書紀との関係
①現在古事記や日本書紀は、日本の原点と云われる古文献
であることは、周知の事実です。
②一方ホツマツタヱは、まだ一部の本物趣向の研究者に知ら
れた「無名に近い文献」です。
③なお、日本書紀、古事記とホツマツタヱの関係を調べた人
たちがいます。最初に比較した人は、四国の小笠原家です。
その後、故松本先生が比較されました。氏の意志を引き継
いだ池田氏は、後に「三書比較」を発表しております。
④だが、ホツマツタヱより日本書記を見ますと、多くの資料が
日本書紀に反映してなく、特に、ホツマツタヱのスス暦は、
皆無と云えます。またアスス暦の年に相当する記述もありま
せん。あるのは、日付と裏付けのヱトは同じようです。
神武天皇東征部分の三書の比較
・ホツマツタヱ
アススキミヱニ カンナミカ
ミフネノイタル ハヤスヒト
アミコミヅカラ モロヒキテ
・日本書紀
是年也、太歳甲寅。 其年冬 十月丁巳朔辛酉。天皇親帥諸皇子船
師東征。 至速吸之門。
(ことしなり、をふとしきのえとら。そのとしのふゆ かんなつきひのと
みのつきたちのひかのととりのひ。すめらみことみつから もろもろ
のみこたちふないくさひきいて ひむかしうちたまふ。はやすひのみ
なとにいたります。)
・古事記
(即自日向發、幸行筑紫。故従其國上幸之時。乗亀甲為釣乍、打羽
拳来人)速吸之門遇。
(すなわち ひむかよりたたして、つくしにいでましき。かれそのくにより
のぼりいでますときに。かめのせにのりて、つりつつし、うちはぶりく
るひと。はやすひなどにあひき。)
三書を比較した結果
①この結果、ホツマツタヱが日本書紀や古事記の原典である
こと判明しました。このことより「ホツマツタヱ」文献の学術
性が証明されたために、 無視できなくなってきました。
②また文章を読んで一番わかりやすい文章は、 ホツマツタヱ
の様です。このことから日本古来の文章と云えます。反面
「アススキミヱニ」の文節の様に、現在では何のことかわか
らないヤマト言葉があります。これは古代語でありますが、
ホツマツタヱ研究者には既に解明されております。
③それに対し日本書紀や古事記は明らかに漢文調であり、中
国より漢字が伝わった以降に構成された文章だと云うこと
が云えます。
(古事記、日本書紀の編纂年は、西暦700年、720年にな
ります。)
ホツマツタヱの世界へご案内
ホツマツタヱは、紀元前6世紀~紀元3世紀までの内容を記録
していることが、最近の研究でわかってきた。特に
①「雛祭り」の起源が、紀元前6世紀より始まっていたこと。
②「アマテルことウオヒルギ」の生まれが、紀元前4世紀に富士山
の「ハラミサカオリの宮」であったこと。
③「神武天皇」の生れが、宮崎でなく、滋賀の多賀大社であった。
一般的に宮崎と思われているが宮崎ではなかった。
④宮崎は宮崎山のことを云い、宮崎山とは、吾平山上陵のことで
ある。 そして吾平山上陵は、父君の終焉の地であり、天日嗣
を受けた地であった。このことは古事記や日本書紀では抹消
されている。
偉大な古代人の歴史
ホツマツタヱでは、古代の「偉大な古代の人」たちが、崇めら
れてカミ(神)となっています。今回、ホツマツタヱ研究者の立場
より、そのカミ(神)たちを、初めカミ(神)より 一人々々簡単に解
説することにしました。
【カミ(神)】
①アメミオヤ:ホツマツタヱの初めに描かれている神。天地創造
時の天上界の神である。
②次の神はアメノミナカヌシ:地上界の初めての人神。
③次の神はクニトコタチ:「初の世はクニトコタチぞ」と云われる
通り「天神七代神」の初代神である。
④次の神はクニサッチである。
トホカミヱヒタメの八人で、八つの国の国君の始祖である。
二代目神の トの国は、後のホツマ国です。
⑤次の神はトヨクンヌである。
天より三つ業を「君・臣・民」と分けた神です。三代目神
⑥次の神はウビチニとスビチである。
ホツマツタヱの最初は、この二人の恋愛談義を多く記録
しており、「雛祭りの原型」になった神で、「モモヒナギ・モ
モヒナミ」の神です。「妻定む 天成る道の」。四代目神
またホツマツタヱの暦である「スス暦」がスタートした時
期は、解読結果から紀元前6世紀であることがわかって
きた。
⑦次の神は、ツノグヰ・イクグイである。
ヲヲトノチ(大戸之道)・ヲヲトマエと(大戸前)で、戸前で見
合いした神。五代目神
⑧次の神は、ヲモダル・カシコネである。六代目神
⑨次の神は、イサナギ・イサナミである。
2-26文
ケタツボの 西南の筑波の
イサ宮に 覗き相見て
イサナギと イサナミとなる
(注)
ケタツボ・・・日高見国の中心地、宮居の地
伊佐宮・・・・イサナキの宮居
この文章の「覗き相見て」は、昭和の一時代にも若い男女が
お見合いをした時と同じ風景が、イサナギの時代に、すでに
あった。
私はこの文章がホツマツタヱの原点と考えホツマツタヱを志す
原点にもなった。
⑩次の神は、ワカヒト・セオリツ姫
アマテルことワカヒトは男神と云うことです。
ホツマツタヱの真実と世間の通説とは大きく違います。またアマ
テル神には、后が12人+閏姫を入れて13名も居ました。その
内にセオリツ姫が正后となった。
(注記)
だが、世間では、アマテル神の女神説が消えない。このことに
ついて、その後、関西の神社の祭神を、神社名監で調べると、
「天照大神荒御魂」となっている。この神は、男性のアマテル神
と思って、神社の沿革を読んで見ると、「仲哀天皇九年、神功皇
后の御創建にかかる。武庫の浜辺に於いて、天照大神の神誨
により、此地にその荒魂を奉斎したものである。故に伊勢皇大
神の御別体として古来朝野の崇敬を聚つめた。・・・・(後略)・・」
と記載されていた。
神功皇后紀より、新たに女神のアマテル神
が創造されて、二人のアマテル神がいた
沿革には、「伊勢皇大神の御別体」と記載してあった。
この伊勢皇大神は、ふつう、男性のアマテル神を指すと云わ
れる。それに対し、「伊勢皇大神の御別体」となると、男性の
アマテル神以外に、もう一人アマテル神がいたことになる。
そう見ると、「天照大神荒御魂」は、日本書紀に記載されてい
る「・・(前略)・・先の日に天皇に教へ奉りしは誰の神ぞ。願はく
はその名を知らむと曰し給ふ。七日七に夜に逮りて、答へて曰
はく、神風の伊勢の國の、百傳ふ度逢の懸の、拆く鈴五十鈴の
宮に居せる神、名は撞賢木厳の御魂、天疎る向津媛の命。・・
(後略)・・」となる。要は、男性のアマテル神のお妃の向津媛
(ムカツ姫)が、 「天照大神荒御魂」のアマテル神であった。
このことは、関西の神社のHPより想像が可能であった。
ヒルコ姫の出生
イザナギ・イザナミは、国中を巡幸しながらの途中、兵庫県の
西宮で長女のヒルコ姫を生みます。生まれたそのヒルコ姫は
三才になると、カナサキ夫婦(住吉神社の祭神)に預けられ育て
られます。
ワカヒト(アマテル神)の出生
その後もイザナギ・イザナミは、国中を巡幸した後、ハラミヤマ
(富士山の古名)の「ハラミサカオリの宮」にて、ウヒルギが生ま
れます。ウヒルギことワカヒトが幼少になると、祖父の第五代タ
カミムスビのトヨケが治めていた国の日高見国にて、天日嗣の
教育を受けられました。
その教育の場所は、現在の多賀城政庁跡がその場所に当たる
様です。
その頃、天の原(ハラの宮)の移転計画が持ち上がります。
移転計画は建築の神様、暦を作った「オモイカネ」に指示がで
ます。
小耳 その1
川崎の民家園をご存じですか。
その民家園の一角に「思金神」と書かれた杓文字があります。
その杓文字の意味は建築の神様を現してます。その思兼命
のすごいところは、直角を算出する三角形の黄金比 3:4:5 を
ピタゴラスより早く発見し、建築に応用している点です。
このことは学校教育では出てこないが、大工の世界は知れ
渡っていることです。
先生が、運動会のグランドにコースを書かれる元の直角は、
この思兼命の黄金比とのことです。
小耳 その2
長野県下伊那郡阿知村の昼神温泉郷に、 「阿知神社」
があります。
思兼命は、この阿智村で生まれました。今では「阿知神
社」に祭神として祭られています。
数年前に村人から聞いた話ですが、思兼命こと阿智彦は
「数学の神様」と慕われると云います。
また東大などや宇宙公団などのロケット関係者が訪れると
云うことを聞いています。
私のアチヒコの感想は、ホツマツタヱの暦の一つである
「スス暦」を創作した「すごい人」と思っております。「スス
暦」と「アスス暦」を解読するのに約10年費やしてしまった。
そのオモイカネは、ハラの宮を詳しく写し伊勢の伊雑に都
を移し、「イサワの宮」を作ります。
この「イサワの宮」にてアマテル神は、晩年まで政をされた
のでした。
その後オシホミに天日嗣の位を譲られたあと、晩年を伊勢
の宇治で過ごされました。
また第五代タカミムスビのトヨケは、丹後半島の真名井の朝
日宮にて神上がりされましたが、アマテルは亡くなる際に、
トヨケが神上がりされた真名井の朝日宮の傍らに、自分を
葬る様にと遺言されました。
このため、アマテル神が最初に祭られた地が、天真名井に
なります。現在この地は、その後の調査によりますと、本来の
天真名井は、丹後半島の内陸に存在するようです。
(参考地)
・比沼麻奈為神社 豊受大神宮元宮
・籠(この)神社の奥宮で、真名井神社。
のちに、ヤマト姫の手により天真名井より巡幸されて、現在の
伊勢神宮に鎮座することになります。
この様に「古代の秘密」が、現在に現れてくると、ホツマツタヱ
文献の真実が、増々評価されます。
・ここで、 古代日本の「Something great」の系図を説明します。
①クニトコタチ~タカヒトまでを神代7代と云います。②ワカヒト~
以降がスメラギの系図と云います。このウビチニ~以降にオモイ
カネが作った「暦」があり、ウビチニ~タケヒトまでが「スス暦」と
云う暦です。またそれ以降は、「アスス暦」と云う暦になります。
アメノミオヤーアメノミナカヌシー①クニトコタチークニサッチー
トヨクンヌーウビチニーツノグイーオモダル-×
I------アワナギータカヒトー②ワカヒトー
(イザナミ) (アマテル)
オシヒトーキヨヒトーウツキネーカモヒトータケヒトーヤスギネー
(オシホミ) (ニニキネ) (ヒコホホデミ)(フキアワセズ)(天皇初代) (2代)
シギヒトーヨシヒトーミルヒトーオシヒトーネコヒトーモトギネー
(3代)
(4代)
(5代)
(6代)
フトヒヒーヰソニエーヰソサチータリヒコ
(9代)
(10代)
(11代)
(12代)
(7代)
(8代)
ホツマツタヱの暦
【解読までの動機】
・平成6年3月に、故松本先生にお会いしホツマツタヱの本を頂き
ました。その後一年くらいして、研究テーマは決まったかとの電
話を頂きました。
・その時脳裏には、ホツマツタヱの解説結果を「一冊の本にしよう」
とも計画していました。
・またホツマツタヱがいつ頃のものか気になっていたこともあり、
「スス暦」と「アスス暦」の解読と答えてしまいました。
(後日談)
・2002/3 アスス暦が解読後、原稿を自宅に届けました。その
先生より「良く、書けているよ」と電話頂きました。
・2013/5/15 「ホツマと考古学の年代が一致しました」と、
お電話を差し上げ、先生の墓前にご報告をお願いしました。
本居宣長の真暦考とは?
このように「ホツマツタヱ」に暦法があることを理解して頂きましたが、
江戸時代の国学者の本居宣長も「真暦考」において、古代日本に
「こよみ」と訓読みの言葉があるところから「日本古来の暦」があっ
たと、述べておりました。
真暦考
是はいまだ異国の暦法の渡り来らざりしいま
上古の年月日の定めを考へしるしたる書なり
(訳文)
この古事記に記載の暦は異国(中国等)の暦法が、日本に渡って
来てない時の暦であって、今古事記に記載の「上古の年月日」の
「定められた方法」を考え、知る、したる書なり、述べている。
(注)本真暦考は、下記のHPより引用しました。

http://kstn.fc2web.com/norinaga_mokuroku.html
ホツマツタヱの二つの暦とは?
(1) 「スス暦」、(2)「アスス暦」
ホツマツタヱには、「スス暦」と「アスス暦」の二つの暦があります。
この二つの暦を、日本書紀の暦法と比較して見ました。
【日本書記の暦法】
まず日本書記の暦法ですが、神武天皇~以降の天皇について
記載しており 「中国暦」で既に解読され「建国記念日」の制定の元
になっていました。
【スス暦、アスス暦】
一方「ひな祭り」の原形になった「天君」であるウビジニ、スビチニ
より 「暦」が起きており、この暦を「スス暦」と云いました。次の暦は
、アスス暦と云いました。神武天皇~景行天皇までを記載していま
した。
スス暦とは?
ホツマツタヱには、思兼命が 「昔日読みの 思兼 暦作りて
ここにあり」 と記載している。
またスス暦の原点は「マサカキを植えて、そのあと植え継ぎす
る」と教える。また 「千枝の年に種植えて明くる年生えるマサカ
キを植え」更に「五十鈴の千枝の二十年天替る」と云う。
この「マサカキを植えて数えた」数字が、ホツマツタヱ原文にあ
る。→百七十九万 二千四百 七十穂
例えば、
・29-8~9文を直訳文すると次の様になる。
別雷の
君と
天の磐座
押し開き
イズの道別に
治まりて
御祖に仕ふ
道開きて
光重ぬる
年の数
百七十九万
二千四百
七十穂経るまで
訳文
アマテルより「別雷の天君」の名を賜った ニニキネは、天の
磐座を自ら押し開き、稜威の道別に治まられて 御祖のアマ
テル神に仕えられた。御祖
そのアマテル神は 玉杵ことトヨケの教えを基に「天成る道」
を開かれてから今日まで 日毎、朝日(光)を浴びられ 重ね
られること 年の数にして「百七十九万二千四百七十穂」が
経った。・・・この証明は、次頁が詳しい。
一方日本書紀の神武天皇の条にも 大きい数字があります。
この数字の基は、ニニキネが高千穂に天孫降臨されてから
今日まで、一百七十九萬二千四百七十餘歳としている。
ニニキネの天孫降臨とする点が、ホツマツタヱとの違いです。
(漢文)
自天祖降跡以逮、于今一百七十九萬二千四百七十餘歳
(訳文)
天つ祖の降りまししより以遠、今に一百七十九萬二千四百
七十餘歳なり
光重ぬる 年の数 百七十九万
二千四百 七十穂経るまで
もう一度、 29-8~9文の訳文を見ますと ここで云う「百七十九万
二千四百七十穂」は、スス暦での年の数 のことでした。 この大き
な数字について、ホツマツタヱでは 「アマテルの生まれ日」 を起点
にし、神武天皇の始めの頃までの経過年数を表している様です。
次の式は、ホツマツタヱでのその証明の例です。
☆アマテル神の誕生の年 (1)
スス暦の21鈴125枝31穂 → (換算) 1,207,531穂
☆神武天皇の始め年 (2)
五十鈴
→(換算) 3,000,000穂
☆(2)-(1)
3,000,000穂 - 1,207,531穂 = 1,792,469穂
☆答え・・・アマテル神の生まれ日から
年の数 百七十九万二千四百七十穂経るに対し、誤差1穂
このことから御祖は、アマテル神を指すことが、わかってくる。
ニニキネの天孫降臨とは、
解説
天孫降臨について、日本書紀では「アマテル神の孫・ニニキネが
高千穂の峰に降りた」ことを意味しますが、ホツマツタヱを知ると若
干意味が違ってくる様です。
ホツマツタヱ原文の天孫降臨に該当する文を読みますと、「キミ
ハツクシノ タカチホゾ」「タカチホニイリ カミトナル」 「イズノカミ
タカチホノネノ カミトナル」と記載しております。
このことから「鹿児島県曽於郡の高千穂の地区」に「天下り」された
のではなく「天降り」されたと訳ができます。
このことから、天孫降臨の単語の一つ一つの意味を考えます
と、
★ 「天」がアマテル神を指しており、
★ 「孫」は、アマテル神より見て→子供・オシホミ→孫・ニニキ
ネの関係になるので、 ニニキネのことを指しています。
★ 「降」は、低い所に移ることの意です。
★ 「臨」は、高い所から低い所にむかって見ることの意です。
★ 総合すると
「アマテル神の孫のニニキネは、天の原より 高千穂の地区
に移られ豊かな国作りをされた」と訳する方が納得し易い様
です。天の原とは、古代の政庁を意味します。
スス暦の解読 その1
【スス暦の大きい暦数字】
百七十九万二千四百七十穂
この百七十九万二千四百七十穂について、スス暦の原点で
ある「マサカキを植えて数える」と「ホツマ・ヱト」の関係に換算し
て見ました。
【スス暦の鈴、枝、穂と大きい暦数字の関係】
二つの関係について、ホツマツタヱ原文では、
(1)ヱトの一周りで明くる年とし、
(2)ヱトの二順目の初めのヱト・キアヱ (エトの順位NO,1)
より枝と穂と数え、
(3)一枝六十、十枝は六百年、百枝は六千、千枝に六万を
(4)あまもりの一周りづつ暦なる
と記載しています。
このスス暦の公式に従って換算し、計算は鈴→枝→穂の順に
実施します。すると
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1,792,470穂÷60,000穂=29.8745鈴・・・・・30鈴
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29.8745鈴-29鈴=0.8745鈴
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0.8745鈴×1,000枝 = 874.5枝・・・・・・・874枝

874.5枝-874枝=0.5枝

0.5枝×60穂=30穂・・・・・・・・・・・・・・・・・ 30鈴

従って百七十九万二千四百七十穂は、30鈴875枝30穂
で表すことができました。
スス暦の解読 その2
2003_6_14 国会図書館へ納品
【一日とヱトの関係】
またホツマツタヱ文献は、古代の歴史書と述べたが、それに
しても「一日とヱトの関係」がなかなか掴めませんでした。
ある日ホツマツタヱ原文に、「ヱト」が日々に使用されていた跡
を発見しました。次の訳文がそうでした。
21ー64
汝知れ
コワお庭とす
枯庭屋
知らて穢けがるや
これにより アヱよりヤヱの
中五日
守りお離れて
この訳文の中の「アヱよりヤヱの 中五日」の文中に、
「一日とヱトの関係」を発見しました。
この訳文の中の「アヱよりヤヱの 中五日」の文中に、
「一日とヱトの関係」を発見しました。
この「○アヱ」「○ヤヱ」をホツマツタヱのエトの順で、
示しますと、
(1) キアヱ、(2) キアト、(3) ツミエ、(4) ツミト、(5) オヤヱ・・・・・
キアヱ・・・ヱトNO,1、
オヤヱ・・・ヱトNO,5となります。
( )は、ヱトNO,となり、
だが、この間の日数は、式 = 5 - 1。答えは「4」で「中3日」にな
り、「中五日」になりませんでした。
中五日の意味とは
「アエよりヤヱ」の法則
もう一度、「アヱよりヤヱの 中五日」の意味について、吟味する
ため ホツマツタヱのエトを並べて見ました。
するとその中で、「○アヱ」と「○ヤヱ」のみ抜き出して見ました。
【アエ】
(1) キアヱ、(13)ツアヱ、(25)オアヱ、(37)サアヱ、(49)ネアヱ
【ヤヱ】
(5) オヤヱ、(17) サヤヱ、(29) ネヤヱ、(41)キヤヱ、(53)ツヤヱ
上のエト表の抜粋「( )は、ヱトNO,」を示す。
【アエ】
(1) キアヱ、(13)ツアヱ、(25)オアヱ、(37)サアヱ、(49)ネアヱ
【ヤヱ】
(5) オヤヱ、(17) サヤヱ、(29) ネヤヱ、(41)キヤヱ、(53)ツヤヱ
この上の並びより「中五日」を照合すると、「(1)キアヱ」より数え
「(41)キヤヱ」が41番目になっています。
このことから「アヱよりヤヱの 中五日」は、「キアヱ~キヤヱ」とも
云える。
(式) NO,41-NO,1=40番目 → 中五日×8穂=40穂
スス暦の時代の「一日」
この様にしてスス暦の「一日」は、8穂であることが掴めました。
スス暦の時代の「1日8穂」
2003_6_14 発表
これで、スス暦の時代の「一日」は、8穂であることが掴めまし
た。また「ホ・穂」の意味は、時や時刻を現すことも わかりまし
た。すると1穂は、3時間になることもわかりました。
式 = 一日の24時間÷8穂 = 3時間
すると、「光重ぬる 年の数 百七十九万 二千四百七十穂経
るまで」の意味は、一日は8穂でわり算して224,058.75日の
ことでありました。
このスス暦の解読結果から「スス暦に隠された真実」の年代が、
徐々に明らかになってきた様です。
スス暦の時代の「1日16穂」
2011_4_16
発表
スス暦の一日について
①ホツマ文の「アヱよりヤヱの 中五日 守りお離れて」 を、発見
する十年くらい前に、「天の原 十六穂居ますも 一日とぞ」を
発見していた。
②法則 「アヱよりヤヱ」の法則
「天の原 十六穂居ますも 一日とぞ」の「十六穂」の間隔が、
「〇アヱ~〇ヤヱ」の法則に一致しているかを、ホツマ・ヱト表
を調査すると、「十六穂」の間隔は、 「(一)キアヱ」と「(十七)
サヤ ヱ」の差であった。このことから「一日は、十六穂」である
ことがわかって来た。
最終版 スス暦に隠された真実 ④
2014_3_13
1日16穂 スス暦 1鈴1穂~26鈴999枝59穂
1日 8穂 スス暦 27鈴~50鈴
○スス暦の一日について、長年研究した結果、「1日8穂説」 → 「1日8穂+アスス暦の 解読式説」 → 「1日16穂説」→
「 1日16穂(1鈴1穂~26鈴999枝59穂)、1日8穂(27鈴~50鈴)」と、一日の精度の力量を求めてきた。
そして検証結果、ニニキネが新治を治めた、約27鈴~、暦が改暦されていた。但し、ホツマの記述は、相変わらず、 1日16穂でなされ
ていたため、日常の記録が、二倍に間伸びして記録されていた。
〇次の年表は、この記録を修正するため、27鈴~は、1日32穂で割り算して、元に修正し、年表を作成した。
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スス暦(穂)
ホ ツ マ ツ タ ヱ の 記 載
スス暦(年)
1
ホツマ・スス暦の始まり
1年
1,207,531
①ウオヒルギこと、アマテル神が生まれる
207年
1,445,617
②オホナムチ、玉垣内宮を九重と比べる
247年
1,447,858
③アマテル神→オシヒトに天日嗣する
248年
1,501,001
④テルヒコ(兄)を葦原国に降ろし治めさせる
257年
1,501,043
⑤キョヒト(弟)、新治宮の宮造り法を定める
257年
1,710,098
⑥この頃ネの国にコロビツ国より訪問あり
280年
1,860,023
⑦ワケイカヅチ、瑞穂の宮を造る
292年
2,102,078
⑧キョヒト→ウツギネに天日嗣する
313年
2,511,069
⑨ウツギネ、ケヰの神となる(カモヒト日嗣)
348年
2,934,661
⑩カモタケスミとイソヨリ、子の授かる祈り
384年
⑪暦がスス→アススに変わる
⑫タケヒトのカシハラ宮の初年となる
(注1)上表は、スス暦を1日16穂、1日32穂で割り算し、太陽暦に換算。
紀元前
536年
330年
290年
289年
280年
280年
257年
245年
224年
189年
153年
151年
133年
2014年より
-2548年
-2348年
-2302年
-2301年
-2292年
-2292年
-2269年
-2257年
-2236年
-2201年
-2165年
-2163年
-2145年
スス暦に隠された真実 ③ 1日16穂
○スス暦の一日について、長年研究した結果、「1日8穂説」 → 「1日8穂+アスス暦の
解読式説」 → 「1日16穂説」と、一日の精度の力量を求めてきた。そして検証結果、
ホツマの記述の「月日」に対し、 「1日16穂説」(吉田説-③)が、一番誤差が少ないと云う
ことがわかってきた。
○次の年表は、スス暦の解読結果を基に、 、「1日は16穂」で、作成 したものです。
本計算の資料は、「検証ホツマツタヱ54号」に掲載されております。(11年6月20日)
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スス暦(穂)
ホ ツ マ ツ タ ヱ の 記 載
1
ホツマ・スス暦の始まり
1,207,531
①ウオヒルギこと、アマテル神が生まれる
1,445,617
②オホナムチ、玉垣内宮を九重と比べる
1,447,858
③アマテル神→オシヒトに天日嗣する
1,501,001
④テルヒコ(兄)を葦原国に降ろし治めさせる
1,501,043
⑤キョヒト(弟)、新治宮の宮造り法を定める
1,710,098
⑥この頃ネの国にコロビツ国より訪問あり
1,860,023
⑦ワケイカヅチ、瑞穂の宮を造る
2,102,078
⑧キョヒト→ウツギネに天日嗣する
2,511,069
⑨ウツギネ、ケヰの神となる(カモヒト日嗣)
2,934,661
⑩カモタケスミとイソヨリ、子の授かる祈り
⑪暦がスス→アススに変わる
⑫タケヒトのカシハラ宮の初年となる
(注1)上表は、スス暦を1日16穂として、太陽暦に換算。
スス暦(年)
1年
414年
495年
496年
514年
514年
585年
637年
720年
860年
1005年
1028年
1039年
紀元前
1233年
1026年
986年
985年
976年
976年
940年
915年
883年
803年
731年
697年
660年
2011年より
-3242年
-3036年
-2996年
-2995年
-2986年
-2986年
-2950年
-2925年
-2893年
-2813年
-2741年
-2707年
-2670年
スス暦に隠された真実 ② 1日8穂+アスス暦の解読式
○スス暦に隠された真実①(前頁)にて、1日8穂を解読したが、更に、アスス暦の解読式で、
スス暦まで 遡って計算し、スス暦とアスス暦の継続性を持たせた方式にて、古代日本を
遡って、年代を計算しました。 このことから「スス暦+アスス暦」までの一貫した年代の
算出により、古代日本の遡り年代が、確定できました。(吉田説-②)
○次の年表は、スス暦の解読結果を基に、 、「1日は8穂+アスス暦の解読式」で、作成
したものです。 本計算の資料は、国立国会図書館へ寄贈および財団法人史学会に論考の抜
き刷りとして、提供され おります。(10年12)月
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スス暦(穂)
ホ ツ マ ツ タ ヱ の 記 載
スス暦(年)
紀元前
1
ホツマ・スス暦の始まり
1年
1686年
1,207,531
①ウオヒルギこと、アマテル神が生まれる
393年
1293年
1,445,617
②オホナムチ、玉垣内宮を九重と比べる
469年
1216年
1,447,858
③アマテル神→オシヒトに天日嗣する
470年
1215年
1,501,001
④テルヒコ(兄)を葦原国に降ろし治めさせる
487年
1198年
1,501,043
⑤キョヒト(弟)、新治宮の宮造り法を定める
487年
1198年
1,710,098
⑥この頃ネの国にコロビツ国より訪問あり
555年
1130年
1,860,023
⑦ワケイカヅチ、瑞穂の宮を造る
604年
1081年
2,102,078
⑧キョヒト→ウツギネに天日嗣する
683年
1002年
2,511,069
⑨ウツギネ、ケヰの神となる(カモヒト日嗣)
816年
869年
2,934,661
⑩カモタケスミとイソヨリ、子の授かる祈り
954年
731年
⑪暦がスス→アススに変わる
988年
697年
⑫タケヒトのカシハラ宮の初年となる
1025年
660年
(注1)上表は、スス暦を1日8穂+アスス暦の解読式として、太陽暦に換算。
2011年より
-3696年
-3303年
-3226年
-3225年
-3208年
-3208年
-3140年
-3091年
-3012年
-2879年
-2741年
-2707年
-2670年
スス暦に隠された真実 ① 1日8穂
2003_4_2 国会図書館へ納品
○そのスス暦では暦の単位として、穂・枝・鈴が記録されています。(吉田説-①)
またその最小単位の穂について解読した結果、「一日は8穂」で計算されていることが、
わかってきました。このことから「スス暦」の全体の年代の遡り年代が、計算される様に
なってきました。
○次の年表は、スス暦の解読結果を基に、 、「1日は8穂」で、作成したものです。
我が国の「古代のすばらしさ」は、一般的に知られてないが、年表の様な事実が隠され
て いる様です。貴方はこのことを信じますか。それともこれを見て古代日本は、中国よ
り伝わってきたと 思えますか?
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スス暦(穂)
ホ ツ マ ツ タ ヱ の 記 載
1,207,531
①ウオヒルギこと、アマテル神が生まれる
1,445,617
②オホナムチ、玉垣内宮を九重と比べる
1,447,858
③アマテル神→オシヒトに天日嗣する
1,501,001
④テルヒコ(兄)を葦原国に降ろし治めさせる
1,501,043
⑤キョヒト(弟)、新治宮の宮造り法を定める
1,710,098
⑥この頃ネの国にコロビツ国より訪問あり
1,860,023
⑦ワケイカヅチ、瑞穂の宮を造る
2,102,078
⑧キョヒト→ウツギネに天日嗣する
2,511,069
⑨ウツギネ、ケヰの神となる(カモヒト日嗣)
2,934,661
⑩カモタケスミとイソヨリ、子の授かる祈り
⑪暦がスス→アススに変わる
⑫タケヒトのカシハラ宮の初年となる
(注1)上表は、スス暦を1日8穂として、太陽暦に換算。
スス暦(年)
414年
495年
496年
514年
514年
585年
637年
720年
860年
1005年
1028年
1039年
紀元前
1311年
1230年
1229年
1211年
1211年
1140年
1088年
1005年
865年
720年
697年
660年
2011年より
-3321年
-3240年
-3239年
-3221年
-3221年
-3150年
-3098年
-3015年
-2875年
-2730年
-2707年
-2670年
ご参考 ( 変更理由 ススの暦日が確定したため、水上説 → 吉田説に変更する。 )
○そのスス暦では暦の単位として、穂・枝・鈴が記録されています。(水上説)
水上氏は、未だ、スス暦が解読されてない時に、推論として、「1鈴20年」との説を述べら
れていた。
○次の年表は、スス暦の解読結果を基に、 、「1鈴20年」で、作成したものです。
我が国の「古代のすばらしさ」は、一般的に知られてないが、年表の様な事実が隠され
て いる様です。貴方はこのことを信じますか。それともこれを見て古代日本は、中国よ
り伝わってきたと 思えますか?
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スス暦(穂)
ホ ツ マ ツ タ ヱ の 記 載
1,207,531
①ウオヒルギこと、アマテル神が生まれる
1,445,617
②オホナムチ、玉垣内宮を九重と比べる
1,447,858
③アマテル神→オシヒトに天日嗣する
1,501,001
④テルヒコ(兄)を葦原国に降ろし治めさせる
1,501,043
⑤キョヒト(弟)、新治宮の宮造り法を定める
1,710,098
⑥この頃ネの国にコロビツ国より訪問あり
1,860,023
⑦ワケイカヅチ、瑞穂の宮を造る
2,102,078
⑧キョヒト→ウツギネに天日嗣する
2,511,069
⑨ウツギネ、ケヰの神となる(カモヒト日嗣)
2,934,661
⑩カモタケスミとイソヨリ、子の授かる祈り
⑪暦がスス→アススに変わる
⑫タケヒトのカシハラ宮の初年となる
(注1)上表は、スス暦を1鈴20年として、太陽暦に換算。
スス暦(年)
403年
482年
483年
500年
500年
570年
620年
701年
837年
978年
1002年
1039年
紀元前
1296年
1217年
1216年
1199年
1199年
1129年
1079年
998年
862年
721年
697年
660年
2011年より
-3306年
-3227年
-3216年
-3209年
-3209年
-3139年
-3089年
-3008年
-2872年
-2731年
-2707年
-2670年
サルタヒコの出身地 (ホツマの記述)
24ー30~33文
曰く 皇孫の
御幸前 かく居るは誰ぞ 答え云ふ 神の皇孫の 御幸なす 鵜川
(滋賀県)仮宮に 御饗して 相待つ長田 サルタヒコ ウスメ また
問ふ 何れから 行くや答えて われ行かん また問う汝 知るや
君 行きます所お 答え云ふ 君は筑紫の 高千穂ぞ 我は伊勢
の南 長田川
上記の文章は、サルタヒコが、自らの出身地を表すと思われる文
章の「相待つ長田」「我は伊勢の南 長田川」より、サルタヒコは、
三重県の伊勢市の出身と思われていた。また苗字、名を「長田猿
田彦」と解釈している。
サルタヒコの出身地は、茨城県だった?
【現在の猿田さんとサルタヒコの相関調査】
私の知り合いに、猿田さんがいる。この猿田さんは、茨城県で親
類の本家は、「猿田彦の子孫」と云っているとのことであった。
そこで、猿田さんの苗字について、ニニキネが高千穂の峰に御幸
するコースの県を調査して見た。驚くことに、猿田さんの苗字は、
茨城県に集中していた。
【茨城県】 710180名中326名 猿田さん率 0.046%
【三重県、滋賀県】には、サルタヒコの出身地と思われた猿田さん
の苗字は、現在、不在だった。
古代の神名 その名付け方法
古代の国造りした神・イサナギの(例)
「古事記」では伊邪那岐命、「日本書紀」では、伊弉諾神と記し
ている。
ホツマ的な名付けの解釈(私見)
この「イサナギ」は、「イサ、ナ、ギ」に分かれる。そして、個々の
意味であるが、ホツマを繰り返して朗読すると、 「イサ→伊佐(地
方の意味)」、「ナ→奈(の意味)」と、解釈できる。「ギ→木(男の意
味)」は、ホツマに記載あり。すると、サルタヒコの名付け方法は?
サルタヒコとは、猿田地区の男を意味した
サルタヒコ
サルタヒコは、ホツマ的に考えると、固有名詞でない。
その理由であるが、「イサナギ」の例で紹介すると、イサとは、茨城
県の筑波地区の地名の中の一つで、「伊佐」という地区名である。
そして、「ナ」は「の」であり、「ギ」は、「男」の意味であり、「イサナギ
→伊佐の男」と解釈するのが、本来の意味であった。
その証拠に、イサナミの諱は、タカヒト(高仁)である。
サルタとは茨城県の地図上に、猿田の地名を見ることができる。
有利な地名に、筑波山の北方面に桜川市猿田がある。
サルタヒコの「ヒコ」は、男であり、サルタヒコは、猿田地区の男であ
り、氏名などの固有名詞でなかった。
サルタヒコ 終焉の地
サルタヒコ 終焉の地はどこか?
ホツマでは、24ー33文に、「我は伊勢の南 長田川」と記して
いる。
現在、三重県鈴鹿市に、椿大神社がある。ここの歴史であるが、
「社伝によれば、垂直天皇27年、倭姫名に下った神託により、猿
田彦大神の墳墓の近くに「道別大神の社」として社殿が造営され
たことを創始とし、また現在の宮司は、猿田彦大神の末裔で、か
つ修験道の開祖である行満大明神の末裔であり、古くから猿田
彦の神孫として名高い。また常陸国の住人に猿田氏があるが、
猿田彦の末裔であるとされる。」とのことである。
「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による」
アスス暦の二つの暦の概要
【アスス暦の解読 履歴】
(1)アスス暦を解読し始めましたが、最初は暦の何かの原理原則
がわかりません。約6年くらいは、冬・五月・夏の連休は、文献
を漁ったり計算の精度に費やしてしまった。
(2)約8年目になり精度が約95%が確認できるまでになってきま
した。
(3)約11年目にして100%を達成することができました。
(4)この結果、暦を解読して判ったことは「ホツマツタヱの記述が、
正確であった」ことです。考えると当たり前のことでした。ホツマ
ツタヱの意味は、真実、マコトを意味しておりました。
(5)約20年目、長暦はスス暦より続いていた。長暦を解読済。
(6)それでは、アスス暦とは?
アスス暦とは?
この暦は神武天皇が若い頃にスス暦の基本であるスス苗が、
見つからなくなります。三輪の臣であるオオタタネコは、スス暦が
続かなるのを心配して 次の暦を模索始めました。その時の会
話をピックアップすると
28-63~65抜粋
時にフタヱが「こよみなは いかかなさんや」・・ 時、カスガ ヤ
ヤエミイワク「こよみなお アスズとせんや」。
このことにより「21穂の キナヱの春」より、スス暦→アススの暦
に変更されました。この時、紀元前151年のことになります。
アスス暦の扉を開ける
アスス暦は、日本書紀の暦と「時」を同じくしています。
だが同じ暦であるか否か不明でした。
不明な理由は、
①ヱト(兄弟)が違う。・・・ホツマの独特のヱトである。
②年代がアスス暦と天皇暦で表示されている。
③年、月、日、日のヱトと「4つ」の表示が記載されている個所
が、少ない。・・・僅か21個である。
また最大の理由は、過去にアスス暦を解読した人が、皆無で
あったことです。
古天文学の斉藤国治とホツマ暦
【斎藤国治先生に師事】
斉藤先生も「ホツマツタヱ」に、「暦」があることを認識されて
いた。
このことを裏付ける様に、アスス暦を解読後に、東京天文台に
勤務され退官後、「古天文学」を創設された故斉藤国治先生に
お会いした時に確認したが、「ホツマツタヱに暦があるのは
知っているが、研究はしていない。」とお話になられていた。
そして、ホツマツタヱの「アスス暦」の解読結果を話して、
暦の解読方法を尋ねたところ、「記述に対し再現する式を作れ
ばよい」と教えて頂いた。また、内田正男先生も紹介してくれて、
お手紙を出したことがあります。その時は、アスス暦の解読式
は完成していた。
暦とは? 暦が難しいと云われる理由
暦とは、
日本の暦では「日の裏付け」としての「エト」が、重要になって
います。
なぜ重要かと申しますと、暦の本である暦日大鑑(発行:新人物
往来社)の新旧暦月日対照表496頁に 「干支が動くと朔日が
変わり月も変わる」の文中に 「日の干支をさぐる法が重要なので
あり、”初めに干支ありき”」と記述しています。
そのため日本の暦では、「日の裏付」に「ヱト」が必ず使用されて
いるからです。今後 アスス暦を解読するにあたって、毎日の日の
裏付けとして、「解読ヱト」と「記述ヱト」を一致させることが条件と
なってきました。
アスス暦の解読式の基本構想
暦法とは、
一年の繰り替えしです。
但し、一年の長さや一月の長さが一定であれば、解読式を作成
するのは簡単になります。
だが現実的には、アスス暦と呼ばれる暦の正体は不明。そのため
にまず「年、月、日、日の「ヱト」が判っている21個の記載を「式」で
検算可能な検算式を導入を考えました。
式は暦法が一年の繰り返しのため、一次方程式を取り入れました。
基本式 Y=aX+B
できあがったアスス暦の式
ヱトの簡易検算式とは、
説明用の式 (解読中の式は、複雑で紙面が不足します。)
(式)
☆ある日からの経過日数(TD)の算式
経過日数(TD)=年(Y)+月(M)+日(D)
☆経過日数→日ヱトへの換算式
ヱトのナンバー=TD/(60)×60+補正(t)
☆算式への代入値
Y=(アスス穂-1)×1カ年の日数(y)
M=(アスス月-1)×1カ月の日数(m)
D= アスス日
×1カ日の日数(d)
(60):ヱトの60で割算し小数点部を残す意
t=日本書紀暦日原典の神武天皇初日の
ヱトNO,17.82に揃える値
訂正
ヱト・月暦の1ヶ年の表示変更
(注記)
アスス暦の二つの暦の一年の日数表示について、従来は、計
算結果の「差の表示」にしていたが、暦本来は、「数え表示」であ
るため、今後は、次の通りに すべての発行資料を改める。
(新)
(従来)
「数え表示」
「差の表示」
一年の表示
約三百八十五日
約三百八十四日
一年の表示
約二百六十五日
約二百六十四日
(補足)
上の二つの暦は、長暦であった。2013_4_20付
【二つの暦の年、月、日】
385日
☆月暦の1ヶ年約385日のy、m、d代入値
y=384.19488082
m= 29.546927616
d= 0.9979035975
t= 17.81823149
265日
☆月暦の1ヶ年約265日のy、m、d代入値
y=264.194653936
m= 29.581640788
d= 1.0200565793
t= 17.7046692
上記の式を計算される場合は、12桁以上の計算機をご使用下さい。
アスス暦に隠れていた二つの月暦
【二つの暦の1年の日数】
解読式を作成していく内に、最初に1ヶ年は約385日の式が
出現した。(ヱト・月暦としての1年約385日)だが、古代天皇の
長寿が気になり、1ヶ年はもっと少ない日数では無いかとの疑
問がでてきました。そこで再計算をして見た。
すると1ヶ年は約265日隠れていました。次頁にその解読式
での、アスス暦の検証結果を表にしました。
ご覧下さい。(ヱト・月暦としての1年約265日)
この解読結果の精度は、±1日で100%の精度になっていま
す。
解読式でのアスス暦の検証結果 ±1日で100%の精度
【記録ヱトと推算ヱトの検証結果】
1ヵ年約265日(月暦)
天皇名
年
月
日 日ヱト → 推算ヱト 判定
神武天皇 初年 1月 1日 17 → 17.82
●
同
4年 2月 1日 59 → 59.98
●
同
42年 1月 3日 51 → 51.84
●
神武天皇 76年 3月 10日 41 → 40.76
○
綏靖天皇 初年 1月 1日 57 → 56.61
○
綏靖天皇 36年 5月 10日 10 → 10.93
●
安寧天皇 38年 12月 6日 52 → 53.32
○
懿徳天皇 初年 2月 4日 49 → 49.24
●
懿徳天皇 22年 2月 1日 44 → 44.68
●
孝昭天皇 初年 1月 1日 23 → 23.41
●
崇神天皇 初年 1月 1日 19 → 19.41
●
崇神天皇 初年 2月 16日 3 →
4.28
○
同
29年 1月 1日 36 → 36.86
●
同
48年 1月 10日 25 → 25.73
●
同
62年 7月 1日 52 → 52.77
●
同
68年 12月 1日 45 → 45.85
●
垂仁天皇 初年 1月 1日 14 → 14.22
●
同
4年
9月 1日 23 → 23.46
●
同
23年
9月 1日 3 →
3.16
●
同
27年
8月 7日 16 → 16.48
●
同
37年
1月 1日 15 → 15.65
●
1ヵ年約385日(月暦)
推算ヱト
判定
17.82
●
59.95
●
51.80
●
40.51
○
56.63
○
10.62
●
52.86
●
49.14
●
44.68
●
23.53
●
19.53
●
4.05
○
36.99
●
25.67
●
52.70
●
45.61
●
14.33
●
23.29
●
3.00
●
16.22
●
15.80
●
アスス暦より見た世界の暦
【世界の暦との比較】
この1ヶ年約385日の暦と、1ヶ年約265日の二つのヱト・月
暦について、世界の暦と比較して見ますと、
現在でも13ヶ月は、古代の中米の月暦に使用されていました。
また9ヶ月は、現在でもイスラム暦が9ヶ月とのことでした。
二つのヱト・月暦は、月を基準としヱト・月暦になります。反対に
日本の旧暦は、太陰太陽暦を採用してあり、季節の調整がされ
ている暦でした。
そこでアスス暦の太陰太陽暦の解読について、チャレンジして
見ました。
詳しくは「検証ホツマツタヱ48号」(発行2010_4_16)を読んで
下さい。
アスス暦の太陰太陽暦
【太陰太陽暦】
アスス暦を解読しましたが1ヶ年の月数が13ヶ月又は、9ヶ月の
ため、ヱト・月暦では季節がズレてきます。
そこで原点に帰ってホツマツタヱを読んでみました。すると「これを
暦の うりふ(閏)月」と、季節の調整を示唆しておりました。
①疑問は募ります。
本当に太陰太陽暦の機能をもつ暦が存在するか。
②今までホツマツタヱの記載は「正しかった」。
このことを信じて、解読で得た「二つのヱト・月暦」で工夫する
ことを考えてみました。
二つの月暦の性質
【1ヶ年約385日の暦】
・この暦は、太陽暦の1ヶ年365.2422日と比較すると、
+約18.95日多い様です。
この暦を使い続ける9.6年目に季節が逆転し、19.3年目で
季節が一巡することになります。
【1ヶ年約265日の暦】
・この暦は、太陽暦の1ヶ年365.2422日と比較すると、
-約101.05日少ない様です。
1年にして約3.3ヶ月少ないことになります。この暦を使い続け
ると2年目で季節が逆転し、4年目で1.1周することになります。
二つのヱト・月暦を使用した太陰太陽暦
暦の組合わせの考え方
・二つの暦を組み合わせて、その積の和が太陽暦の1年 の日数
の積と同じなる式が基本となります。
・この考えを式にしますと次の左辺=右辺の式になります。
左辺
384.19488082×年数1+ 264.194653936×年数2
右辺
365.2421987810(注)×年数3
(注)1900年の一年の日数を引用しました。
・上記の計算は、エクセルの計算が便利です。
できあがったアスス暦の太陰太陽暦
アスス暦の太陰太陽暦の周期は、7年または6年を1周期になっ
ていました。平年は約385日、閏年は約265日の組み合わせに
なりました。また閏年の約265日を置く周期は、7年目、6年目、6
年目になっていました。
この7年+6年+6年の繰り返しを1周期とすると19年で1周期が
成り立つことがわかりました。
だが1203年目、2406年目、3628年目、4793年目、5996年
目は、本来は7年目に閏年の約264日を置くところが、1年早い6
年目に閏年がきていました。
この時の閏年の周期は、 7年目、6年目、6年目、更に6年目に
なっていました。
この場合の繰り返しの周期は19年で1周期→25年で1周期で
あった。
アスス暦・太陰太陽暦の一年の日数
【一年間の平均日数】
今回アスス暦の太陰太陽暦の計算を繰り返し、5996年間実施
して見ました。
この時の1年間の平均日数365.2422098982540日に計算されまし
た。このことは、西暦1900年1月0日12時の回帰年より換算した
1年間の日数約365.2422日の近似日になります。
このことから、ホツマツタヱの暦の記載は、現在の太陽暦の一年
間の日数とほとんど同じ日数で成り立っていたことが、今回証明
されることになりました。
アスス暦・太陰太陽暦の一年の平均日数
計算結果








19年間
1,203年間
2,406年間
3,628年間
4,793年間
5,996年間
一年間の平均日数
365.2474765772190
365.2422265344800
365.2422265344800
365.2422540291920
365.2422057227110
365.2422098982540
1900年の平均
365.2421987810
365.2421987810
365.2421987810
365.2421987810
365.2421987810
365.2421987810
それにしても、約5996年間計算しても、現在の一年間の日
数とほとんど同じ日数には、
正直云って驚きましたね。
アスス暦の二つの月暦の秘密
アスス暦の解読式の用途
・ヱト重視で、ヱト暦(1年385日、1年265日)を計算。
・長い年は月暦の組合わせで、19年で1周期を重視し、
太陰太陽暦で計算する。季節と平均日数。
ヱト暦
ヱトが変わると日が変わる。ヱト1~60で一順。
月(太陰)暦
一朔望月は、 29.530589日になる。朔、張、望。
アスス暦の太陰太陽暦
一年の日数は約365.2422日と、ヱト暦、月暦の組合せ。
アスス暦と日本書紀暦の暦日比較
【文楠】
(1)ホツマツタヘのアスス暦 : 底本=安聡本
(2)日本書紀の暦
: 底本=北野神社本(注)
(注)武田祐吉校注・朝日新聞社刊
【結果】
アスス暦と日本書紀暦の暦日を比較した結果、全141個中
30個に、表記の違があった。最大の違い日は、四ヶ月であった。
【サンプル】 タケヒトのヤマト討ち
29- 12 天鈴キミエ(51穂)の カンナミカ(十月三日)
天御子自ら
紀の暦
(太歳甲寅(51)・きのえとら) 冬十月、
丁巳(54)朔辛酉(58)(五日)
【二日違】
日本書紀暦日の作為の秘密
日本書紀の暦
日本書紀の編纂は、紀元720年である。その日本書紀の暦を
検証された小川先生、内田先生は、神代を儀鳳暦→あとの御世
に元嘉暦を採用していると証明されていた。中国での暦の採用
順は、元嘉暦(445年)、13代後の728年に麟徳暦(儀鳳暦)が採用
されていた。この日本書紀と中国での暦の採用を見ると、日本書
紀暦は、日本書紀編纂(720年)以降の728年以降に、元の暦を
儀鳳暦に組み換えたことが容易に推定される。
中国での採用順
元嘉暦445年→ 大明暦→三紀暦→玄始暦→正光暦→
興和暦→天保暦→天和暦→大象暦→開皇暦→大業暦→
皇極暦→戊寅元→麟徳暦(儀鳳暦)728年
アスス暦を麟徳暦(儀鳳暦)で計算する
【アスス暦と麟徳暦(儀鳳暦)と対比】
Q:アスス暦と麟徳暦(儀鳳暦)は同じ暦か?
A1:ホツマツタヱの日の全記述と、相対する日本書記の日の
記述を比べると、違う日が、4日個ある。
A2:年、月、日、日のヱトと「4つ」の表示が、記載されている
個所が、僅か21個であるが、この21個を小川先生、
内田先生の儀鳳暦の計算式で計算すると、全て一致する。
A3:アスス暦の暦日を、麟徳暦(儀鳳暦)で計算した場合の
一年の日数は、363.70日(120年間の平均)になる。
詳細は、次頁の表をご参照方。
現「アスス暦」の「一年の日数」を各種の暦でトライした結果
・「アスス暦」の太陰太陽暦は、計算年数が長くなる程、現太陽
暦に近似になる。なお、1年365日の検算は、1年385日×5
年+265日×1年の組み合わせにより確認ができる。
暦
名
記号
A
現
「アスス暦」
B
一年日数
平年
閏年
19年
384.1949
13ヶ月
-
月暦
A→B
太陽暦換算
19.99年
365.2422
12ヶ月
-
C
月暦+閏年
19年
346.3001
11ヶ月
13ヶ月
C→D
太陽暦換算
18年
365.2422
12ヶ月
-
E
月暦
19年
264.1947
9ヶ月
-
19年
365.2475
13ヶ月
9ヶ月
5996年
365.2422
13ヶ月
9ヶ月
19年
362.0974
12ヶ月
13ヶ月
120年
363.703
12ヶ月
13ヶ月
太陰太陽暦
F
C
調査年数
A
A+B A+E
現
「アスス暦」
を儀鳳暦
で計算
種名
G
太陰太陽暦
日本史とホツマツタヱの古代年代の比較
弥生時代の始まり
日本史の変遷を述べますと、縄文時代→弥生(早期・前期・中
期・後期)の順になります。
現在の注目の的は弥生時代の始まりでありますが、「弥生時
代の始まりは、紀元前10世紀にまでさかのぼる可能性がある」
と国立歴史民俗博物館の研究グループが19日発表しました。
(教科書は、今だ、紀元前5世紀である。)
このセンセンショナル話題が新聞に掲載されましたのは
2004年5月20日火曜日の毎日新聞の朝刊でした。
【年代の測定は放射性炭素(炭素14)法について】
新聞によりますと「年代測定の対象となったのは、水田稲作
の始まった弥生時代早期~後期の福岡県・佐賀県の
遺跡など」で、遺跡より発掘された「土器に付着していたススな
どの炭化物や水田跡の木の杭など30点以上の資料」とのこと
でした。
(1) 今回発表された九州北部での年代
縄文時代 ~1000年、弥生時代 1000年~
(2)従来の年代
縄文時代 ~ 500年、弥生時代 500年~
(毎日新聞より引用し、一部に補足文を追加)
ホツマ暦 古代カ(夏)の記述と古代シナの夏王朝
アマテル神は、伯母のココリ姫が語る話として、「西の国にカ(夏)があり、夏が滅びてから、王女のウケステメが、ネ
(北陸)に学びに来た」としている。またワカヒコの生れ年を、吉田説-③にて計算する。そこで、アマテル神の話と、
「カの国」や「ウケステメ王女の来日」は、ワカヒトの生れ年以前のことであったことがわかって来る。このことで
ホツマの古代の「カ」の記録が、古代中国の夏王朝のことであったことが、「暦学」として立証されることになった。
【シナ国・周の王墓群か】
シナの王朝の紀元前の変遷について述べますと、
殷→西周→春秋→戦国→前漢の順になります。年代的に述べ
ますと殷王朝は、約3000年前に誕生したシナの古代王朝で
1928年からの発掘で確認されております。
また「西周(紀元前1027年~紀元前770年)の王墓群か」と
みられる大陵墓遺跡が西安の西方に位置する周の古都・周原
地域の陝西(せんさい)省岐山県で見つかったようです。
(毎日新聞より引用し、一部に補足文を追加)
【ホツマツタヱ古代のはじまり】
ホツマツタヱで日本建国の変遷を見ますと、
(1)神代七代と呼ばれる「クニトコタチ→クニサツチ→トヨクンヌ
→ウビチニ→ツノグイ→ヲモダル・アワナギ」の世がありま
す。
(2)次にイサナギ→アマテル→ヲシホミ→ニニキネ→ヒコホホ
デミ→タケウガヤフキアワセズ→カンヤマトイハワレヒコと
続く世になります。
(3)この間に暦の記載があり、最初はイサナギとイサナミが
結婚した21鈴100枝があります。
(4)このことは、スス暦は1鈴1穂から始まっていることが容易
に推察され、スス暦は二人の結婚式よりもつと以前より
使われていたことがわかってきます。
(5)この期間は、約385年間になります。
(6) 暦に「ヱト(日付の変わり)」の具体的な記録が記載され
始めたのは、イサナギとイサナミの初子「ヒルコ・ワカ姫」の
弟で長子「ウヒルギ」こと「ワカヒト」こと「アマテル」の誕生日
になります。
(7) そのアマテルの生まれは、スス暦の21鈴125枝31穂に
なります。西暦に換算すると紀元前330年になります。
アマテルの長子は、「ヲシヒト」こと「ヲシホミ」になります。
アマテルよりヲシヒトが天位を日嗣したのは、紀元前289
年になります。
また紀元前3世紀頃の主なできごとをあげますと、紀元前
280年にアマテルの孫の「キヨヒト」こと「ニニキネ」より
「ウツキネ」こと「ヒコホホデミ」に天位が譲られた年になり
ます。
(8) この様に日本の古代の年代が説明できる様になったのは
、「クニトコタチ」や「オモイカネ」が創作し、暦を体系化した
ために、今では「スス暦」が西暦に換算できる様になりました。
【比較に当たっての条件】
古代中国の殷の時代や古代日本の縄文時代は余りにも古く、
始まりが不明瞭のために「建国等の始まりが明確」な次の時代を
比較対象としました。
そのため古代シナでは、建国が紀元前約1027年頃の西周に
なりました。古代日本では今年になり弥生時代の始まりが、500
年遡った弥生時代になりました。
またホツマツタヱでは、スス暦の始まりは、スス暦の1鈴1穂を
初年とすると、紀元前536年となります。
ホツマツタヱとシナと日本との古代年代の比較図
(訂正:約540年→約536年)<その3>
【新説】
スス暦(二十七鈴~)、アスス暦、日本書紀暦の長暦の原因
2013_4_20
(一)長暦になった原因を明らかにする。(吉田説)
スス暦の当初~(仮)二十七鈴以前は長暦でないが、スス
暦(二十七鈴~)、アスス暦、日本書紀暦に存在した「モノヌ
シ」系、「オオヤマスミ」系、「スメラギ(天皇)」の在位年数が
長くなり、このためスス暦、アスス暦、日本書紀暦は、一般的
に「長暦」と呼ばれてきた。
その原因を今回の検証より説明すると、スス暦のベースに
なった「大きい暦数字(穂)」の取り扱いを「一日」の「数え穂」
に運用する際に、スス暦の当初は「十六穂」であったものが、
年が下がった頃に「八穂」と決めた筈であろうが、検証した結
果からは、全て「一日十六穂」のままで計算された「大きい暦
数字(元十六穂・注)」になっていた。
(注)
本来は、スス暦の(仮)二十七鈴以前の「大きい暦数字
(穂)」は、「大きく値」になる。もう一方の(仮)二十七鈴以後
は、「大きい暦数字(穂)」は「半減した小さな値」になるべきで
ある。
そのため、「一日の数え穂」が、「十六穂→八穂」に改定さ
れたのちの(仮)二十七鈴(注十一)以降の在位年数を求め
る場合は、見掛け上「大きい暦数字(元十六穂)」が、二倍の
「倍長化」しているため、「一日十六穂」の二倍の「一日三十
二穂」にて割り算することで、元の「一日八穂」で計算したと
同じ「大きい暦数字(元八穂)」に戻す必要が生じていた。
だが、残念ながら古代には、この戻す計算が行われなかっ
た。ただ、単純に「大きい暦数字(元十六穂)」を「一日八穂」
にて、割り算して「在位年数」を求めたため、「一日十六穂」が、
「一日八穂」で割り算され、一日が二日になり、この結果は、
約二倍の在位年数の計算になり、延いては、「天皇の寿命が
百歳を超過する」などの「長暦」と呼ばれる「スス暦(二十七
鈴~)、アスス暦、日本書紀暦」ができあがったようだ。
スス暦・アスス暦
改訂履歴、長暦是正と遡り起点
一、長暦を是正した「スス暦・アスス暦」
(一)ホツマ暦の基本「一日の数え穂」を発見
「ホツマツタヱ」を読んで行く内、ホツマ暦の基本となる二つ
の記述が、後に「スス暦」「アスス暦」の年代に大きく影響して
いることがわかってきた。また日本書紀暦では、履中天皇以
降は影響がないことが判明した。
(1)「天の原 十六穂居ますも 一と日とぞ」
【解釈】スス暦が始まった当初より、「一日は十六穂」で数え
ていたと判明。
(2)「アヱよりヤヱの 中五日」
【解釈】(仮)二十七鈴以降は、「一日は八穂」に改訂された
ことが判明。
(3)長暦の是正、古代への遡りの起点年
【解釈】日本書紀の履中、反正、允恭天皇の御世より、長暦
の終了を確認し、西暦四百十年を「ホツマ暦」の古代への遡
りの起点年とした。
スス暦・アスス暦 長暦(暦)になった天君の世代
ワカヒト(アマテル神)の孫のキヨヒト(ニニキネ)は、クシヒコ
(オコヌシ)たちと、茨城県のニハリ(新治)宮を治めていた。
そして、キヨヒトは、民にゾロ(稲作)を推奨されて「君、臣、
民」も豊かさを満喫されていた。
この頃のスス暦(仮)二十七鈴の頃、天の原で、スス暦の
始めより続いていた「一日」の「数え穂」を、「十六穂→八穂」
に変更される改暦が行われているのではないかという仮説
に、このたび至った。
新しい仮説が正しいとすれば、この改暦が、のちの「オオ
ヤマスミ」「モノヌシ」「スメラギ(天皇)」の在位年数の長大原
因を作っていたということになる。
長暦を普通にした
スス暦・アスス暦と考古学の対比結果
是正年代と考古学年代の対比
本論文は、長暦・是正「スス暦」「アスス暦」の年表を
使用し、「ホツマツタヱ」の記述の事象と、日本史の
事象が共通する四つの事象
①「ゾロ、イネと稲」
②「イヅクリと鉄」
③「ミソコタカラと銅鐸」
④「ハシモノと埴輪」の年代を対比して見た。
その結果、「ホツマツタヱ」の記述年と日本史の事象は、年代
的に対比できることが判明した。(稲作については、研究の余地
があるが。)そして、この結果より判断し、「ホツマツタヱ」は、
現在の実証主義に適合できる古典と判断された。
① ゾロ、イネ と 稲
(1)ゾロ、イネと日本史の稲
「ホツマツタヱ」の「ゾロ・イネ」の初めを考えたいが、残念なが
ら「スス暦」の始めが紀元前536年(紀元前六世紀)である。
それに「ゾロ」「イネ」の記述の初めは、年代の記述のない
「一アヤ(文)」である。このことから紀元前約536年以上遡ること
はできないが、「ゾロ」の言葉より古代にあったことが
予想される。明確なことは、次の「ゾロ・イネ」の記述が、⑦の
紀元前316年と⑧の紀元前299年の間であり、この年代より遡っ
た紀元前約536年より遡った古代に存在していたと推定する。
それに対し日本史の稲の歴史を見ると、今から6000年も前に
稲の痕跡があった。また陸稲は4000年前、水稲は約3200年前
に稲作が行われていたことが発表されていた。
② イヅクリ と 鉄
(2)イヅクリ(鋳造り)と日本史の鉄
)
「ホツマツタヱ」の「イヅクリ(鋳造り)」は、紀元前331年~
紀元前330年年頃(紀元前4世紀)であった。
これに対し日本史の「鉄の伝来」は、古代にトルコ→シナと
経由し、日本に伝来したのが、紀元前4世紀~紀元前3世紀
と云われている。
このことから「ホツマツタヱ」の「イヅクリ(鋳造り)」の記述は、
日本史と対比できる年代にあった。
(注)前頁の稲、鉄の内容については、インターネット検索の
「ウィキペディア」 より引用した。
③ ミソコタカラ と 銅鐸
(三)ミソコタカラ(三十九宝)と日本史の銅鐸
「ホツマツタヱ」の「ミソコタカラ(三十九宝)」が詠まれた歌の
年代は、紀元179年~紀元180年頃(紀元2世紀)
であった。
これに対し、日本史の「銅鐸」は、紀元前2世紀から紀元2世
紀の約400年間にわたって作り用いられた祭器であった。
このことから「ホツマツタヱ」の「ミソコタカラ(三十九宝)」の記述
は、日本史と対比できる年代にあった。
(注)銅鐸の内容については、インターネット検索の
「ウィキペディア」 より引用した。
④ ハシモノ と 埴輪
(四)ハシモノ(土師物)と日本史の埴輪
「ホツマツタヱ」の「ハシモノ(土師物)」を「ノミのスクネ」が、
殉死の風習を改め埴輪を作って稜墓に供えることを「ヰソサチ
(垂仁)」に提案し、土師の司を賜った年代は、ヰソサチ(垂仁)
の皇后である「ヒハズ(姫)」がなくなった紀元200年(紀元3世
紀)のことである。
これに対し、日本史の「埴輪(注記)」は、紀元3世紀後半~
紀元6世紀後半にかけて造られ、前方後円墳とともに消滅した
とのことである。
このことから「ホツマツタヱ」の「ハシモノ(土師物)」の記述は、
日本史と対比できる年代にあった。
(注記)埴輪の内容については、インターネット検索の
「ウィキペディア」 より引用した。
(注五)
日本書紀の野見宿禰が作った「埴輪の起源」について
埴輪の起源について、上のように「考古学的に上記のように
変遷過程が明らかとなっており、この説話は否定されている。」
と記述されているが、今回の調査結果より、「ホツマツタヱ」の
記述の年代は紀元200年(紀元3世紀)である。
また、日本史の「埴輪」は紀元3世紀後半~紀元6世紀後半
にかけて造られたとしており、「この説話は否定されている。」と
した文章は誤りであった。このように「変遷過程が明らかとなっ
ており」の文章と、「日本書紀の埴輪を野見宿禰が作った」との
記述の間には、何ら矛盾することはなく、「埴輪の起源」は、
「野見宿禰が埴輪を作った」で間違いない。
このことは、「ホツマツタヱ」の長暦を是正した「スス暦・アスス
暦」の年表より証明される。
ハラミ 八湖 【ホツマの記述】
「ホツマツタヱ」 24文ー39~40には、ハラミ八湖の記述が
ある。この記述を年代にすると、紀元前256年頃になる。
富士五湖として、現在も存在する、山中湖、河口湖、本栖湖。
それに、五湖には入ってないが、現在も存在する、アスミ湖、
キヨミ湖、スド湖。方角は違うが、シビレ湖がある。なお、西の湖
は、元の湖で、西湖は、864年の噴火で堰き止められた精進
湖と一緒にできた湖だった。このため西湖、精進湖はホツマは、
記述されない後世の湖である。
湖の名も
東は山中(湖)と
東北はアス(ミ湖) 北は河口(湖)と
北西本栖(湖)
西は西の湖
西南清見(湖)
南はシビレ湖
東南は須津(湖)
富士五湖と山中湖の形成
【山中湖・案内版より引用】
文献によると、西の「せの湖」・東の「宇宙湖(宇津湖)」が
あった。貞観6年(864年)の大噴火の青木原溶岩流によって、
すでに本栖湖をわけていた「せの湖」は、西湖・精進湖にさらに
わけられた。河口湖は一番古く、旧期溶岩時代からの大きな
三日月の堰き止め湖であったと伝われる。
「宇宙湖(宇津湖)」は延歴19年(800年)の大噴火の溶岩流
により、山中湖と忍野湖に分断され、忍野湖はその後(忍野八
海として残る)して現在の山中湖だけとなる。このように、富士
五湖は形成それたようです。
富士五湖の海抜高
西の湖 ・・せの湖・・・・・・・ 本栖湖 902m (せの湖)
西湖
902m (せの湖)
精進湖 902m (せの湖)
山中湖 ・・宇宙湖・・・・・・・ 山中湖、忍野八海 982m
河口湖 830m
ハラミ 八湖 年代の変遷
ハラミ山 八湖(除く、スド、キヨミ、シビレ、アス) 、富士五湖の起こり
赤色:ホツマの記述
、青色:富士八湖の案内版より抜粋
年代 32アヤ(紋) 24アヤ(紋)
-434年
-255年
800年
864年
ハラミ山噴火 ホツマ
噴火
噴火
↓ (500年前) ↓
↓
↓
北
河口湖 830m
西
864年
西の湖・・・・・・ (せの湖) ・・・・・・・・・西湖 902m
・
・ -300年(毎日新聞)
・・・・・精進湖 902m
・本栖湖 902m
東
800年
山中湖・・・・・ (宇宙湖) ・・・・・・・・・ 982m
(宇津湖)・
・・忍野八海
ワカヒトの生涯年齢の推定
ワカヒトが神上がりされた時の年齢は、何歳だったのだろう
か。この疑問は永遠のテーマであろうか。
【ワカヒトの生涯年齢】
「ホツマツタヱ」を読むと、(一)ワカヒトの生まれ日は、4アヤ
(文)、24に、「二十一鈴 百二十五枝 年キシヱ 初日ほのぼ
の いづる時」と記述している。また(四)神上がり時は、28ア
ヤ(文)、36に「いやとよ我は 民のため 苦きを食みて 百七
十三万 二千五百年を 永らえて」と記述している。
この二つの記述より、生まれた時の年代および生涯年齢に
ついて、是正「スス暦」より、再度見直して見た。
すると是正「スス暦」より、生まれ年は「紀元前330年」、生涯年
齢は、約82歳~85歳に計算される。
ワカヒトの弟 「ハナキネの生まれ年(西暦)の推定」
「ワカヒト」の生まれを見直し、新たに紀元前330年と算出し
ていた。また「ハナキネ」が生まれた年は、「ホツマツタヱ」に記述
がないが、「天の巡りの ムシバミオ(日蝕お)」との記述があった。
そこで、「ワカヒト」の生まれた以降の最初の「日蝕発生年」に
注目して、「日蝕プログラム」より計算して見た。
またこの日蝕は、現実に起きたものか否かを確認するため、
米国・NASAの「日蝕」ホームページを参考にした。すると、
「紀元前325年(5年後) 6月3日」又は 「紀元前321年(9年
後) 3月22日」に、日本列島の近海で部分日蝕が発生していた。
なお、兄弟のワカヒト、モチキネ、次にハナキネが生まれている。
そのため、兄弟間の差、生まれた場所を考慮すると約8年の差
が必要になる。そう考えると、「ハナキネ」が生まれた年は、
「紀元前321年(9年後)」であったことが現実的と考えられる。
紀元前325年6月3日の日蝕
紀元前321年3月22日の日蝕
姉ヶ崎の由来
千葉県市原市に「姉ヶ崎町」や「姉ヶ崎海岸」の地名があります。
この地名がホツマツタヱ文献に記載の、オトタチバナ姫の伝承が
基になっているとは誰が気づくでしょうか?
オトタチバナ姫は景行天皇の御代に、ヤマトタケの東国征伐に、
妻として参加します。
だが織りしも 大磯の浜より千葉の木更津に船で渡ろうと、船出し
た矢先に嵐にあったのです。
その時のオトタチバナ姫の伝承にストーリ性を持たせて再現し
ますと、
「師走8日 ヤマトタケ一行は、神奈川県・大磯より東京湾を
渡り千葉・木更津方面に軍船を進めました。
沖へ出て突然の強風に出会い 航行できなくなり 船は波間
を漂い始めました。オタチバナ姫は、天地の神に祈り ヤマト
タケの重責を察し「自ら海に入り」、天神に自らを捧げました。
すると波は凪になり一行は木更津方面に渡ることができたと伝
えています。
その後の入水したオトタチバナ姫の「亡骸(なきがら)」につい
て、ホツマツタヱには記載がありませんが、
袖は袖ヶ浜にたどり着き、又「亡骸」は千葉市寄りの「地」にたど
り着いたと云います。その亡骸の浜への打ち上げは、 ヤマトタ
ケの一行よりも先に到着したとのことです。
このことからオトタチバナ姫が、たどり着いた「地」を、「姉ヶ崎」と
呼ぶ様になったとのことです。
【姉ヶ崎の地名の由来】
この時「ヤマトタケ18歳、オトタチバナ姫19歳」でした。この年齢
をもってオトタチバナ姫は、 当然「姉さん女房」であったのです。
このためこの地を「姉が先」→「姉ヶ崎」と呼ぶ様になったと云うこと
です。
・この説は、ホツマツタヱが存在して始めて、説明が成立する
ものです。
ヲコヌシ(大国主)の御魂
クシヒコ
クシヒコは、「ヲコヌシ(注)の御魂」の称え名を、ニニキネより
賜った。
(注)ヲコヌシとは、
ヲコヌシは、漢字表記すると 大国主と記載するため、
インドより来たダイコク様と間違われて安いが、日本古来
のヲコヌシ神で インドの神と違う神である。
そのクシヒコは、現在 奈良の大三輪・大神神社に祭神と
して祭られているが、ホツマツタヱ原文より クシヒコの人
物像を解説して見た。そしてクシヒコこそが、ホツマツタヱ
のホツマ(真面目)そのものであった。。
ヲコヌシ(大国主)の本来の意味
ほつまつたゑ みはたの ふそみ
御衣定め 剣の文
【クシヒコの人物像の解説】)
いかにもそうだ。クシヒコよ。汝は アマテル神の皇孫である
ニニキネより、ヲコヌシ神(注)の称え名を賜っているも、私から
見ると まだ恩賞が不足していると思う。私(ニニキネ)には、
イサナギ・イサナミの二神から賜った 逆矛の称え名がある。
幸いに貴方が 私の後を継ぐ気持ちになってくれる機会を得
れば譲るつもりなり。クシヒコよ。貴方は、生まれながらに素直で
あり その素直こそ本来の大和の道であり教えに叶うものだ。
(注)ヲコヌシ神とは、
素直な気質をもつ神を云う。
【ヤマト・ヲヲコの御魂神(注) 】
そして スヘラギの守護神である貴方は、八重垣の翁と呼ば
れ、以前にニニキネより、貴方の称え名となる「ヤマト・ヲヲコの
御魂神」を賜っている。
だが、その賜った称え名は、余りにも大きな名前であったため
に、クシヒコは畏れ伏し、暫くは何も答えること ができなかった
が、この様なクシヒコの謙虚な態度に物部らは、ヲヲコの 御魂
神を賜るのに充分に値するとして、クシヒコに促す言葉をかけ
ながら 「さ」受け給えと勧めた。それにしても謙虚なクシヒコは、
まだ項を垂らしたまま 動かなかったと云う。
(注)御魂神とは、
ヤマトの教えの中心である素直さの尊い魂を具現した人神を
云う。
またニニキネ (皇孫) に おおせがあった。
スヘラギの皇孫らよ。 良く聞けよ。アマテル神より授かった政り
を、なまけず、民を治すことで誠の世になる。
この時こそ スヘラギの民の すべてが、皆、安らかになるであ
ろう。
【行き来の道 (転生の思想)」】
第二代目 大物主のクシヒコは、奈良・大和の山辺に殿(大神
神社)を造り、スヘラギの行く末を考えれば、 御歳すでに56歳
(注記)以上になるも、クシヒコが云うには、 私の命が尽きること
が、あれば後の守りは 「トヨケ法」 すなわち、トヨケ神が確立し
た「行き来の道 (転生の思想)」 に従い、スヘラギの代々を守っ
て行って ほしい。これを守って行くことこそが 天の道である。
(注記) 記述の26鈴~36鈴間で計算した。
【幹が真直に育つ杉を植えること 】
私は、もうすぐ、余命が尽きるであるからして、 殿造りした
三輪山のすそ野に洞を掘り、天の逆矛を御身にさげながら、洞
に入って、 静かに時を待つで あろう。
後世のスヘラギの守護神となり得る人は、素直な心の持ち主で
あらねばならないからして、良く見分けが必要であろう。
その素直な証拠として 幹が真直に育つ杉を植えることが、
素直な心の 持ち主の証であり、このことが、ヲコの御魂の神 の
基である。
(注)天の逆矛とは、
三種の神宝の一つの剣にもなっており、主に司法を意味す
る。
【古神社 杉の巨木 が沢山植えられている理由】
故に、大国の御魂神を祭る古い神社には、杉の巨木 が沢山
植えられている理由が、このことで わかって頂けたと思う。
そして、我々は、このことを、良~く認識して、後世に伝えて行っ
てほしい。
【コメント】
それにしても国を治めた「クシヒコ」の素直な気質が、古代
日本を大きく救ったことが目に浮かぶ。
てん-しょう【転生】
[名](スル)生まれ変わること。転じて、環境や生活を一変させる
こと。てんせい。「輪廻(りんね)―」
天の羽衣のお池は、富士八湖の一つである
キヨミ(湖)だった
天女の池(羽車稲荷御上池)の由緒
此処は今では海岸砂丘の後退のために埋れて平地になって
おりますが、大昔にはきれいな清水を湛えた池であってその周囲
は麗峰富士を背景にして野鳥をはじめ兎、雉、野鳥が群れ遊び
松露をはじめいろいろのきのこの生える松林が茂ったところであり
ました。神代に葦原ノ中ッ国を天孫に平和の中にお譲り遊ばされ
た大国主命即ち三穂津彦はその妃三穂津姫を伴ない天の日鷲に
御同乗になられ、遠く出雲の国(島根県)から有度浜即ち三保の州
の羽衣海岸に御降臨になり旅塵をこの池で洗ひ流されたと言はれ
ております。
更に又当海岸に安閑天皇の御代に天降った天女が海で水遊
びして玉身体の塩気を洗ひ浄めた池であると伝えられておりま
す。
○○○○○はかりみち
三保の海女(江戸川○より)
羽衣メルヘンの会長 宮城島重男
昭和六一、一○、三 手野畊雲書
【コメント】
この天女の池(羽車稲荷御上池)の由緒の碑は、三保の松原に
あります。またホツマツタヱ文献では、富士八湖の一つである
キヨミ(湖)が、富士の南西にあったことを伝えており、キヨミを漢
字読みにすると、清水、清見になり天女の池が、キヨミ(湖)であっ
たことが証明されます。
西南経て 酒折の宮に
ヤマトタケが訪ねた酒折の宮
【ヤマトタケが、訪問した酒折の宮】
このことを、山梨県の神社群についてご由緒を調べて行く内に、
特筆しなくてはならない神社を発見した。
この神社は、「弓削(ユゲ)神社」である。特筆の理由は、「ご由
緒」にある。ご由緒をそのまま引用すると、「日本武尊東征の帰途、
大伴武日命を此地に止む。その舘後に社を建つ即ち本社にして、
社名は武日命に賜りし、勒部(ユキベ)の名に由るという」。
(抜粋・神社本庁・神社名鑑)
【弓削(ユゲ)神社】
このご由緒からもわかる様に、ヤマトタケに付き添って「東国平
定」に同行した「大伴武日命」は、終演の地を「弓削(ユゲ)神社」
の元の地に指定した。
この地は恐らくヤマトタケが訪問した、甲府市の「酒折の宮」の
行政の及ぶ範囲の境の地であったろうかと推定される。
そこで「弓削(ユゲ)神社」と現在の「酒折の宮」までの直線距離を
計測して見ると、約10kmで行動範囲内の距離であることがわか
る。そしてこの地より「大伴武日命」は、「ヤマトタケ」の一行を見
送ることになった。
このことから、古代の酒折宮の地も、現在の甲府市の酒折が有
力であろうか。
スズカ姫の静まります聖地を求めて
出展・松本善之助・月間ほつま・4月号(昭和54年4月1日)より。
【スズカ姫】
今もなほ鈴明の神と箱根神 向ふイモヲセ(妹背)大いなるか
スズカとは、スズアカの略である。
そのスズアカの意味とは、神代にススキといふ六万年の寿命を
もつ樹木に喩えて、スズは真に栄える木(マサカキ)であって、
六万年もの長い間栄える。
それと同じように、人間が私欲を去ればスズキの様に栄える。
反対の言葉としては、スズクラといふ。鈴暗とかく。では、スズカ
姫とは、いかなる神なのだろうか。 ところが、このスズカ姫こそ
アマテル神の御子オシホミミの后のタクハタチチ姫のことだった。
ホツマツタヱ文献の13文には、
この道を 学ぶ処は 神風の 伊勢の国なり チチ姫も
後にはイセの 道を得て 伊勢と淡路の 中の洞 鈴明の神と
箱根神 向ふ妹背 欲しを去る スズカの教え 大いなるかな
訳
この道即ちイモヲセ(男女又は陰陽)の道を学ぶ処は、神風の
イセ(イモヲセの略・イセ→伊勢)の国である。タクハタチチ姫も晩
年は、このイセの道の悟り道に達せられたのだった。
そして神去りました聖所は、伊勢とイサナギの神の崩じた淡路島
との中間の洞であった。
チチ姫には、「スズカの神」と御名を奉つた。そしてその場所は、
夫君オシホミミの神の鎮まります箱根神と丁度向ひ合ってゐる。
このアヤで説いてきた「私欲」を去るスズカの教へは、実に感銘
深いものであることよ。
私の次の調査(仕事)は、
それなら鈴鹿山脈の山麓付近の古い神社に、スズカ姫を祭る神
社があるか どうかを捜すことだった。
すると吉田東五「大日本地名辞典」の鈴鹿峠に「鈴鹿御前社」が
あった。この神社は延喜式神名貼の伊勢国鈴鹿郡片山神社で
あることもわかった。
また片山神社の片山といふのが、夫君オシホミミの 鎮まります
箱根山に対する片方の山といふ意味であるらしいことも、初めて
了解した。
このスズカ姫は、 ニニキネの母君であってニニキネを祭るカモ
(賀茂)神社に縁があるのもわかった。
出展・・・松本善之助・月間ほつま・4月号(昭和54年4月1日)より。
高千穂峰と天の逆矛
【天の逆矛】
鹿児島県と宮崎県の県境に、そびえる霧島山の三連山の一つ
に、「高千穂峰」がある。
この高千穂峰は、ニニキネが天孫降臨した山として有名である。
その高千穂峰の山頂に、不思議にも「誰が、 いつ頃」祭ったの
か「天の逆鉾」が立っている。だが、その本物の「天の逆矛」は、
ホツマツタヱ文献によれば、高千穂峰にはない様である。
じゃ どこにあるかと云えば・・・・・・・。
天の逆矛の行方
【天の逆矛は、三輪山の洞に】
天の逆矛は、「アマテル神」より「ニニキネの」国土開発の功績
に対し授けられた。
その「天の逆矛」は、「生まれ素直に ヤマト道の教えに叶ふ」と
して、ニニキネよりクシヒコに、更に譲られた。
クシヒコは、現在、奈良の三輪山の大神神社に祭られているが、
「天の逆矛」は、「クシヒコは・・三諸の山に 洞堀りて 天の逆矛
提げながら 入りて静かに 時をまつ」と、記載されており、
三輪山の洞に「天の逆矛」ある様だ。
熊襲の地を捜して
【熊襲の地】
ヤマトタケルに滅ぼされた熊襲タケルの地を追って、霧島神
宮~鹿児島神宮~鹿児島を旅した。
現地百回と云う言葉があるが、古代の「熊襲の地」を確認する
ことができた。
この地は鹿児島では、良く「見聞き」することであるが、都会で
「今は古代」である。
この忘れられた地より、明治維新の立て役者がでて、日本を
文明国に変えた。その名は、熊襲の末裔であろう、「西郷隆盛」
その人である。
フトマニと云う占い言葉の語源が判明する
【フトマニ】
ホツマツタヱ文献には、古代の占い方法の一つである
「フトマニ」の占いがある。
そのフトマニの言葉の語源が、今まで誰にもわからなかったが、
何となんと2007年4月4日に、遂に「紐が解けた」 と言ったら、
皆さんは、驚くでしょうか。
このことは、ホツマツタヱ研究者には、既に伝えてある。
・・・・既に報告済。
この秘密を当「HP」ファンに次頁で報告する。
フトマニの語源を考える
2007年4月4日のある時に、「フトマニ図」を眺めながら長考
していると、ある「法則」になっていることに気がついた。
その法則の発見は、「フトマニ図」の文字の「記載順」と「読み
順」の違いであった。
例えば、
「フトマニ図」の内側の2番目の円が、右回りに「ア」から
「アヘスイモシフヲ」の順に右回りに記載されているのに対し、
実際の「フトマニ図」の読み方は、「アイフヘモヲスシ」の順に
なっていた。
この読み方は、「ア」を起点に右回りに、
「二つ中、飛びの右回り」に「読んで」行くことであった。
【フトマニの名称は、法則】
そして、「ア」を起点に右回りに、それも「フトマニ図」を読む時
と同じ様に、「フトマニ」の単語を右回りに読むと、「フトマニ」は
「ニマトフ」・・・「二間を飛ぶ」と読めることに気がついた。
そして、この読み方の法則の「二つ中、飛びの意味」が、
「フトマニの意味では?」と気がついた。
この様にして、
「フトマニ」は「ニマトフ」・・・「二間を飛ぶ」と読めること。
このことから「フトマニ」とは、「ニマトフ」の駄洒落遊びの「心」を
取り入れた、古代人の 「逆読み」でもあった。
それにしても、この「法則」の、「二間を飛ぶ」について古代人は、
現在人に簡単に悟られない様に工夫? し、
「ニマトフ」を、「フトマニ」と称していた。
「三種神宝」と「三種神器」
三種神宝
古代の天君が「天君」の印としていた 「三種神宝」は、①ヲシテ
(神爾)、②カガミ(八咫鏡)、③ツルギ(剣)であった。
(ホツマツタヱ文献)
三種神器
それに対し天皇の印とされる「三種神器」は、①八咫鏡(神鏡)、
②八坂瓊曲玉(神爾)、③草薙剣(宝剣)と記載されている。
また天皇の行幸に際して行われる剣爾の携行「剣爾御動座(けん
じごどうざ)」は、「草薙剣」と「八坂瓊曲玉」になる。
(三種神器:書:稲田智宏)
【叢雲剣の変遷】
調査項目
その草薙剣の由緒を「ホツマツタヱ」文献で調べると、草薙剣の
元の名は、叢雲剣と云った。
この叢雲剣は、ヤマト姫がヤマトタケの東征に先立ち、
「錦袋と 剣持ち して曰く・・・・昔、 (ソサノオが)出雲の 国開く
叢雲剣 これなるぞ 慎み受けて」と持たせた「剣」であった。
またヤマトタケが東征時に、静岡市の草薙で敵に囲まれて、
火を放された際に、枯れ草を剣で払い「迎え火を放ち」、敵を突破
した時の故事に因み「草薙剣」と名付けられたと聞く。
その後、その剣は滋賀県の「伊吹山」にヤマトタケが、出かけた
際に、「熱田神宮」に置き、そのまま「神宝」なっていると記憶して
いた。
またその「草薙剣」は、江戸時代に盗難にあい、その後戻った
と物の本で読んだと記憶していた。その熱田神宮の神宝の「草
薙剣」と三種神器の「草薙剣」は、同じ剣であろうか。「草薙剣」
と呼ばれる剣が、沢山あると思えないが・・・・・。
いずれにしてもアマテル神が、「ミクサタカラ(三種神宝)」と、
していた「ツルギ(剣)」と、「三種神器」の「剣」とは、違うようで
ある。その理由は・・・・・。
「ホツマツタヱ」文献の9-10文に、記載してあった。
「八岐頭の オロチ来て 八槽の酒お 飲み酔いて 眠るオロチ
お ヅタ(ヅタ)に斬る ハハが尾先に 剣あり ハハ叢雲の 名
にしあふ」
叢雲剣は、オロチの尾より出てきた「剣」であった。
まとめ
アマテル神の「三種神宝」 の「剣」と「三種神器」の「剣」との時
代背景を見ると、同じ「剣」と云える根拠が薄い様である。
根拠
アマテル神はイサナギより「三種神宝」を授かり、天日嗣して
「君」となった。
これに対し、叢雲剣(のちの草薙剣)は、ソサノオが出雲の国を
開いた時に、出てきた「剣」である。
二つの事象を比較すると、アマテル神の「剣」が年代的に古い
と思える。
三種神器の剣
神崇め疫病治す
三種神宝の行方について、ホツマツタヱを追いかけていくと
崇神天皇4年10月23日の「勅」では、
33-8文にて
「御祖の授く 三種神宝 国常立は 神爾 アマテル神は 八
咫鏡 大国魂神は 八重垣剣と 常に祭りて 」と、「剣」は「八
重垣剣」であることが、記載されている。
このことは、天君の「剣」が、ソサノオが出雲征伐時の「叢雲
剣」に交代したことを示しているように思える。
ホツマツタヱ文献
9-32アヤ(紋)
稲田姫 はらめば歌に
「八雲立つ 出雲八重垣 妻篭めに 八重垣作る その八重
垣を」 この歌を 姉に捧げて 八雲打ち
☆上記より八重垣の剣は、叢雲剣であることがわかってくる。
寸(キ)の100倍が、高尺(タカバカリ)
【ホツマツタヱの尺度】
タカバカリ(高尺)は身長を意味し、「寸」は「指」を意味していた。
また「高尺と寸」の相関は、 高尺=100寸。
このことを自分の指の中で証明すると、「薬指の第一関節部の
幅」と「身長」に相関があった。
私の「薬指」の幅は、約17mmであった。そして私の身長の公称は
168.4cmである。
このことからも「ホツマツタヱ」の尺度は、現在に通じる尺度で
あったことが証明される。
(参考) なお後天的に指を鍛えた人は、除きます。
八咫鏡の直径は、38~46cmもあった
【八咫(タ)鏡の寸法の推定】
アマテル神が作ったとされる「八咫(タ)鏡」の大きさは、どの
くらいだったか。ホツマツタヱの記述より「咫」と「寸(キ)」の関係
を捜すと「咫=10寸」の関係になる。そこで八咫(タ)の寸法は、
8咫(タ)×10寸=80寸であることがわかる。
また「八咫鏡」の形状は、円丸と云われている。すると鏡の円
周が八咫である所から、円周長をメートル法に換算すると。
80寸×薬指の幅17mm=1,360mmとなる。
更に直径は、数学の公式「円周長=2πR」より「2R=円周長
÷π」になり、直径2Rは、1,360÷3.125(古代寸法比)
=435.2mmとなる。そして古代人の身長を150~180cmと
推定すると、八咫鏡の直径は、「38.4~46.18cm」となる。
「日の神」と崇められたアマテル神の三種の神器の一つである
「八咫鏡」は、想像を遙かに超えた「鏡」であったと推定される。
助詞の「は」「わ」の変遷について
☆安聰本・ホツマツタヱ文献の1文~40文では、助詞の「私
は」は、「私わ」と書かれ、発音も「わ」 であった。
年代は紀元262年以前である。
☆巻頭文のオオカシマ(景行天皇の神臣)の奉呈文は、「私わ」
と書かれ、発音は「は」が多く、「わ」も少しあり、混同の時代
があった。
☆平安時代以降は、「私は」と書いた。そして 「わ」が、「は」に
変遷していた。だが、発音は 「わ」のまま残った。その理由
は・・・・・・・。
安聰本と長弘本の「は」「わ」比較
長弘本
☆長弘本は、安聰本が発見されるまでは、ホツマツタヱ研究者の
バイブルであった。
その長弘本の序文~8文(アヤ)には、ヲシデ文字の右横に振り
カナが付いている。そして助詞の振りカナは、「わ」なのか「は」な
のか。ホツマツタヱ研究者の長年の懸案であった。
☆今回、長弘本を検証して見た。結果は、
「ソ+○」(28個)だったり、ある時は、「y+○」 (10個)だったり、と
揺れが多かった。
(注) 「ソ+○」とは、ソの外周に円(○)を書いた文字のこと。
安聰本
長弘本のような、揺れはない。検証の結果、摘出の29個は、
全て 「y+○」であった。
☆また長弘本の「ソ+○」文字は、書きなぶりの文字が多い。これは
、とても「y+○」の文字を書こうとした意志が見られない文字に
見えた。
☆いずれにしても、長弘本は、「ソ+○」も「y+○」も、いずれも「わ」
と振りナカをしていた。このことは、「渦巻きのわ」を想定している
と、推定した。そして現在の様に「は」と読むことを想定した
「ソ+○」、「y+○」、「ハ+○」の文字は長弘本からは、発見できな
かった。
「は」と「わ」の考察
☆結論的に述べると、振りカナの「わ」に対する長弘本と安聰本
の文字を比較すると、
長弘本
「渦巻きのわ」→「ソ+○」と「y+○」への混同比率は、3対1
で両方書かれている。
安聰本
「渦巻きのわ」→「y+○」に全て書かれ、 「渦巻きのわ」→
「ソ+○」に変換された 文字は無かった。
☆この長弘本の「ソ+○ 」が、誤認へと・・・・。
ホツマツタヱを読み解く
・・ホツマ研究者の過ち・・
「ホツマツタヱを読み解く」本の助詞は、全て「ハ」であり、現在
流の助詞の「ハ」であった。原本の安聰(底本)本は、「ワ」である。
調査頁 37頁、36頁、57文、313頁の基本文字、
特殊文字の表
長弘本
安聰本
ホツマツタヱを
(底本)
読み解く
14-13文
振りカナなし
カミワコレ
カミハコレ
16-14文
振りカナなし
ノチワイモオセ
ノチハイモヲセ
15-22文
振りカナなし
ミケワコノミカ
ミケハコノミカ
2-6文
カミワモウソノ カミワモウソノ
カミハモウソノ
(検証ホツマツタヱ36号より抜粋)
香取の神・フツヌシの家系
伯父と甥の関係、フツヌシとカスガマロとの関係
記紀では不明ですが、ホツマツタエより読み解きました。
(兄)
フツヌシ
(カスガマロとヒトリヒメの仲人)
(妹)
アサカヒメ (妻)
Ⅱ
(息須宮の神)
ココトムスビ (夫) →(子) カスガマロ (夫)
Ⅱ
オバシリ→ (子) タケミカズチ
→(子) ヒトリヒメ (妻)
(鹿島神宮の神)
(息須宮の神)
フツヌシが甥のカスガマロと、福島県と茨城県の県境の勿来関
(海を見下ろす約50mの高台)で蛤を酒の肴に呑むでいる。・・・・
その二人の姿を想像すると、フツヌシが吾が出来の良い甥を自
慢げに、呑む酒は、伯父として美味しかったでしょうね。
これで、藤原氏の祀る奈良の春日大社の祭神が、「フツヌシ」と
「アマノコヤネ(カスガマロ)」である理由がわかってきますね。
(検証ホツマツタヱ37号より抜粋)
阿智神社・奥宮に参拝して
その「思兼命」は、現在、昼神温泉の「阿智神社・奥宮」
に、静かに祭られております。
阿智神社を訪ねて (ご参拝の思い歌)
ヒルコ姫 河合陵 訪ね来る
思い焦がるる イモオセの道
友の返し歌
アチノサト オモヒワイマタ 阿智の里 思いは今だ
サメヤラス ヒルカミノユメ 覚めやらず 昼神の夢
イマモワキヰス
今も湧きゐす
阿智神社・由緒 (尺貫法の単位)
(前宮に掲示のご由緒抜粋)
☆・・(中略)・・社伝によればこの神は、工匠の神として
稲籾を十個並べて一寸として一寸を十並べて一尺とし、
物の長さを計る単位を定め曲尺を、作り曲尺の祖神と
して、大工、建具職、細工職、等材木を扱う人々に、
深く信仰せられてゐる。・・・ (以下・略)・・・
ご参考・「世界のイネ・コアコレクション」・・・次頁
HPアドレス http://www.gene.affrc.go.jp/plant/core_collections-wrc01.html
☆稲籾の横幅が、「一寸」の原型であった。
「ID:WRC 01、原産地:日本、品名:NIPPONBARE」の籾を
調べるとは、「籾長6.3mm、籾幅3.3mm」とある。当然、
10粒の籾を横に並べると、33mmになる。
このことは、阿智神社のご由緒に記載の「稲籾を十個並べ
て一寸として」の立証につながった。
☆検証 : 魚沼郡村松町の稲籾10粒を並べて調査して見ました。
結果は次頁の写真をご欄下さい。
☆思兼命の英知
寸や尺の単位は、今まで中国より渡来してきた「長さの単位」
と思っていたが、純国産の「思兼命」の「英知」で創作されて
いたとは、日本人である私の知識は何と薄っぺらな「知識」で
あったか、恥ずかしい思いである。 p(_ _)p
☆稲籾の横幅が、「一寸」の原型であった。
「ID:WRC 01、原産地:日本、品名:NIPPONBARE」
の籾を調べるとは、「籾長6.2mm、籾幅3.3mm」とあ
る。当然、10粒の籾を横に並べると、33mmになる。
このことは、阿智神社のご由緒に記載の「稲籾を
十個並べて一寸として」の立証につながった。
☆思兼命の英知
寸や尺の単位は、今まで中国より渡来してきた「長さ
の単位」と思っていたが、純国産の「思兼命」の
「英知」で創作されていたとは、日本人である私の
知識は何と薄っぺらな「知識」であったか、恥ずかし
い思いである。 Q(_ _)p
大和の道とヲヲコの御魂神を訪ねて
大和の道とは
「素直な気質を貫くこと。また生まれながらに素直のこと。」
と故・松本先生は解説していた。だが単に「素直」や「率直」
では国は治まらないことは誰でもが知っていることである。
やはり素直や率直が発揮できる「天君」があってのことであ
る。その点クシヒコには、ニニキネと云う国土を開拓してある
いた立派な天君がいたからこそ「素直」や「率直」が発揮でき
たと思う。このことは、現在社会の「国の行政」、「官庁」や「会
社」でも同じことと思える。究極は、大和の道を発揮できる天
君的な資質をもった上司や年輩者が必要ではないだろうか。
それにしても、現在の「大和」の意味と違っている。現在では
「大和魂」とか、「勇気を必要な時」の言葉になっている様だ。
その言葉は近代の暗い歴史に悪用された「大和魂」であるが、
本来の「大和魂」は「率直な気質を持った頭脳と身体」と訳す
るのが正しい様だ。 (検証ホツマツタヱ39号より抜粋)
上古代の 「文字」や「暦」について
アスス暦は、日本独自の暦
暦日のヱトNO,の整合率(表-次頁)を見て戴いたと思
うが、①元嘉暦のヱト整合率が、「62%」と極端に低
かった。それも比較した個数も、アスス暦の暦日の
「21個」の結果である。また②儀鳳暦のヱト整合率
も「86%」で、アスス暦のヱトと比較すると整合率は
「100%」でなく「同じ暦」と云えない。
このことからホツマツタヱのアスス暦は、中国暦の
コピーではなかった。そしてアスス暦は日本独自の
暦であった。一方、整合率のみを見ると、元嘉暦の
「62%」に比べて儀鳳暦の方が「86%」と高かった。
【暦日のヱト結果】
表 (注)表中の数字は、調査件数を示す。
基準
①
ヱト相違
元嘉暦
②
儀鳳暦
アスス暦
3
18
21
86%
264日
4
17
21
81%
1年日数
±1
±0
検証数
±0、整合率
8
13
21
62%
⑤
(検証ホツマツタヱ40号より抜粋)
⑥
アスス暦
384日
3
18
21
86%
高千穂 神楽の語源を訪ねて
ホツマツタヱにあった、神楽の語源
古事記、日本書紀それに宮崎・高千穂町の資料等、古文書
より歴史が過ぎること約1300年を経過しているであろうか、そ
の間にウズメの遊びは、如何にして「神楽」の漢字になったので
あろうか。まだまだ多くの古文献を調べないといけないだろう
か・・・。
そしてその神楽のことを最も明確にした、古文献が私共の手
にあった。その文献には神楽のことを、「カンクラ」と記載して
あった。そのカンクラの「カン」は、民俗学事典の項で示した様
に、「神」の訓読みの「かみ、かん、こう」の「カン」で表現できる。
また「クラ」は意味を合わせて、「たのしい、あそび」の漢字で
ある「楽」を当て字したものであった。そのことが、ホツマツタヱ
文献の7-33~40文より確認できる。
7-33~40文・直訳
ソサノオは 岩お蹴散らし なお怒る 君恐れまし 岩室に 入
れてとさせば 天が下 日夜も彩なし 安河の 闇に驚く
オモイカネ 手火松に馳せ 子に説いて 高天に議り 祈らん
や ・・(中略)・・
ウスメラに 日陰お襷 茅巻、矛 朮(おけら)お庭火 笹湯花
カンクラ(神楽)の殿 神篝(火) 深く謀りて オモイカネ 常世
の踊り ・・(中略)・・ 諸神は 岩戸の前に 鹿島鶏 これぞ常
世の 長幸や 君笑み細く 窺えは 岩戸お 投ぐる タチカラオ
御手取り出し 奉る
(検証ホツマツタヱ41号より抜粋)
青島
海幸彦と山幸彦
青島神社の海幸彦と山幸彦
筑紫ウマシの浜は、竜宮城か
第1景
アマテラス神の孫の「ニニキネ」の天孫降臨。
次ぎにニニキネの子供の「サクラギ」と「ウツキネ」の海幸彦、
山幸彦の物語。そしてウツキネの子供の「カモヒト」の誕生。
最後はカモヒトの子供の「タケヒト」が、ヤマトを平定して天皇に
なるまでの場面であった。
特に第12景中の第3~10景には、「海幸彦、山幸彦」の物語
があり、ここ青島神社が、その海幸彦、山幸彦に「ゆかりの地」
であると思えて来た。
だが青島神社の「海幸彦、山幸彦」物語の ストリーリーは、
ホツマツタヱ文献の「海幸彦、山幸彦」物語のストーリーと若干
違うようである。
その大きな違いは、非現実な「海の世界」や「海の国」が、「日
向神話、青島神社(誰でも分かる解説書)」にはでてくる。このこ
とは現在では、おとぎ話の領域に入る。
一方ホツマツタヱ文献では、「海の国」ではなく、「北の津」か
ら「鴨船」で「筑紫」に出航など、あくまで現実的な世界のできご
とである。 この違いをよりわかって頂くため、
「海幸彦、山幸彦」物語の場面々々について、「ホツマツタヱ」
文献と「日向神話、青島神社(誰でも分かる解説書)」を比較し
て見ました。
詳細は、42号検証ホツマツタヱをご覧下さい。
鵜戸の浜 と 鵜戸神宮
カモヒト天君と鵜戸の浜
そのカモヒト天君の鵜戸の浜入りは、ホツマツタヱ文献の
27-81~83文に記載されている。「時は神武天皇(タケヒト)が
幼少の五歳のことである。この時、アスス11年(注)のことであ
る。(注)ホツマツタヱには、アスス11年はない。
カモヒト天君は大亀船で近江(滋賀県)のタガ(多賀)宮を出発
されて、アワウミ(琵琶湖)に出て、そこから淀川を下り、播磨灘
の室津(兵庫県室津、播磨灘の天然の良港)より、瀬戸内海を
通過して、安芸、宇佐、速吸門を通過して、日向灘の鵜戸の浜
に着かれた。
鵜戸神宮
ここにある鵜戸神宮は、いまも神代ながらの御縁のウガヤ
(カモヒト)天君を祭っている。
これはホツマの伝承の正しさを証明する。この神社がなぜウガ
ヤを祭神とするかは、記紀では全く浮かんでこない。(中略)
ウドには「鵜戸」の漢字があてられ、この「鵜」は 「ウガヤ」の
「ウガ」と関係あるかのように云われているが、実はウは偉大な
といふ意味であり、トは完全なといふことで、ウガヤ大君の
上陸されたのを祝福してこの名が付けられたと思ふ」と、
述べられている。
詳細は、43号検証ホツマツタヱをご覧下さい。
宮崎宮とは、吾平山上陵にあった
鵜戸六社権現のことだった。
宮崎宮
「宮崎宮」、「宮崎山」の前文字の「宮」は、「古代の鹿児島宮」
を指していることがわかる。そして「宮崎宮」、「宮崎山」の「崎」
は、方向を指していることがわかる。
そして次の「宮崎宮」の後文字の「宮」や「宮崎山」の後文字の
「山」が、その方向にあったことがわかってくる。
それにしても何故に「カモヒト天君」は、神上がり地にこの「宮
崎宮」や「宮崎山」を選ばれたかである。
この理由は、「カモヒト天君」は筑紫に入られてからも、「ニニ
キネ」の業績に倣い行動されるなどして、「ニニキネ天君」を、
お慕いされていたことからも想像できる。
このことから「宮崎山」をして、「ニニキネ天君が、天孫降臨
された高千穂の峰」より「サ(真南)」の方向を望まれた場所が、
③「宮崎山の 洞(吾平山上陵)」であったと思わせる。
そしてこの様な思いを抱かれて、「カモヒト天君」は、「吾平山
上陵」にあった「宮崎宮」で余生を送られて「宮崎山」に神上がり
されたことが、「ホツマツタヱ」文献よりわかってくる。
詳細は、44号検証ホツマツタヱをご覧下さい。
久米邦武 と 箱根・碓氷峠
早稲田大学の久米邦武先生は、『日本古代史(早稲田大学出版
部刊、1905年) 』の中で、以下のように考察を行っている。
「吾妻はや」の語が弟橘媛をしのぶ言葉であることから、「伝説
地は媛が入水した走水の海が見える場所でなければならない」
とするとともに、『日本書紀』で伝説地に到るまでの道順が合理
的でないとして、『日本書紀』に記された道順から言われて来た
信濃国・上野国国境(長野県・群馬県県境)の碓氷峠とする説を
退ける。そして場所は『古事記』が記す「足柄坂」が正しく、
『日本書紀』が記す「碓日嶺」はその別名であると考え、地質学者
に委託する形で調査した結果、当峠の存在を知り伝説地としたの
である。
このことは、ホツマツタヱ再発見の66年も前のことであった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用した。
ホツマツタヱ と ウスヰの坂
ホツマツタヱ39-91文では、ウスヰの坂→別れし姫お思いつ
つ→東南を望みて、と述べている。(箱根・碓氷坂に立って)
ヤマトタケ
思いつつ
思いやり
取り出して
さねさねし
燃ゆる火の
問ひし君はも
これ三度
嘆きます
ウスヰの坂に
別れし姫お
東南を望みて
形見の歌見
相模の小野に
火中に立ちて
吾妻あわやと
吾妻のもとや
久米邦武先生は、すごい歴史研究家である。
それは、ホツマツタヱが再発見される66年も前に、「オトタチバ
ナ姫が入水した走水の海が見える場所でなければならない」と
するとともに、『日本書紀』で伝説地に到るまでの道順が合理的
でないとした点である。
現在では、ホツマツタヱ文献があるため、そのことを文章より
確認ができる。
「ヤマトタケ 別れし姫お 思いつつ 東南を望みて 思いや
り」の文章は、「ウスヰの坂」より姫を思いやる情景が目に
浮かぶ。そしてウスヰの坂の場所は愛妻のオトタチバナ姫
が、「入水」した横須賀~上総間の浦賀水道の方向の
「東南」を「望める」場所であることになる。するとウスヰの坂
は、神奈川県の箱根山や足柄山などに「ある坂」と特定でき
る。このことから残念ながらウスヰの坂は、現在の碓氷峠で
はないことになる。また「吾妻あわや」などの「吾妻」を関する
「栃木の吾妻町」の履歴を調べて見ると、後の町名変更時に
改名された町名であった。
六代目~十代目 オオヤマスミの在位期間
オオヤマスミ (官職) の在位年数
オオヤマスミについて調査した結果は、オオヤマスミは世襲制
であり、六代目~十代目が、ホツマツタヱに記述されていた。
また、一人ひとりの在位年数を推定して見ると、次の通りであっ
た。
在位年数表 (普通暦に換算済)
①六代目のサクラウチが、
三十九年
②七代目のオオヤマカグスミが、 十六年
③八代目のオオヤマスミが、
十八年
④九代目のカクヤマツミが、
三十二年
⑤十代目のミシマミゾクイが、
五十三年
(推定の計算に当っては、不確定の年は、前後の年の平均年
とした。)
ホツマの世界 三島大社の祭神、ご由緒
積羽八重事代主神
それにしても積羽八重事代主神は、ツミハ、ツミハヤヱコトシロ、
コトシロ、コトシロヌシと呼ばれ、西東の要の地である三島、ハラ、
伊予を、大亀(舟)で警護されるなど飛鳥の宮の大物主を補佐す
る事代主(副大物主)の要職にあったことからも、三嶋大社に、
ミゾクイと祭られているご由緒が明白になった。
ホツマの世界 ツミハが訪ねた「ハラ」
三嶋大社に祭られている積羽八重事代主神は、大物主の副
として、西東の要の地である三島、ハラ、伊予を、大亀(舟)にて
往来されていた。
そして、その三島の所在地は、静岡県三島市の三嶋大社に
なる。伊予は今治市大三島に鎮座する大山祗神社になる。
二つの神社は大山祗を祭る神社として、古代より現在の地に
鎮座している。
一方「ハラ」であるが、現在、ハラを名乗る神社も宮も存在しな
い。だが、ホツマツタヱには、「ハラ」「ハラミ」「ハラミヤ」と記述し
ており、富士山をハラミヤマと呼んでいたことから推定すると、
富士山の周辺にあったと推定できるようだ。
今回、積羽八重事代主神が、三島、ハラ、伊予に出かけて、
いた記述に刺激されて、ツミハが訪ねたと云う「ハラ」の所在地
についてホツマツタヱより捜して見た。残念ながら「ハラ」の
所在地は不明であった。
だが、ツミハが訪ねた「ハラ」は、ニニキネ、ウツギネ、ミシマミ
ゾクイ等が治めた「ハラの宮」であり、この時は「オシクモ」が、
治めていたようだ。
主観であるが、ハラミヤマの周辺で「ツミハ」を祭る神社がある
とすれば、その地が「ツミハ」が訪れた「ハラ」の地と思いたい。
なぜなら、三嶋大社には、既に、ツミハが祭られていることから
も推定できるようだ。
オシヒトは、何故に伊豆雄走り(箱根)で
神上りされたか。
箱根連山は、神山(1,438m)、冠ヶ岳、駒ヶ岳より構成して
いる。その一角の箱根は日本有数の観光地である。
その観光の中心は、湯本、大涌谷、小涌谷、芦ノ湖であり、湖
畔の箱根神社であろうか。
現在の箱根神社の祭神は、「ワカヒト(アマテルカミ)」の孫の
「ニニキネ」であるが、ホツマツタヱでは「オシヒト」が、
「タ(本人)は箱根・・遂に掘る 伊豆雄走りの洞穴に、自ら入り
て ハコネカミ」 長弘本(24-48~24-49)と記述されている。
それなのに神上りの地は、箱根の「伊豆雄走りの洞穴」である。
このことを考えると、「オシヒトは、何故に箱根で神上りされた」。
この疑問が、箱根神社を訪ねる度に疑問になっていた。今回、
この疑問の謎解きに挑戦して見た。
また赤坂ホツマ研究会に出席すると、ホツマ暦のスス暦の
解読は理解するが、「オシヒト」は何歳まで長生きされたのかと
の質問もある。
その「オシヒト」の生れは伊勢であり、天日嗣(アマツヒツギ)し
て政治をされたのは、宮城県の多賀である今回、先ずスス暦で
「オシヒトの年表」を作成し、更に表中でスス暦⇒西暦に換算し
て、その西暦より「オシヒトの年齢」を推定して見た。
また、「暦は難しい」との意見を少しでも解消するように、
「オシヒトの年表」の作成方法、またスス暦⇒西暦への換算方
法も併せて、箇条書きにて説明文を追加した。
この結果、計算では約58歳~72歳くらいとなり、現在人と大
差ないような寿命であった。
また本文では、オシヒトの呼び名が「オシホミ」「ヲシホミ」「ヲシ
ホミミ」「オシホミミ」「オシヒト」「ハコネカミ」と呼び名が変化して
いるが、イミナ(実名)は「オシヒト」の一つである。
欠陥の「1鈴20年説」 、太陽暦に不整合な計算の証明
吉田説の「スス暦の暦法(太陽暦への換算方法)」の一端をご
紹介します。
ホツマ研究者の故水上さんは、平成6年以前に「1鈴20年説」
を提案されておられました。だが、この「1鈴20年説」は、暦法
から見ますと大きな欠点がありました。
欠点は、人の年齢が異常な高齢に計算される点です。
この原因は、
古代のスス暦⇒近代の太陽暦に 正しく変換できないためです。
なお、年代の年数については、計算ミスであっても 比較対象の
年が不明なため ミスに気付かない。このため、「1鈴20年説」
て計算された年代の年数を正しいと思い込むなどして、誤認され
ているようです。
例題
(1)長生きされた 白鬚神の記述
26アヤ(綾)11~12 十四鈴の年まで 長生きされた 白鬚神
「カレナガラエテ ソヨススノ ヨワヒウカワノ ミヤホメテ シラヒゲカミト
ナオタマウ」
「枯、長らえて 十四鈴の 齢、櫨川の
宮褒めて 白鬚神と
名お給ふ」
(2)欠点の「1鈴20年説」で計算された 白鬚神の年齢
式=十四鈴×20年÷1鈴となり、白鬚神の年齢は 280歳となります。
この280歳は、近代の研究で人間が生きられるとした120齢を 超過
すること 約2.3倍にもなります。
(3)吉田説での計算
吉田説は、古代のスス暦⇒近代の太陽暦への変換が、ホツマツタヱの記
述と近代の暦法に準じており 白鬚神の年齢が 正しく計算されるようです。
その白鬚神の年齢の答えは 約97歳になりました。この約97歳は 現在
でもお目にかかれる歳になるようです。
スス暦の年代、在位年数、年齢の計算の詳細を知りたい方は、
Web 学問 ホツマツタヱ講座をのホツマ暦法をご覧ください。
ホツマツタヱが面白い理由 読者の質問に答えて
・世の中の楽しさ、面白さは千差万別であろう。まして それは、
人それぞれであろう。
・ホツマツタヱの面白さは、この文献が未だ完全に解読されてな
点への挑戦である。現在、市中に出回っているホツマツタヱに
関する「本」は、研究者が解読できた部分のみを発表しているに
過ぎない。またホツマ紛い物が何故か、発表されている。
・このため我こそはと思う、若者・勇士は、ホツマツタヱ解読に挑戦
するが良かろう。この研究には、約8~40年の日夜がかかると
思う。私の挑戦は遅く手遅れ気味で面白さも半ばであろうか。
・現在の経済戦士は、否応なしに知識の消耗戦を余儀なくされて
いるだろうが、ホツマツタヱ解読で心のオアシスを楽しまれては
如何であろうか。記紀を解読しても、ホツマの解読にならない。
ホツマツタヱより「偽書」の質問が消えた
読者の質問に答えて
【ホツマツタヱ】
ホツマツタヱは一部の人より偽書と呼ばれて いたが、ホツマの
暦「スス暦」と「アスス暦」が解読されてからは、「偽書」の2文字
が消えた。 そして残る問題は「偽書」としたい人たちによるその
「証明内容」が、読者の理解を得た証明になっているかの「検証」
が残された。
またその証明の内容によっては、発表者のホツマツタヱに対す
る理解度も問われ兼ねないと云われ、好きでもないことにどれだ
けの研究ができるか、乞う ご期待したい。
ホツマツタヱ 三書比較本 監修の真偽
平成六(1994)年三月六日
私は、故・松本先生宅にいた。
先生より、単行本「ほつまつたへ」と梱包された 三書比較(コビー
版)」を渡されて、購入してきた。その「三書比較(コビー版)」である
が、先生より戴いた時には、梱包を開封された形跡のない梱包状
態で、私の手に渡っていた。その本は現在も私の手元にある。
最近、「ある人」が、三書比較の監修を松本善之助として、1995
年より発行されているが、先生が、開封もされてないものが、果た
して、監修できたのであろうか。疑念が残る。
今となっては、故人である松本先生は、ホツマ(真実)の人である。
また、監修とは・・・・・・。
本紙面について、意見があれば、教えて下さい。
編集者 q(~ ~)p (よ)
(注)
このホツマツタヱ入門の制作に当たっては、私のホツマツタ
ヱ暦研究および総てのホツマツタヱに関する書物より引用
しております。具体的な書名は省略とさせて頂きました。
最終版 2015年 2月 20日
237頁の編集が完結しました。これからも、よろしく。
(編集人)
(注記) PT作成開始:2006年1月1日